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「お嬢様、終わりました……いかがでしょうか」
どこか不安げな声を聞きつつ、鏡の中の姿を確認する。手が震えていたとはいえ普段から私の散髪を行なっているだけあって、中々の技量である。肩より少し上で寸分の狂いもなく切り揃えられた髪は柔らかな天使の輪を作っており、頭を動かすたびサラサラと流れるそれは、物心ついた頃から常に長髪であった私にとってこれまでにない感覚だ。
「いいじゃない! ありがとう、ユミィ。気に入ったわ」
彼女は私の言葉に安堵としたように息をついた。
第一王子との婚約を回避するため、私はまず長く美しい髪を短く切り落とした。もったいないとも思ったが、覚悟を決めて肩の上あたりでバッサリと切ったのだ。自ら鋏で切ってしまったため、それを見た使用人たちにはお腹の奥から捻り出したような凄まじい悲鳴を上げられ、中でも私のお付きの使用人ユミィは白目を向いて卒倒してしまった。そこまでだったとは。本当に申し訳ない。髪を切るだけで皆にそこまでの衝撃を与えるとは思わなかった。毛束が乱雑になってしまった髪型はそのままではいけないため、細かい部分をユミィに整えさせた。彼女の鋏を持つ手が酷く震えていたため変なところを切られやしないかと少し怖かったが。
「お嬢様のお役に立てて光栄でございます。……でも、良かったのですか? 大切に伸ばしていらっしゃったのに」
「いいのよ。一度こうしてみたかったの。清々しい気分だわ。ふふ、可愛い?」
「ええ、とても可愛らしいです」
まるで天使のようです、と続ける彼女はにこやかな笑みを浮かべている。嬉しそうな彼女の表情を見て私も嬉しくなる。前回は惨劇の中で失ってしまったこの笑顔を今回はずっと見られるよう、これからの覚悟を改めて心に刻もう。
髪を整え気分が上がった私はるんるんと気分良く屋敷を歩く。そんな私を通りすがりの使用人がギョッとした目で見てから気まずそうに目を逸らす。
(……まあ、そうでしょうね)
ユミィはこの髪型を気に入ってくれたようだが、他の使用人たちが裏で「お嬢様は気が触れてしまったのでは」などと言っていることは知っている。それもそのはず、この国では長く美しい髪が貴族女性の大切なステータスの1つとされているのだ。母曰く、長い髪を美しく保ち続けるだけの財力や権力、余裕などを持っていることの誇示らしい。それを自ら切り落としてしまったのは彼らにとって異常なことに思えるのだろう。前回は何とも思わなかったが、今は権力アピールなど少し煩わしく感じる。どれだけ力を誇示しようと崩れる時は一瞬なのだから。それを身をもって知ったのだ。
今回私はこの貴族の権力誇示を逆手に取ることとした。髪を短くして貴族女性としてのステータスを意図的に下げることで、これから選定される第一王子の婚約者候補からやんわりと外れようという狙いだ。第一王子の婚約者、つまり一国の王妃となるべき女性を選ぶのだ。貴族として魅力が高い者が選ばれるはず。最初から候補にすらならなければそもそもの婚約の打診すらなく穏便にことが進むだろう。我ながら良い作戦だと思う。
記憶が正しければそろそろ王族が中心となった貴族たちのお茶会――という名目の子どもたちのお披露目会があるのだ。前回はそこで彼と出会った。今回はこの姿を見せて婚約の話を回避しよう。
(うまくいくといいのだけど)
そして余談だが、もっととんでもない奇行を見せて第一王子に引いていただく、ということも考えた。しかしあまりやり過ぎると以降の暮らしに影響が出そうだったので諦めた。私だけならともかく、侯爵家の評判に関わってしまう。最悪絶縁されて領地の外に放り出されるだろう。貴族令嬢として生きてきた私が平民として生きていけるかと言われると正直自信はない。
さて、この後どうしようか。そう考えながら廊下の角を曲がると、そこには年上の少年が立っていた。彼は驚いた表情で声を発する。
「うわ! どうしたんだい、ベル。その頭、誰かに切られたのかい?」
「? あっ……お兄様!」
兄に自分で髪を切って、ユミィに整えてもらったことを話す。頭と体が6歳のものであるためか少し説明がうまくできないところもあったが、彼はそんな私を急かすこともなくゆっくり頷きながら聞いてくれた。
艶やかな髪は濃い葡萄色で、まだ幼い今でも毛先までしっかりと整えられている。少し垂れ目なため優しい印象を受けるが、その奥にある深い紺色の瞳は私と同じだ。私の兄――ライオネル・ド・ヴァロトア。私より2歳年上で今は8歳のはず。ヴァロトア侯爵家の後継者である。顔つきのせいか年齢よりもどこか大人びて見える。前回の学園生活を振り返ってみると、その大人っぽい色気漂う風貌から貴族令嬢たちの視線をたくさん受けていたが、今の時点で既にその色男の片鱗が感じられる。ちなみに後継者教育として父と共に頻繁に王城に向かっているため、彼は既に第一王子と顔見知りのはずだ。
私の話を全て聞き終えた彼は困ったような表情で口を開く。
「まさか、ベルが自分で切ったとは……」
「切りたくて切ったの。だって、短くしてって言っても誰も切ってくれないでしょう?」
「それはそうなんだけどね。うーん、お父様とお母様はなんて言うかな」
貴族令嬢として不利になることを自ら行ったのだ。厳しいことを言われる覚悟はしている。両親共に優しくも厳しい。甘いところもあるが、子供のためになることならと凄まじい厳しさを見せることもあるのだ。まさかとは思うが、この程度で摘み出されるようなことはないと信じたい。少し不安な気持ちが伝わったのか、兄がそっと私の頭を撫でる。
「しょうがないな、僕はベルの味方でいるよ」
「! ありがとうお兄様!」
優しい兄なのだ。しかし前回はその優しさが仇となってしまった。最後に見た彼は国からも領民からも責められたことによる自責の念と極度の心労で痩せこけ、憔悴し切った虚な目をしていた。私の処刑の際には既に国外に逃亡していたが、その後どう生きたか、生き延びられたのかはわからない。そう考えながら、私はまだ小さな手をぐっと握った。
夕食の席に着いた私を見た両親は目を見開き絶句、それはそれは驚いていた。そのあまりの驚きぶりに隣に座った兄も口をぽかんと開けて驚いていた。だが、それよりも私は父から目が離せなくなってしまった。
(――お父様が生きている)
また会うことができた。それだけでこんなに嬉しいとは思わなかった。ずっとずっと謝りたかった。10年先の未来でしてしまったことの後悔が次々と溢れ、視界が滲む。
「ごめんなさい」
私は涙を流しながら何度も繰り返し父に謝罪した。未来で起きたことなど何も知らない父はそれを髪を切ったことに対するものだと思っていただろう。でも、それでも良かった。泣き続ける私を両親と兄は抱きしめて宥めてくれた。
結論としては、兄がそれとなく味方をしてくれたこともあり、私の散髪について両親からお許しが出た。ただしお披露目会には必ず参加するようにと厳しく言いつけられたが。
慌ただしく時は過ぎ、気がついた時にはお披露目会の当日になっていた。この日、私は『初めて』第一王子と対面することになる。
「お嬢様、あとはこれを着ければ出来上がりですよ」
「いつもありがとう、ユミィ」
短い髪をリボンと共に編み込み、花を模った紫魔石を組み込んだお気に入りの髪飾りを着ける。その丁寧な手つきと真剣な目から私をできる限り可愛らしく見せたいというユミィの心遣いが伺える。あれからどうにか髪の長さ以外のステータスも下げられないかと思案してみたものの、この時点でできることは限られていた。この『勝負の日』に向けて皆が私を良く見せようとしているのである。
身に着けているドレスをちらりと見る。髪や瞳の色と合わせ、白、紫、紺の三色を主としてデザインされている。生地の大部分は紫色で油断したら過剰に大人っぽく見えてしまう色合いではあるが、要所要所にたっぷりとあしらわれた白のフリルや花柄の刺繍が可愛らしい子供らしさを演出し、絶妙なバランスを持って私を引き立てていた。このドレスを選ぶだけでも一苦労だった。数日掛かって数えきれないほどの枚数を試着し、最終的にはデザイナーを雇い仕立て屋に新たに作らせることでようやく両親が納得するものになった。それほど侯爵家にとってこのお披露目会は重要視されているということだ。両親は当然、私が第一王子の婚約者――ひいては王妃になることを望んでいる。それが侯爵家並びに王族の権力を高めることに繋がるからである。
王族の婚姻はほとんどの場合において政略結婚になるとはいえ、私の他にもその候補となる令嬢は何人かいる。そして婚約者の決定には第一王子の本人の希望も考慮されるため、彼に気に入られるよう可能な限り娘を良く見せたいのだろう。私個人としてはあの時、倒れた彼を直向きに支えたあの『聖女』が最も彼に相応しいと思ってしまう。いつか2人がまた出会うなら次こそは幸せに結ばれてほしいものだ。
(そもそも私が彼の婚約者になったところでその後は安泰ではなかったのだし)
両親には申し訳ないが、ここは全力で回避させていただこう。それがこの先の未来を守ることに繋がるはずだ。そう心に決め、私は家族と共に王城へ向かう馬車に乗り込んだ。
まさかこの後、私たちの運命を大きく変える出会いがあるとはこの時の私には想像もつかなかった。
両親や兄と共に馬車に小一時間ほど揺られる。ヴァロトア領は王都近郊であるため、家族水入らずの他愛もない会話をしていればすぐに王城に着くのだ。王城敷地内の会場に向かうため馬車は緑豊かな広場を進んでいく。ここは最後の記憶の中では酷く荒廃し、そして私の処刑現場となった場所だ。だが今はまだ美しく手入れされた憩いの場として民に提供され、愛されている。王城の正門付近では本日招かれた貴族たちの馬車が忙しなく行き来しており、我々の馬車もその流れに乗って正門をくぐった。家ごとに指定された場所に馬車を止め、お茶会の会場へと向かう。ここで両親と兄は他の貴族たちとの交流のため、別会場へと行ってしまった。兄が去り際にとても心配そうな表情をしていた。そう、ここからは1人だ。気を引き締めていこう。
会場は城の中庭に作られていた。幾つかのテーブルには軽食や菓子などが置いてある。何人かいる給仕に紅茶を淹れてもらい、皆は自由にテーブルを囲み交流をするようだ。私も早速、紅茶を貰い、空いているテーブルに向かう。他のテーブルではもうある程度グループができているようだがそこに入り込むつもりはない。紅茶を飲みつつ辺りを見渡すが今のところ第一王子はいないようだ。しかし、彼は来る。その時を待とう。
(それにしてもわっかりやすいわね!)
先程から明らかに他の貴族令嬢たちから遠巻きにされている。私の短い髪が気になるのであろう。かといって直接何かを言うほどの度胸はないようで、こちらをちらちら見つつ集団でひそひそと話をして私と目が合うとすぐに逸らす姿はいっそ面白い。気を抜くとにやけそうになるのを顔に力を入れて我慢する。貴族令息たちはどうにか侯爵家と関係を構築したいという下心があるようだが、堂々と1人で紅茶を飲み軽食を食べている私に対しどう話しかけるか迷っているようだ。皆同年代の子供故、まだ大人たちのように完璧な仮面を被り続けることはできないのだ。19歳までの記憶があるからか彼らのそんな様子もどこか微笑ましく感じてしまう。
物思いに耽っていると、突如会場の端の方にざわめきが起こる。段々と近づいてくるざわめきの方向に目を向けると、2人の少年が連れ立って歩いていた。そのうちの1人は私の兄だ。そしてもう1人は――
「ライ、もしかして君の妹君はあの子かな?」
「そうですよ殿下。ベル! こちらにおいで」
私は兄に呼ばれるままそちらに足を運ぶ。ああ、とうとう出会ってしまうのだ。緊張からか鼓動が一気に速くなる。深呼吸をして心の準備を整え顔を上げると、兄の隣に立つ少年としっかりと目が合った。明るい金髪に銅色の瞳。
彼は第一王子、ディオン・ド・リュドルシュバーグ。通称ディオン殿下。
――あの未来では私の元婚約者だったその人である。