22
「……ルカ様、今日はもうお休みした方が良いと思いますわ。いつもより魔力が乱れていますし」
「そう? じゃあもう少ししたら休憩しようかな」
今日は数日ぶりの魔術実習だ。私が聖女かもしれないと判明したことにより実習内容も少し変えていくことになった。今までは主に氷属性を使っていたが、これからは聖属性の魔術を主軸にしたものになる。今日はその初日ということで治癒魔術以外の聖属性の魔術を教わったのだがこれがなんと全く使えなかった。これには私も魔術士も驚いてしまい、最終的にこれから訓練することで徐々に使えるようになることを祈ろうという話になってしまった。もう先行きが不安である。
だが、今の私にはそんなことよりも気になることがあった。実習にはいつも通りルーカス殿下も参加しているのだが、今日の彼はいつになく魔術を失敗している。先程は魔術が不発だったかと思えば次の瞬間には炎を爆発させ前髪を焦がしていた(すぐに私が治癒魔術で治したが)。普段の魔術実習はそれとなくこなしている彼のこんな姿は初めて見る。
「もしかして体調が良くないのですか?」
「体調は大丈夫だよ。ただちょっと考え事してて……」
「考え事、ですか」
「いや、やっぱりなんでもないよ」
(ルカ様が考え事だなんて、何かあったのかしら)
これは彼がいつも何も考えていないと言いたいわけではなく、考え事に気を取られて行動が疎かになることが珍しいのだ。なんだろうと頭を捻っていると、ふと視界の端に見覚えのある金髪が入った。ディオン殿下だ。久しぶりに姿を見た気がする。
「あら、あそこにいらっしゃるのはディオン殿下ね」
「!」
私が何気なく声に出した『ディオン殿下』という言葉にルーカス殿下はびくりと肩を跳ねさせた。そんなに驚くようなことだろうか。
(一緒にいるのは役人かしら? でもなんだか……)
ディオン殿下の少し後ろをおそらく役人であろう若い男が2人並んで歩いている。それだけなら王城の敷地内であるここではよくあることだろう。しかし私はディオン殿下のどこか鬱陶しそうな様子が気に掛かった。
(……念のため確認しましょう)
ぼーっとしていたルーカス殿下の手を引き彼らの近くにあった茂みの後ろにそっと隠れる。もちろんルーカス殿下の頭には持っていたタオルを掛け緋色の目立つ髪は隠した。彼は何か言いたげだったがそれを手で制し、私はディオン殿下たちに目を向ける。彼らは私たちに気づいていないようで立ち止まって話を始めた。
「……第一王子殿下。ヴァロトア侯爵家のご令嬢との件についてのご相談ですが」
(……!)
自分が話題にされていたため思わず姿勢を正し、より集中して彼らの言葉に聞き耳を立てた。そして、そこから聞こえてきたのはなんとも酷い話だった。
「出自も能力も申し分ない。それに加えて聖女である可能性が出た今、彼女は貴方様の婚約者候補の誰よりも価値が高いでしょう。今からでも遅くはありません」
「……価値だのなんだのつまらないことで弟の婚約者を奪うなど、私はそのような不義理な真似をするつもりはない。何度も言わせるな」
「とはいえ、弟君は彼女と正式に婚約しているわけではないのでしょう。ならば貴方様が婚約しても何も問題はないのでは」
法的には確かにそうかもしれないだろうが、倫理的には大問題だ。目の前の王太子をまだ子供だと甘くみていたのだろう彼らのその安易で迂闊な発言は、ディオン殿下の機嫌を急降下させた。
「……それは私と弟を仲違いさせ争わせたいということか?」
「い、いえ! 決してそんなことはございません! ですが我々としては貴方様に確固たる立場を維持していただきたく、より良いご提案を……」
いつになく低い声で怒りを露わにするディオン殿下に役人たちは焦ったように弁明をしている。おそらく彼らはディオン殿下の派閥の者なのだろうが、聖女の可能性がある私とディオン殿下を婚約させることによって自分たちの地位を確立したいという魂胆が見える。恩を売って周りを出し抜きたいのであろう。だがその腹づもりをあのディオン殿下が見逃すわけがない。
「そんなものは必要ない。私の婚約者は私が決める。余計な口を挟むな」
「は、はいっ! 申し訳ございませんっ!」
話は終わったとばかりに背を向けて足早に去るディオン殿下を役人たちは慌てて追っていった。
(あら……あれはかなり怒っていらっしゃるわね)
普段のディオン殿下は多少のことでは怒りなどを顔にも態度にも出すことはない。しかし先ほどの彼は明らかに『非常に不愉快』という表情を浮かべており、彼に気に入られたい役人たちの行動は完全に悪手だった。今後彼らが出世することはもうないだろう。
ディオン殿下たちが視界から消えたことを確認してから、一緒に息を潜めていたルーカス殿下と共に茂みの陰を出る。そして頭に掛けたタオルをそっと取ると彼は俯いてじっと地面を見つめていた。いつもとは違う彼のその様子に私はおそるおそる声を掛ける。
「ル、ルカ様……?」
「やっぱりさ……」
そう言って顔を上げたルーカス殿下は、いつもより数段暗い目で私を見つめていた。
「やっぱりベルも兄上の方が良かったんじゃないの……?」
「え……」
すぐに否定しなければと思ったものの、拳を握り締めて震えながら絞り出すように言葉を紡ぐ彼の姿に上手く言葉が出てこない。
「そんな、」
「だって、だって俺は……っ!」
そんなことはない、と言いかけた私を強く遮り、彼は踵を返し私に背を向けて走り出した。
「――ま、待って!」
「はぁ、はぁ、流石にもう、敵わない、わね」
息が切れてしまいこれ以上はもう走れず立ち止まる。あの後すぐに走り去るルーカス殿下を全力で追いかけたのだが、ものの数分であっさりと見失ってしまった。幼い頃は気にならなかったが、今はもう身体能力に性別の差を感じるようになってきた。しかも相手は武術訓練なども日常的にこなしているルーカス殿下だ。運動面では特に何もしていない私とは体力や走力の差はかなり大きいだろう。そして走って追いつけないならばこちらとしては魔術を使っていくしかない。そう考え指先に意識を向けて空気中の魔力を探れば、細く長く伸びた彼の魔力の残滓を感知する。
(こうしてルカ様の魔力を辿っていけば……よし、いけそうね)
最後に見たルーカス殿下の顔が脳裏に浮かぶ。あんな状態の彼を放っておくわけにはいかない。私は息を整えながらもなるべく早足で彼の魔力を追った。
「――やっと見つけましたわ、ルカ様」
一面の深い緑の中に鮮やかな緋色の髪が映えている。彼は私の声に小さく肩を揺らしたものの、こちらに背を向けたまま振り向かない。
(ルカ様……)
少し強い風が私とルーカス殿下の髪を順に揺らしながら木々の間を吹き抜けていく。彼は、彼と私が初めて出会ったあの森の中にいた。
ここはあの日、魔獣の子供と遭遇して、そして撃退したあの場所だ。あれから4年以上経っても木々は曲がったままで、私が使った魔術による傷跡が未だ残っていることが窺える。しかしそれも植物の成長によって修復されつつあり、あと何年か経てばほとんど元通りになっているのだろう。そう考えて何故だか少しだけ寂しさを感じた。
「……ルカ様」
彼の背中に再度、そっと声を掛ける。彼は袖口で目元を数度擦り、ゆっくり振り返り私と目を合わせた。その金色の目が赤くなってることには気づかないフリをした。彼はそっと口を開く。
「……聞いてほしいんだ」
私がしっかり頷いたことを確認すると、彼は目元を震わせながらぽつりぽつりと言葉を溢した。
ルーカス殿下が語ったのは、今までの彼の境遇だった。実の母親は王妃ではなく、それどころか素性すらよくわからないらしいこと。それ故に周囲からは第二王子という肩書より低い扱いをしばしば受けるということ。そして、
「それで……何人かに言われたんだ。ベルがもし聖女なら俺なんかよりも兄上の婚約者にした方がいいって」
「そうでしたの……」
誰が、とまでは言わなかったが、おそらく先ほどの役人たちのような輩に言われたのだろう。人を出世の道具としてしか見ていないような酷い人間たちに。そして、その戯言に対して彼は『本当にそうかもしれない』と思ってしまったという。『そんなことはない』と断言できなくなるほど、彼はそういった扱いを周囲から受けてきたのだ。
「だけど、だけどそれは嫌なんだ」と顔を歪めて話す彼に酷く心が痛む。
(ずっと、苦しんでいたのね)
他の王族にいない髪と瞳の色から彼の出自には何かあるだろうとは思っていた。だがまさかそれによって、普段は明るく振る舞っている彼がここまで追い詰められているとは。それを考えもしなかった自分の甘さを恥じた。
「……私も、ルカ様にお伝えしたいことがあります」
私の言葉にルーカス殿下は小さく頷いた。彼の出自は彼という存在にとって大きな弱点であり、それを私に伝えることは相当に怖かっただろう。だが彼はその恐怖を乗り越え私のために真摯に話してくれたのだ。だからこそ、私もきちんとその気持ちに応えたい。
「実は……」
これは誰にも言わないで心の奥底にしまっておこうと思っていたことだ。だが、今、彼には全て伝えるべきだろう。一度深呼吸をしてゆっくりと口を開く。
「……先日、私にもそのような打診がありましたの」
息を呑んだルーカス殿下の濡れた金色をしっかりと見据えながら、私は数日前の出来事を回想する。
『ねぇ、ベルティール。せっかくだし第一王子殿下の婚約者になるのはどうかしら?』
兄が出て行った後、あの夕食の場での母からの『大事な話』というのは、ディオン殿下と婚約をすることの提案だった。
『聖女の可能性があるのだから、もっと高い地位を目指しても良かろう。お前なら今から王妃教育を受けても十分間に合うだろうからな。我が侯爵家の力も強まる良い案だと思わないか?』
『きっと第一王子殿下も喜んでくださるはずよ。なんたって聖女は国の宝ですもの!』
喜色を帯びたその様子から、両親はその提案に私が頷くことを強く望んでいることは明確だ。そして私もディオン殿下もこれを喜んで受け入れるだろうと彼らは明るい想像をしている。きっと私が首を縦に振れば、すぐにでも国王にその提案が届くのだろう。
『――私は、』
「ですが……お断りいたしました!」
「へ?」
ルーカス殿下は呆気に取られたような顔で間抜けな声を出した。
「……断ったの? なんで?」
「なんでって、私はルカ様から婚約のお話をいただいているのですよ? それを蔑ろにするだなんて考えられませんわ!」
そう。私は断った。きっぱりとお断りさせていただいた。
提案を聞いて最初に湧き上がったのは怒りだった。蔑ろにされたルーカス殿下のことはもちろん、そんな話に易々と食いつくだろうと思われていたディオン殿下、彼ら2人を同時に馬鹿にされたようで心底腹が立ったのだ。
(侯爵家のためとはいえ、酷い話よね)
当然、両親は食い下がってきたのだが『もし強要されるようならこの家と縁を切って国外に出て行ってやる』という勢いでお断りしたら流石に諦めがついたのか、その話は無かったことになった。聖女かもしれない娘がいなくなるのは侯爵家にとってかなりの損失だろうと思い、私は私を人質に取ることにしたのだ。結果それは効果抜群、2人はすぐに話を切り上げ私の機嫌を取ろうとしてきた程だったので、以降はこの話題を出してくる可能性は低いだろう。
先ほどディオン殿下たちの会話を盗み聞きしたのもその前に両親からの話があったので『まさか』と思ったためである。これらを包み隠さず伝えたところ、彼はしばらくぽかんと口を開けていたと思ったらしゃがみ込んで笑い出してしまった。
「ふっふふ……はは、あはははは! ほんと、もう、あはははははは!」
「えっ、ちょっと何笑ってるんですかっ! 今は真面目な話をしているんですよ!」
よく見ると笑いすぎてか目尻に涙を浮かべていた。そんなに笑わなくてもと非難すれば、彼は憑き物が落ちたようなどこかすっきりとした表情で私を見た。
「あはは、ごめんごめん。安心したら気が抜けちゃって。それに、なんだか、本当にベルってすごいなぁって思って……」
「そんな、私はすごくなんてないですわ」
ただただその時の目の前で起こった出来事をどうにかしたかっただけで。それがすごいのなら私よりもずっと頑張っていたルーカス殿下の方がもっとすごいと思うのだ。しかし、
「……そんなことないよ、ずっと」
彼は穏やかにそう言ったのだった。
それからしばらく『ここまでどうやって追ってきたのか』などの雑談をしていたのだが、その中でルーカス殿下がふと思い立ったかのように口を開いた。
「……もしさ、ベルが誰からも婚約の話とかされてなくて、それで、今この瞬間に俺と兄上から同時に婚約してって言われたら、どっちにする?」
「もちろんルカ様にしますわ!」
初対面だとしたらともかく、今はもう積み重ねた思い出に勝てないのだ。今の私が婚約したいと思えるのは巻き戻ってからずっと一緒に過ごしてきたルーカス殿下ただ1人だ。
『ルーカス殿下を選ぶ』という迷いのない私の答えに彼は「そっかぁ」と溢し、
「それは……嬉しいな」
そう言って破顔した。
「婚約の約束だなんて、ふふ、なんだか不思議ですわね」
「ほんとにね〜」
あれからルーカス殿下と一緒に手頃な倒木に腰掛け、これからのことについて話し合った。
彼と婚約する覚悟はできたものの、私の聖女疑惑に伴う周囲の動向を見ていかなければならないため、正式な婚約をするには少し時間が掛かりそうだ。今このタイミングで迂闊な行動をすると先ほどの輩のようなディオン殿下の勝手な取り巻きから目をつけられかねないためだ。
(ルカ様がディオン殿下を出し抜こうとしているなんて思われては堪りませんもの)
危険視され暗殺されてしまったあの時の未来のようになってしまわぬよう、慎重に行動する必要がある。
「ゴタゴタしててごめんね」
「いえ、ルカ様が謝られることはありませんわ」
眉を下げて申し訳なさそうにするルーカス殿下は何も悪くない。『あの時』とは様々なことが異なる今、周囲の状況がこれからどうなって行くのかはわからない。だから私は彼と『婚約の約束』をしたのだ。周囲が落ち着いた時に目立たないように正式に婚約しようという約束である。
「……先生、やっぱり怒ってるかなぁ」
「どうでしょう。戻ったら私も一緒に謝りますわ」
休憩すると言ったまま実習を放り出してきたため、私たちは早足で中庭に向かっている。道すがら雑談としてルーカス殿下の身の上話を聞いたのだが、そもそも彼とディオン殿下は誕生日が半年程度しか離れていないため、どう考えても母親が違うことは最初から皆にバレていたという。そのため周囲はやたら気を遣って接してくるか、それを理由に陰口などで攻撃してくるかのどちらかであることが大半で、人間関係で気苦労が多かったらしい。そして全てが面倒になった彼は本来参加するはずだったあの日のお茶会をサボって人目に付かぬよう遊んでいたのだ。
(だからあんなところにいたのね)
ちなみに王妃はそんなルーカス殿下も実子であるディオン殿下と変わらず息子として大切にしてくれているので感謝している、と彼は言った。
「母上の話で思い出したんだけど、ベルは王妃になりたいとか思わなかったの?」
「ふふ、王妃になりたかったとしたらあのお茶会の時にディオン殿下に気に入っていただけるよう振る舞っていたと思いませんか?」
「あー、それもそうかぁ」
急に真剣な顔で聞いてくるものだから何かと思ったが、なんだそんなことかと少し笑ってしまった。王妃になることを望むなら貴族女性の嗜みとして髪は長く整えただろうし、間違ってもお茶会を抜け出して森の中に散歩には行かないだろう。ルーカス殿下もそれを思い出したのか気の抜けた声で笑いながら納得していた。
(そもそも後々のことを考えてディオン殿下の婚約者にならないようにしていたのだし)
そしてその結果、私はルーカス殿下と出会って、ここまで色々ありながらもなんとかやってこれたのだ。
「そう言うルカ様はどうなのですか?」
「俺? 俺は国王とかそういうのは無理かな!」
あっけらかんと「まあ、そもそもなれないんだけどね?」と付け加えたルーカス殿下は王になるつもりもなりたいと思う気持ちもないそうだ。それも窮屈だから、という彼らしい理由で。出自の関係で元からほぼそうはなれないらしいが、むしろそれで良かったと彼は言った。
(ならばディオン殿下と争うことはなさそうね)
あの時の未来の彼はどうだったかはわからないが、今の彼がどうしたいのかは理解した。だが本人たちの意思がそうであっても周囲がどう出るかはわからない。特に先ほどのような勝手な取り巻きがどう動くかは注視していこうと思う。
「ベルは別に俺が国王になんてならなくても一緒にいてくれるんだもんね?」
「当然ですわ!」
彼の言葉に胸を張って答える。なんなら彼が王族でなくとも別に構わないのだ。そんな私の勢いに彼は笑っていた。どのような答えが返ってくるのか想像はつくが、私も同じような質問をしてみようか。
「ルカ様も、私が聖女でしょうと何でしょうと……国を滅ぼすような悪女でしょうと一緒にいてくださるんですよね?」
「もちろん!」
「……滅ぼす予定でもあるの?」と笑いながら訊ねられてしまったので曖昧に笑って否定する。既に未来でやらかしているのだとは言えないが、今、その未来を辿るつもりなんてひとつもない。
(絶対にあんな悲劇を起こしてなんてやるものですか!)
胸に宿った微かな不安は消えないが、それでも負けないように強く意気込む。
「あはは、じゃあもしもベルが悪女になったら、その時は一緒にどこかに逃げようか?」
私の不安を感じ取ったのかルーカス殿下はそう言った。「本当に?」と聞くと、彼は笑顔で頷く。そうならないことを望むが、もしそうなったとしても彼は私の味方でいてくれる。そう思っただけで驚くほど心が軽くなった気がした。
「ありがとうございます、ルカ様。……約束ですわよ?」
「うん、約束だよ」
「ふふ、破ったら許しませんからね!」
そう言って私はルーカス殿下の手を取った。
……この後、私がこの国を救うことになるとは思ってもいなかったのだった。




