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「私はディオン。ディオン・ド・リュドルシュバーグだ、よろしく」
「初めましてディオン殿下。私はベルティール・ド・ヴァロトアと申します」
こちらこそよろしくお願いいたしますと続け、失礼のないよう丁寧なカーテシーを行う。
「君のことはそこのライ――ああ、君の兄君のライオネルから聞いているよ。なんでも急に思い立って自分で髪を切っちゃったんだとか」
「……お兄様?」
「すまない、ベル。殿下と最近どうかという話になって、その流れでね」
「ああ、だがその流れだとライが話をしたのは私のせいみたいじゃないか?」
と言って2人は共にあはは、と控えめに笑い合う。その麗しい少年2人の笑顔を見た周囲の令嬢たちは色めき立った。
(あれ……?)
兄は勝手に私の散髪騒ぎのことをディオン殿下に伝えていたが、殿下のこの様子から見るとそれは面白いこととして伝わっているようだ。今のところ髪が短いことによって印象が悪いという雰囲気はない。細かいことは気にしない方なのかもしれないが、婚約者の候補から外れるためにはこの状況は少しよろしくないだろう。どうにか不敬にならない程度に好感度を下げたいところだが、今のところ何も打つ手が浮かばない。
いや、今は考えることより目の前の殿下のことに集中しよう。そう思い改めてディオン殿下に目を向ける。彼は今、私より1つ歳上の7歳だ。しかしその雰囲気は同年代の周りの貴族令息たちとは比べ物にならないくらい大人びている。彼よりもさらに1つ歳上である私の兄の方がむしろ歳下に見えてしまうほどだ。おそらく王太子としての厳しい教育やいずれ国を背負う者としての様々な重圧が彼をそうさせているのだろう。未来においてもそうであった。成長した彼は普段の優しく聡明な姿に惑わされがちだが、謀にも強かった。老獪な国の重役たちに対しても臆することなく立ち向かい、逆に手玉に取ったことさえもあったのだ。そんな彼の力があったからこそ、王太子として確固たる立場を築き、兄弟間の派閥争い自体はあるにはあったもののそれが表面化することはなかったのだ。――『聖女』との出会いと、あの事故が起こるまでは。
(とても優秀な人だったのよね。為政者として活躍できたならきっと素晴らしい結果を残せたでしょう。でも、)
……いや、今はまだ起こっていない未来を悔やんでも仕方がない。この話はやめよう。彼との未来を回想しながらも2人と他愛もない雑談をしていたのだが、そろそろ話を切り上げたいところだ。ずっと彼らと話していたため徐々に周りの令嬢たちからの視線の圧が強くなってきた。彼女たちも2人と交流したいのだ。そしてあわよくば婚約者になりたいと願っている。私1人がこの時間を独占して良いものではないので、彼女たちのためにも速やかに場を譲ろう。
「私、少し疲れてしまいましたので、中庭を散歩してきますわ」
「そうだね、ベル。あまり顔色も良くないようだし、息抜きをしてくると良い」
話のキリが良くなったタイミングで声を掛けると、私を心配しているだろう兄がありがたいパスを出してくれた。それに乗じて失礼いたします、と続けて礼をしてそそくさとその場を後にする。2人は無理しないで、という言葉をかけてくれた。ちなみに私が離れたその瞬間、2人は多数の令嬢たちに囲まれてしまった。皆、意外と逞しい。
私は中庭から少し離れたところで木々が生い茂る緑の中へ向かう小道を見つけた。自然豊かなその場所は気分転換には丁度良いだろう。どこか人目につかないところに行きたいと思った私は、その奥に向かって足を踏み入れた。緑の小道の中を進んでいくと、すぐに中庭は見えなくなった。一面が緑に囲まれていて空気が美味しい。深呼吸すると清々しい空気が胸いっぱいに広がる。
「良い場所ね。王城の敷地にこんな場所があったなんて、今まで知らなかったわ」
殿下の婚約者として王妃教育を受けている間に王城には頻繁に来ていたのだが、案外見落としているものだと思う。気分良く足を進めていくと、ふと、視界の外れに違和感があり足を止めた。何かが過ぎった気がしたのだ。念のため目を凝らしてそちらを見てみると緑の合間で何か赤いものがぴょこぴょこと動いている。だが遠くて何かまではわからない。
(鳥? 動物かしら?)
屈んで茂みの陰に隠れながら足音を立てないよう慎重に近づく。珍しい動物だとしたら、と思うと好奇心が抑えられなかった。じりじりと近づいていくと、それが何かわかった。緑溢れる森の中、鮮やかな緋色の髪の少年がたった1人で遊んでいたのだ。その幼い見た目から考えると年齢は私とさほど変わらないだろう。
(それにしてもあの髪の色、どこかで)
目の覚めるような緋色の髪はどこか見覚えがある気がした。未来の記憶を辿ってみるが、なかなか思い出せない。少なくとも身の回りにいた人物ではないはずだ。もう少し顔がよく見えれば――その時、思考に捉われ足元が疎かになっていた私は、落ちていた小枝を踏み折り、ぱきっという音を立ててしまった。
「誰っ!?」
その音に少年が慌てたようにこちらを振り返る。突然現れた私に驚いているようだった。
「い、いえ、怪しいものではございませんわ!」
「その言い方はむしろ怪しいよ」
咄嗟に妙なやり取りをしてしまったが、落ち着いて事実を話したところ少年は納得してくれた。お茶会を抜け出し散歩をしていたのだと正直に言ったところ彼は心底愉快そうに笑っていた。そして彼は『ルカ』と名乗った。代わりに私は『ベル』と名乗る。話を聞いてみると彼は私と同い年で、隣に立つと私よりも少しだけ小柄だった。非常に目を引く鮮やかな緋色の髪は近くで見ると意外と柔らかそうな質感で、瞳の色は底まで透き通るような澄んだ金色。顔立ちも整っており、先ほどのお茶会にいたのならば令嬢たちの注目の的になっていただろう。
「へー、なんでベルはお茶会抜け出しちゃったの?」
「みんな私のことを遠巻きにしてたんだもの。いないほうがいいでしょう?」
「そうかな?」
「そうよ」
「俺だったら逆にわざと居座っちゃうかも?」
そのほうが面白そうだし、と続ける彼にため息をつく。
「……あなた結構良い性格しているのね」
「それほどでもー」
「……褒めてはいないわ」
ルカ、か。私の未来の記憶を思い返してみても身の回りの貴族たちにそのような名前の人物は見つからなかった。では全く関わりの無かった人物、だとしたらどこかから紛れ込んだ平民かとも思ったが、その割には良いものを着ている。お茶会に来ていた辺境の貴族令息辺りであろうか。彼はどうやらここで秘密基地を作っていたらしく、何故か私も一緒に作業をすることになってしまい木の枝を集めて言われるがまま重ねていく。勝手に王城の庭にこんなものを作っても良いのかと言われると微妙だが、お茶会での殿下たちとのやり取りや令嬢たちからの圧などで妙に心労があった私は、今は単純に気晴らしがしたい気分だった。後で怒られてもいいやとこの時は思っていた。
他愛もない会話をしながら枝を積み重ねていくと、少しして子供1人くらいなら入れそうなドーム状の基地が出来上がった。ルカと2人でする作業はとても楽しく、気がついた時にはいつの間にか夢中になっていた。完成したことの達成感から思わず笑顔になってしまう。ルカも楽しかったようでしばらく2人で出来上がった基地で遊びながら笑い合った。私は侯爵家に生まれたためか普通の子供らしい遊びなんて今までほとんどしたことがなかった。加えて、こういったらなんだが彼は適度に『雑』な性格をしており、堅苦しい貴族社会で生きていた私にとって家族以外にも気を抜いて話ができたということは新鮮な経験であった。そういえば、と私はルカに対して疑問を口に出してみた。
「ところであなた」
「ルカって呼んでー」
「じゃあルカ。ルカはどうしてこんなところで遊んでいたの?」
「んー? 俺はねー、なんとなく?」
「なんとなくって、あなたお茶会に――」
その時だった。
――ずり、ずり、がさ、
そんな妙な音が聞こえた。途中まで喋っていた口を咄嗟に噤む。森の奥からゆっくりと茂みを掻き分けて、何かとても大きなものがこちらに近づいてきている。ルカもそれに気がついたのか先程まで楽しそうだった表情は固く強張っていた。
「何の音……?」
(人? にしては、随分と大きい気が)
2人で茂みの陰に隠れ、音が聞こえる方向を伺う。数秒ほど経った頃か、森の奥からゆっくりと1匹の大蛇がその姿を現した。その姿を見た私たちは息を呑む。
それは通常の蛇とは異なる容貌をしていた。頭から尾の先まで大人20人程の長さは軽くあり、胴は馬を数頭は飲めるだろう程の太さだ。背中には4枚の羽があるようだが今は小さく畳まれている。広げたらかなり大きいだろう。それに加えて鈍い灰色の身体中には大きな目玉にも見える斑模様があり不気味さを醸し出している。瞼がないためか瞬きを一切しない黄色い丸い眼の中の瞳孔は縦に長い。背中の羽ととんでもない巨体を除けば、一般的な毒蛇の容姿に近い。だが、――これは、魔獣だ。
魔獣、それはこの世界を支配する頂点捕食者だ。血流と共に強大な魔力を体内に循環させており、その影響か他の生物よりも圧倒的な巨軀に育つ。種によって生態は様々で、1匹で広大な土地を縄張りとするものもいれば複数で群れを作り渡りを行うものも存在する。陸海空の全てに存在し、そしてどの種も高い知能と非常に長い寿命を持っていると推察されているが、観察が非常に難しいため研究は難航している。どの種も通常の生物とは隔絶した存在であり、大自然の象徴として人間からは畏怖の対象とされている。
もっとも、基本的には自然豊かな未開の地に棲息しているため、普通に暮らしている人間が彼らと遭遇することなど滅多になく、大抵の人間は一生に一度見ることすらないのだ。通常では。
なら何故このような街に囲まれた場所にいるのか。
羽を持つ大蛇の魔獣は、ちろちろと長い舌をちらつかせながら私たち2人の目の前をゆっくりと横切っていく。
(いけない。このままお茶会の場所に向かってしまったら危険だわ。でも)
果たして私たちに何ができるだろうか。たった6歳程度の子供が2人だ。王城内には騎士たちもたくさんいる。戦闘技能に長けた彼らにどうにかしてもらう方が得策だろう。限界まで息を殺し、茂みの陰に縮こまって身を隠す。私たちにはそれが去るまで震えて待つことしかできない。
「あっ」
小さくルカが声をこぼした。その声に反射的に顔を上げ、魔獣を見た。そして、それと目が合ってしまった。
(えっ、見つかった!?)
その眼は明らかにこちらを見据えていたのだ。危機感からか全身に鳥肌が立つ。
「あーごめん! たぶん俺の髪の毛のせいだ」
彼がすこぶる申し訳なさそうに謝罪する。そうだ。一面が緑に囲まれた空間において、彼の鮮やかな緋色の髪は非常に目立つのだ。茂みの中に隠れたものの、隙間からそれが見えてしまったのだろう。だがそれを責めても仕方がない。
「それは――そうかもだけど、ルカは悪くないわ!」
ひとまず逃げましょうと声を掛け、彼の手を引き、魔獣と離れる方向に全力で駆け出す。可能な限り離れるのだ。息を切らして走る私たちの背後から大蛇がするすると滑るように追ってくる。その動きは速い、が、おそらく手を抜いている。距離を縮めないようにこちらの走る速さに合わせて追いかけてきていることが感覚的にわかった。本気を出すまでもない、圧倒的な頂点捕食者である魔獣にとって人間の子供などおもちゃみたいなものなのだろう。
(もしかして、遊ばれている?)
そうは思ったが、だとしても足を止める訳にはいかない。その巨軀に捕まりでもしたらただではすまないだろう。全力で走り続けるしかなかった。しばらく追い回されたが、大蛇はこの『遊び』に飽きたのだろうか急に速度を上げ、その長い身体で私たちの行手を阻んできた。もう逃げ道は無くなった。走り続けていた私たちは息が切れており、これ以上は逃げられない。
(戦うしかない? でも魔獣に勝てるわけ――)
「ベルっ! 危ないっ!」
「えっ」
背後からのルカの声に振り返ったその瞬間、私は視界の全てが止まったかのように感じた。魔獣の長く太い、丸太のような尾が鞭のように私に迫っていた。それは魔獣にとっては小動物と戯れているのか、それとも目障りな羽虫を払っているのか、そのような気軽さだった。だが圧倒的な質量のそれが当たってしまったら私のこの小さな身体では一溜りもないだろう。
ああ、せっかく過去に戻ったのに今度はここで死んでしまうのか。来る衝撃に備え、ぎゅっと強く目を瞑る。――しかし、私の身体には想像した衝撃は無かった。はっと目を開くと、眼前に緋色の髪が踊っている。彼が私の前に立ち、魔獣の尾に弾き飛ばされていたのだ。私は目を見開いた。
腹部に凄まじい衝撃を受けた身体は2つに折り畳まれたと思うほどひしゃげた『くの字』に曲がり、振り払われた勢いで背中から強く木の幹に叩きつけられた彼の身体は力を無くし、まるで投げ捨てられた人形のように、どさりと地面に落ちた。




