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「っ!? ルカっ!」
ああ、なんてことだろうか。彼は私を庇って魔獣の尾を受けたのだ。魔獣はピクリとも動かなくなったルカを気にすることなく尾をゆらゆらと振りながらこちらを見ている。次の遊び相手はお前だとでも言っているのだろうか。ああ、
(……ふざけないで)
ぎりっと歯を食いしばる。体の底から沸々と湧き上がるこれは怒りだ。飢えを凌ぐために食べるでもなく、攻撃を受けたから身を守るでもなく、遊びでこのようなことをされるなんて、許せなかった。私は魔獣と対峙する。もう逃げようとなんて気持ちは一欠片もなかった。魔獣を睨みながらも、体内に存在する魔力に意識を向ける。
私は未来でディオン殿下の婚約者、つまり王妃になるための教育を受けていた。その中には古の魔術の歴史や特殊な魔術の実技なども含まれていたが、その時私はとある魔術を教わった。素早く魔力を放出し魔法陣を空中に描きながら髪飾りとして着けている紫魔石にも魔力を注ぎ込む。6歳の身体に存在する魔力など高が知れているが、しかし、この魔術は違う。魔石を介すことで魔力を何倍、何十倍にも増幅できる。これは本来王族以外には開示されない禁術だが、今の私にはそんなこと関係なかった。どうしても目の前の魔獣に一矢報いてやりたかった。
本来は別の用途に使う術だが、今回は私の怒りを形にして、目の前の魔獣にぶつけようと決めた。私は魔力で引き寄せられる限界まで空気中の水分を一点に集め、得意の氷魔術で凍らせていく。魔力が目に見えるほどの光の帯となり木々の間を駆け抜けていく。全身に力を込めて魔力を限界まで引き絞ると、そこには目を見張るほど巨大な氷塊が出現した。その大きさは大蛇も及ばぬほど、そして透き通ったその中には増幅された強力な魔力が激しい光の渦として輝いている。そして――
「――喰らいなさいっ!!!」
凝縮した魔力の塊というべきそれは、凄まじい轟音を放ちながら魔獣の頭部へ目が眩むほどの光を放ちながら炸裂したのだった。
強烈な魔力の奔流は殆ど爆発に近かったのだろう。周りの木々が魔獣を中心に放射状に曲がっており、枝葉の所々が凍っている。そして、砕け散った氷の細やかな破片が木々の間に差し込む太陽の光に煌めきながらはらはらと降り注いでいた。
一滴も残らないほど魔力を放出した私は、全身から力という力の全てが抜けてしまい柔らかな地面に崩れ落ちる。髪飾りの紫魔石も力を使い果たしたのか色が抜け落ちサラサラと砂のように崩れて風に流されていった。倒れ込んだ私は目だけをなんとか動かし魔獣がいた方向を見る。強烈な氷塊の炸裂を至近距離で浴びたそれはひっくり返って長い体を嫌がるかのように激しくくねらせていた。そしてしばらくじたばたともがくように暴れた後、起き上がったそれは背中の羽を開き、森の木々を薙ぎ払うように飛び上がり空中を滑るようにくねりながら空の果てへ飛び去っていった。
(やった、良かった……でも、ルカは)
私の盾になって、あの強烈な魔獣の尾を受けたのだ。きっともう――
「……ベルっ!」
彼の声が聞こえた。ゆっくりと目を向けると彼は離れたところに立ち、こちらを見て驚いたように目を見開いていた。纏っている服はぼろぼろになっていたが、動くことに支障はないのだろう。心配そうにこちらに駆け寄ってくる。
(生き、てる、の?)
「ベル! ベル、大丈夫!?」
彼が焦ったように私の身体を揺する。私は大丈夫と返事をしたいが、少しも力が入らないため声を出すこともできない。魔獣は去ったし、ルカも生きている。
(本当に良かった……)
緊張の糸が切れたためだろうか、安堵感と共に急に強い眠気が襲ってきた。それに抗うことはできず、ゆっくりと瞼が落ちてくる。薄れゆく意識の中で、どこか遠くから私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
誰かの声が聞こえる。
ベル、と私の名を呼ぶその声に導かれるようにゆっくりと意識が浮上していく。感覚を確かめると私の身体は横になっていることから、どうやら今まで眠っていたようだ。重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、私の顔を覗き込んでいた紺色の瞳と目が合った。
「お兄様……っ!」
「ベル! ……ああっ、無理に起き上がらないで」
咄嗟に起きあがろうとした身体を兄が優しく阻む。彼の腕に支えられながらゆっくり上半身を起こしてもらったが、ほとんど力の入らない全身は鉛のように重かった。地面に倒れた時に汚れたであろうドレスは簡素な白いものに替えられていた。誰かが着替えさせてくれたのだろう。
(ここは……どこ?)
私の意識が戻ったことに兄は半泣きで「良かった、良かった」と繰り返している。ゆっくりと辺りを見回すと、私がいるベッドの他には簡素なテーブルと椅子があるだけの質素な部屋だ。様子は診療所の個室に近いだろう。少なくとも我が家ではない。
「ここはどこでしょうか」
考えてもわからないので兄に問う。彼が言うには、ここは王城内の救護室だそうだ。どうやら彼はディオン殿下と共に、散歩から中々戻らない私を心配して探していたらしい。その時、森の中から大きな音がした上に魔獣が空へ飛び出していったのを目撃。私に何かがあったと悟り全力で森を走り回り、地面に倒れていた私を見つけてくれた。そして王城まで運んで医師に見せ、ひとまずこの救護室で目が覚めるのを待っていたそうだ。たくさんの迷惑と心配をかけてしまった。本当に兄には頭が上がらない。
「お兄様、ごめんなさい。ご心配をおかけしてしまいましたわ」
「いいんだ、今は、ベルが無事で本当に良かった……!」
あまりの申し訳なさから下を向いた私を兄は「気にしないでいい」と優しく慰めてくれた。ベッド脇の椅子に腰掛けた兄は簡単に今の状況を教えてくれた。両親は先ほどまで同室していたそうだが、魔獣が王城敷地内に出現したことに関する緊急の会合が開かれることとなったため今はそちらにいるようだ。
本来人里離れた秘境にしか存在しない魔獣、それが王都に現れたことは極めて異常な事態だ。そのため、国王や私たちの父であるヴァロトア侯爵を含む高位貴族たちは至急、各々の領地内の安全のため対応策を練る必要があるのだ。あれほどの力を持った生き物が人里に降りてきたという事実は彼らに大きな不安を与えた。
そしてあの後、お茶会に参加していた他の貴族の子供たちも森から飛び去る魔獣を目撃したため、あの場では少し混乱があったようだ。そのため会は中断、子供たちは王属の騎士たちに護衛され帰路に着いたらしい。
(そうだ、ルカはどうなったんだろう)
眠ってしまう前に見た姿は大丈夫そうであったが彼は魔獣の攻撃を受けたのだ。もしかすると怪我で苦しんでいるのかもしれない。彼も王城で治療を受けているのだろうか。それとも体に何事もなく他の子供たちと同じように領地に帰ったのだろうか。
彼は説明が終わると私の頭を撫で、目覚めたことを医師に知らせに行った。数分も経たずすぐさまやってきた医者にはやはり魔力不足と診断された。これは数日間程度安静にしていれば回復するものだ。それを聞いた兄は胸を撫で下ろしていた。
「良かったねベル。しばらくはゆっくり過ごそう。帰ったらベルの大好きな本を読んであげるよ」
「わぁ、ありがとうございます、お兄様」
診察が終わった医者が退室するのと入れ替わりで2人の少年がこの救護室に入ってきた。神妙な面持ちのディオン殿下と、そしてその後ろに立っているのはルカだ。少し固い表情ではあるが問題なく歩いているので、どうやら無事だったようだ。ディオン殿下が私に向かい、柔らかい表情で声を掛けてくる。
「ベルティール嬢、体の具合はどうかな」
「ディオン殿下、ご心配をおかけしまして申し訳ございません。魔力不足だそうで、安静にしていればすぐに治りますわ」
それは良かったと彼は言う。兄だけでなく、第一王子である彼にまで心配を掛けさせ、私を探させてしまったことは非常に申し訳なかった。そのことに私が落ち込んでいると、ディオン殿下の後ろにいたルカが私の前に出てきた。魔獣の件で汚れてしまった服は着替えたようで、彼の身なりは整えられていた。汚れなどは1つもなく、先ほどあのようなことがあったとは思えないほどだ。大丈夫そうで良かった。彼は心配そうに私に話しかける。
「ベル、大丈夫?」
「ありがとう、ルカ。私は大丈夫よ」
私のその発言に、少し後ろに控えていた兄が慌てたように前に出てくる。
「ああ、ルーカス殿下、申し訳ございません。妹がご無礼を」
「なぁんだ。別にそんなこと構わないよ、ライ」
頭を下げる私の兄に対してルカはなんてこともなさそうに振る舞う。ディオン殿下はその様子を見ながら控えめに笑っていた。
しかし、私はそれどころではなかった。先ほどの兄の言葉を反芻する。
『――、ルーカス殿下、申し訳ございません。――』
(……ルーカス殿下、ルーカス『殿下』!?)
その瞬間、私の脳内に急速に未来の記憶が蘇ってきた。混乱する脳裏に浮かぶのは、遠くからでも目を引く、燃えるような鮮やかな緋色。ああ、どうして、私はこんなにも重要な人を忘れてしまっていたのか。
「……ルーカス殿下」
無意識に、小さくその名を呟く。
ルーカス・ド・リュドルシュバーグ。
――彼はあの時暗殺された、この国の第二王子だ。
「あの魔獣、まだ子供だったんだって。ほら」
彼は紐で束ねられた紙の束をパラパラとめくり、その頁を私に見せてくれる。そこには先ほどの魔獣によく似た羽のある大蛇が大きな城に巻き付いている様子が仰々しく描かれていた。そしてその横に小さく『幼体』が描かれている。目玉に見える斑模様のそれは先ほど遭った大蛇そっくりだ。
「あと何百年……何千年か経って大人になったら、あの目玉模様が消えて、この城を一周できるくらいに大きくなるんだって」
あの後、兄とディオン殿下の計らいで私とルカ――ルーカス殿下は2人きりで話をしている。彼はどうやら私が眠っていた間、国王陛下にあの場の状況を説明し、その後、王城の書庫で魔獣の研究資料を探していたようだ。そうして見つけたこの資料を今、私に説明してくれていた。あの魔獣はまだ子供であったということは、私たちに襲いかかってきたのは本当に遊び感覚だったのかもしれない。まるで人間の子供が虫を捕まえ、羽をむしってそのまま殺してしまうような、それに似た無邪気な残酷さを感じた。
「……ルーカス殿下」
「えー、ルカって呼んで?」
「いえ、そのような訳にはいきませんわ」
先ほどまでは知らなかったため普通に呼んでいたが、第二王子に対して愛称で呼び捨てなどは侯爵令嬢である私の地位を持ってしても周囲の目が痛い。
「さっきまではルカって呼んでくれてたのに?」
「う……じゃあ、ルカ様でよろしいでしょうか」
「それもちょっと堅苦しいからヤダなぁ」
なかなか痛いところを突いてくる。それにしてもこの王子、どうやらかなり我が強いようだ。だがこちらとしてもここで引く訳にはいかない。後が怖い予感がするのだ。
「ルカ様、でお願いします」
「うーん……わかった、今はそれでもいいよ。今はね」
良かった。あまり納得はしていなさそうではあるものの、折衷案で妥協してくれたようだ。今は、というところが不穏であるが。気を取り直し、私は先ほどから気になっていたことを彼に問う。
「ところでルカ様、お体は大丈夫でしょうか」
「体? 大丈夫だよ?」
なんと一切の怪我が残っていないようだ。そのようなことがあるだろうか。あれは生身で受けていい威力には見えなかったが。
「あー、俺、結構体が丈夫なんだ。だからあれくらいならすぐに治るから平気」
私の疑うような目を気にしてか、彼は「生まれつきそういう体質なんだ」と教えてくれた。そういうものだろうか。納得していいのだろうか。ただ、仮にそうだとしたら1つ疑問が湧いてきた。
「ではもしかして、例えばですけど、心臓を突かれても大丈夫だったりとかは……?」
「心、臓……は、ちょっと、無理だと思うな」
彼は心臓と聞いてどこか苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたが、すぐさま否定してくれた。良かった。いや良くない。本当に全く良くはないが、あの時の未来で心臓を突かれて暗殺された時に『実はそれでもまだ生きていました!』と言われたらそれはそれで怖いと思ったのだ。
彼と会話をしながら、未来のルーカス殿下について回想する。あの時の未来では、私と彼はほとんど面識が無かった。学園入学が近くなった頃、王妃教育を受ける際に王城で数度すれ違ったことがあった程度だ。かなり遠巻きにではあったが目立つ容姿だったので彼だとすぐにわかった。彼は同い年ではあったが学園にはほとんど登校しておらず、接点がないままそのまま1年目の冬に暗殺されてしまった。
――初めてその姿を間近で見たのは、彼の葬儀の時であった。その日は朝から雪がはらはらと舞うとても静かな日だった。たくさんの花が敷き詰められた棺の中で、彼は眠っているかのように穏やかな表情をしていた。降り積もる真っ白な雪にその緋色の髪が哀しくも美しく映えていた。まさかそんな彼とこのような形で出会うとは思わなかった。そして、彼の瞳はこんなにも眩い金色だと知った。
「――ベル」
私を呼ぶルカの声で、はっと意識が現実に引き戻される。私は慌てて「なんでしょうか」と返事をする。
「ねえ、ベル。さっきは助けてくれてありがとう」
「いいえ、先に私を助けてくれたのはルカ様ですわ。ルカ様がいなかったら、私、きっとあそこで死んでいましたもの」
これは事実だ。彼ほど丈夫でない私にとってあれはおそらく一撃であった。彼があの時私の前に飛び出してくれたからこそ、今この命があるのだ。彼には感謝してもしきれない。彼は私の言葉を聞き、にっこりと笑って続ける。
「それでも、俺は嬉しかったよ。俺のためにあの魔獣を追い払ってくれたんでしょう?」
すごくかっこよかった、と彼は言う。
「それに、一緒に遊べて俺、すっごく楽しかったんだ!」
「それは、私も楽しかったですわ」
夢中になって、あっという間に時間が過ぎる、そんな楽しい時だった。
「うん、だからさ――」
途端、真剣な表情になる。こちらを見据える金色の瞳から目が離せない。そして、
「ベル……いや、ベルティール嬢。俺の婚約者になってください」
思考が止まった。今、なんて――
「俺の婚約者になってください」
頭が全く働かない。
「……聞こえてる?」
「あっ、き、聞こえていますわ」
「じゃあ俺の婚「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」」
思わず思い切り被せるように遮ってしまった。これは不敬にはあたらないだろうか。そしてどうしてこうなった。どうしよう、押しが強い。帰ってきた思考で脳内が大混乱する私に対し、彼はさらに追撃してくる。
「まだ誰とも婚約してないんだよね? だったら俺でもいいんじゃないの?」
「な、何故私なのですか」
「俺はベルがいいと思ったから。それじゃダメ?」
「と言われましても、その、」
なんて言えばいいかわからず言い淀む私に彼の表情が曇る。そして囁くような小声で言う。
「……もしかして兄上の方が良かった?」
その言葉を聞いた私は反射的に首を横にぶんぶんと振った。ディオン殿下との婚約は個人的には遠慮したい。もちろんディオン殿下自身が嫌なわけではないのだが。むしろ文句は全くないのだが、この後の惨劇を思い出すと遠慮したいのだ。
私のその様子を見た彼は機嫌が良くなったようでまたにこにこと笑っている。
「そっか、じゃあそれならいいでしょ? 俺と婚約して?」
「……すっ!」
「す?」
駄目だ。このままでは押し切られてしまう。ここは一旦逃げよう。そうして時間を稼ごう。焦る頭でそう思った私は口を開いた。
「……少し、ゆっくり、考えさせてください」
そして私はこの言葉を心底後悔することになるのであった。