〈 2 〉
「・・・という夢だったの。小学校低学年のころだったっけ。」
紙のような薄いベーコンが数切れしか入っていないカルボナーラスパゲティをほおばりながら、稲森夏実が言った。
S百貨店9階の社員食堂でのランチタイム。まだ正午前で、広い食堂に人影はまばらだ。
夏実はS百貨店の案内所で勤務するデパートガールだ。有名デザイナー製の綺麗な制服に身を包み、百貨店の顔としてメインエントランスに立つ。華やかなイメージがあるが、毎日多数のさまざまな顧客に的確でスピーディーな応対を求められる仕事は、見た目以上になかなかハードである。ホテルマン並の接遇スキルと、店内外の正確な知識を前提に、現場状況に応じた頭の回転の良さも求められる。大都市の駅前にあるS百貨店は客数も多く、その客層も幅広い。海外からの旅行者も最近はとくに目立って増えている。外国人旅行者への対応はまた特有の難しさがある。
夏実はこの仕事について6年目になる。職場の中では中堅といったところだ。誠実かつ正確な応対には定評がある。英語も日常会話では不自由しないレベルだ。
「随分ハッキリ覚えているもんだね、細かいところまで。色も匂いも付いていて。」
コンシェルジュの小澄孝之が言った。テーブルを挟んで夏実の前に腰かけている。孝之はやたらと辛い担々麺とパラパラ過ぎるチャーハンのセットを口に運んでいる。
孝之はコンシェルジュとして4年目。それまでは百貨店のさまざまな売場を歴任してきた。経験を生かしながら、さまざまな売場を横断的に顧客に合わせた提案をする。そういう百貨店にしかできないサービスを担うというところにやり甲斐がある。
案内所の夏実とは同じサービス部門になる。顧客案内係として仕事上での連携の機会も多い。
その日はたまたまランチタイムが一緒になった。夏実とはプライベートな趣味でも共通点が多く、話が盛り上がることがよくある。
とりとめのない話を経て、共通の趣味の映画の話になった。他人の夢の世界に潜り込むという著名な映画の話題から、「昔見た忘れられない夢」のことに繋がっていったのだ。
「この夢は今でもハッキリ覚えていて、とても映像的だった。そしてね。」
夏実は身を乗り出して孝之に顔を近づけて、少し声を潜めて、
「そして不思議なことにこの夢はある事件を象徴的に指し示していたの。」
「ふーん。」
孝之は少し微妙な表情になってうなずいた。他人の夢の話にはリアクションが難しい。
孝之の表情を気に留めることなく、大きな瞳を見開いて、夏実は続ける。まっすぐに相手を見つめる夏実特有のまなざしに、ドキリとする眩しさを感じることが最近は増えている。
「この夢を見る数日前、私の家の近所の河原である事件があったの。幼なじみの健介君って男の子が頭を殴られたような傷を負って、倒れているのが見つかったの。顔が血まみれになって意識を失っていた。幸い命に別状がなく、3日間入院しただけで元気になったんだけど。健介君、怪我を負った時の記憶が飛んじゃってて、事件だったのか事故だったのか、状況の解明が難しかった。」
「夢にでてきたのが健介君だったというわけだね。夏実は現場を見たの?」
「現場は見なかった。話に聞いただけ。健介君のお見舞いには行ったよ。意外と元気だったけど、頭半分をおおった包帯が痛々しかった。」
「でも、それだけならそんなに不思議な夢でもなさそうだけど。」
「まだ続きがあるから聞いてよね。夢を見てから数日後、この事件の真相がわかった。健介君はその日、友達の陽太君と河原で石投げをして遊んでたの。向こう岸に向けて、どこまで遠くへ届くかを競ってたらしい。その時、陽太君の投げた石がすっぽ抜けて、運悪く健介君の頭に命中してしまった。健介君は気を失って倒れ、陽太君は怖くなって、当たった石を川の中へ投げ捨てて逃げ帰ってしまった。というのが事の次第だったの。陽太君は逃げた事を後悔して真実を明かし、健介君にあやまって、二人は仲直りした。」
「とんだ悲劇だったけれど、仲直りできてよかったね。」
「その後、二人の友情は続き、同じ高校へ進学した。二人はともに硬式野球部に入部し、バッテリーを組んで見事甲子園に出場したという後日談。」
「それはめでたしめでたし。だけど夏実の夢とどういう関係があるの。」
「甲子園は関係ないんだけど、ここからが肝心なところ。私の夢はこの不運な事件の真相をあらわしていたの。犯人の名前まで。わかる?」
夏実は試すような口ぶりで孝之を見る。孝之は首をかしげる。
「どういうことだかさっぱりわからないけど・・」
「私の夢で見た花はヒヤシンスだったのよ。考えてみてよ。ミステリーは好きだって言ってたじゃない。名探偵さん。」
「うーん、ちょっと頭をヒヤシンス・・・」
たまにオヤジギャグがでるのが孝之のくせだ。夏実は笑わない。
孝之はしばらく黙って考えたが、あきらめて降参した。
「全然わからない。」
夏実は軽く咳払いして話しだした。
「ヒヤシンスの語源はヒュアキントス。ギリシャ神話に出てくる美少年の名前よ。有名な神様のアポロンと良く一緒に遊んだらしい。でもある日、円盤投げをして遊んでいる時、アポロンの投げた円盤が頭に当たってしまい、ヒュアキントスは死んでしまうの。ヒュアキントスの流した血の中から生まれたのが、ヒヤシンスの花と言われてる。」
「神様でも手元が狂うんだ。かわいそうな物語だね。」
ギリシャ神話には詳しくない。孝之に考えてわかる問題ではなかった。
「ヒュアキントスが健介君で、アポロンが陽太君だったってことなのかな?」
「そうよ。だってアポロンは言い換えると・・」
「言い換えると・・・いいかえるは王子さまになりましたとさ。」
「真面目に考えてよ。」
夏実はふっと苦笑してから真顔になった。
「アポロンは太陽神なのよ。」
「うーん。」
孝之はうなってから、ちょっと言葉を無くした。感心したのが半分、信じられない気持ちが半分。子供の頃の記憶、まして夢なんてあいまいなものだ。
「疑ってるかもしれないけれど、これは本当の話なの。」
夏実の表情には真剣さがある。
「それにね、こんなふうに何か物事の真相を象徴するような夢は、それから後、何回か見たことがあるの。機会があればまた話すね。」
「まるで超能力だね。誰か他の人に話したことはある?」
「父には話したことがある。父が関わった事件についてのこともあったから。」
夏実の父は県警本部に勤めている。現在は捜査一課の警視だそうだ。
「父も最初は半信半疑だったけれど、私の夢が真相に迫っていると言えないこともなかったから、割合真剣に聞いてくれたりする。真相を言い当てているかどうかは解釈によったりするけどね。父によると、私の中にもう一人の名探偵としての人格が存在して、事件の真相を発見するんだけど、なぜだか言葉で伝達する術を持っていない。なんとかして私に伝えようとして、象徴的な夢を見せるんじゃないかって言ってた。ひとつの仮説だけど。」
「娘の話を真剣に聞いてくれるんだ。いいお父さんだね。でも、それにしても、普通に言葉で教えてくれたらいいのに。その頭の中の名探偵。」
「日本語を知らないのかも。もしかしたら日本人じゃないとか。でもね、こういう夢を見るときには必ず合図のようなものがあって、それが瑠璃色のカーテンなの。」
「瑠璃色のカーテン・・・」
「そう、深く青い瑠璃色のカーテンが開いてその夢がはじまり、瑠璃色のカーテンが閉じて夢が終わる。そしてその夢が、ある事件の真相をあらわしている。」
そう言って夏実は孝之から目を逸らすと、少し遠くを見る目をした。過去に見た夢の記憶を反芻しているのかもしれない。
孝之は夏実の話にはまだ半信半疑の気持ちが強い。しかし瑠璃色のカーテンの向こうにある夏実の夢が、本当に大きな意味を持つことがあることを、孝之はその後遠くないうちに思い知らされることになる。