13
扉の横に立ち頭を下げた使用人に促され、私たちは応接間に入室する。広々とした応接間には優美なシャンデリアが輝き、質の良い木製の重厚な家具が配置されている。床には細やかな意匠を凝らした華やかな絨毯が敷かれており、壁には著名な画家の絵画が飾られている。高い位置にある窓からは柔らかな光が差し込み、室内は優雅な雰囲気に包まれていた。その豪華絢爛な応接間の奥の方から私の父と同じくらいの年齢の男性と、それに続いて少年がこちらに近づいてきた。そして男性が恭しく口を開く。
「ヴァロトア侯爵殿。本日はよくぞここまでおいでくださいました」
「宰相殿。こちらこそお招きいただきありがたく存じます」
彼がこの国の宰相であるアルドール侯爵だ。私は父の後ろからその姿を仰ぎ見る。ほんの少しだけ白髪混じりの黒髪をきっちりと撫で付けており、銀縁の眼鏡を掛けている。皺ひとつない服に磨き上げられた靴。如何にも仕事ができる男性といった出立ちだ。実際に彼は見た目通りとても優秀な人物であり、数多くの国家と綿密に交流をし、輸出入だけでなく観光なども含めた多種多様な国交を主導している。この国が貿易により大きな利益をあげられているのは彼の優れた手腕によると言っても過言ではないだろう。歴代宰相の中でも群を抜いて優れているのではないだろうか。宰相と父の2人は挨拶したままの流れで雑談を始めていた。彼らは公的には同じ身分のためか、それとも同じ場所で働く同僚であるためか、お互いに敬意を示しつつもどこか親しげに気楽に接しているように見えた。
(そういえば私的にも結構交流があると聞いた気がするわね)
友人といってもいい関係性なのかもしれない。
そのまましばらく立ち話を続けていた宰相だが、父の後ろに立っているルーカス殿下にやっと気がついたのかすぐさま姿勢を正し、丁寧な礼をする。
「これは失礼いたしました第二王子殿下。まさか貴方様もいらしているとは思いませんでして……」
「いえ、どうぞお気になさらず。俺は兄に頼まれて来ただけですので。宰相殿、こちらをお受け取りください」
ルーカス殿下が鞄の中から大きな封筒を取り出し、宰相に差し出す。
「兄からの書類です。何かの資料だとは聞いていますが中身は見ていませんのでご安心ください」
「なんと、第一王子殿下からとは。早速拝見いたします……ああ、こちら本日必要な資料でございますね。助かります」
「それは良かったです。足を運んだ甲斐がありました」
「最近は海側の隣国の情勢がやや厳しいようだが、魚介の貿易において経済的協力を模索するのはいかがか」
「いや、まずは彼の国の経済の安定を促すことが重要だろう。短期的ではなく長期的な解決策を見つけるべきだが、それについては追々、国王様も含めて議論した方が良いだろう。我々だけでなく周辺諸国との協力が不可欠だ」
「そうですな。では、議論の場を設定しましょうか。ああ、それから……」
ルーカス殿下から受け取った資料をめくりながら宰相と父は議論に熱中し始めてしまった。宰相に促され皆で革張りのソファーに腰掛けたものの、2人の白熱ぶりに圧倒され彼ら以外は何も言えないでいる。対面に座った宰相の息子はどこか暇そうに壁を見つめており、私の隣に座ったルーカス殿下はそれを見て苦笑いしている。
「民の経済的な安定と国の利益を同時に追求する方法はないものか」
「それには新しい政策が必要かもしれんな。そのためにまずは先日の議題に挙がっていた件を迅速に進めることにするか」
「そのためには……」
難しい政治の話がひと段落した頃、宰相がそういえば、といった感じで言った。
「……して、そちらの御令嬢は侯爵殿の?」
父はその言葉で横に座る私を見る。話を遮ることも出来ずにずっと黙っていたからかやはり存在を忘れられていたようだ。やっと気付いてくれた。
「! ああ、そうでした。こちらは我が娘ですが中々宰相殿のお目にかかる機会がなかった故、本日この場でと思いまして」
「なるほど。ならば我が息子とも是非顔合せ願いたいものですな。……ニコラ、こちらの御令嬢に挨拶しなさい」
ニコラと呼ばれた少年が立ち上がり足早に私の前に歩み出てきたので、こちらも立ち上がり相対する。私に向けたその視線はどこか値踏みをしているように感じられた。少し背の高い彼は私を見下ろしながら口を開く。
「俺の名前はニコラだ。よろしく」
「私はベルティール・ド・ヴァロトアと申しますわ、宰相様、ニコラ様」
背筋を伸ばし、2人に対してゆっくりと丁寧なカーテシーをする。顔を上げると少年としっかり目が合った。――この少年が宰相の息子だ。名前はニコラ・アルドール。アルドール侯爵の長男で、私より2つ歳上で今は12歳だ。私の兄と同い年である。柔らかく跳ねた艶やかな黒髪に宝石のような緑色の瞳、一見穏やかそうに感じられる容姿であるが、その自信ある表情からは見た目の雰囲気とは真逆の勝気な印象を受ける。
あの時の未来では彼は私が学園に入学する前の年、隣国の不興を買ってしまった責任を負って家族全員で国外追放されてしまったため学園での接点はなかったが、それに至るまでは何度か家ぐるみで会うことがあった。歳上であったためだろうか、あの時、初対面だった私は彼を立派で頼りになる人だと思っていた。
だが今の私にはわかる。彼は俗に言う『ヘタレ』だと。
そしてヘタレのくせに普段はやたら強気で態度が大きいのだ。
あれはあの時の未来、私が11歳の時の出来事だった。13歳になったニコラはその日、王城でのお茶会に出席していた。同じ年頃の貴族の子供達の交流を目的としていて内容としては数年前のお披露目会に近いもので、そこにはディオン殿下や私の兄、そして私も参加しており、他の貴族子息たちとの交流を楽しんでいた。そして、ちょうど私とニコラが話をしている時、ちょっとした事件が起きたのだ。
「きゃっ!?」
「!?」
茂みから小さな白いものが飛び出して咄嗟に声を出してしまったが、それは白くて可愛らしい仔猫だとすぐにわかった。……のだが、
「……あの、ニコラ様?」
気がつくと彼は素早く私の背中に隠れていた。なんと私を盾にしていたのだ。仔猫相手に。
「なに……何が出た……?」
「あの、出たのは可愛らしい仔猫、ですわ」
「……は? 猫?」
お茶会の現場に微妙な沈黙が広がった。
「……おい、お前、俺は猫になんてビビってないからな! いいな!」
「は、はい、ニコラ様」
「お前らもその目はやめろ!」
私の後ろで皆に向かって強がる彼をディオン殿下と兄は生温かい目で見ていた。……こんなことがこの後も何回かあったのである。そして私は彼をヘタレと認識したのだ。
ヘタレでやたら態度は大きい彼だが「だけどなんだが憎めないんだよね」とは私の兄の言葉である。歳が同じで立場も近しい2人は幼い頃から仲の良い友人だ。第一王子のディオン殿下とも親しく、公私共に3人で会うことも多いらしい。また、案外人懐こいことに加えて顔が可愛らしいということもあり、社交の場では歳上の貴族令嬢方やご婦人方に大層可愛がられていたとか。
(周囲に愛される才能は本当にすごいと思うのよね)
なんだかんだ人から好かれる彼だからこそ、この下手すれば失礼に当たるような大きな態度も皆に許されているのだろう。そしてこんな感じの彼だが、非常に幅広い分野において博識であり、計算や語学なども同年代とは比にならないくらいに秀でている。能力だけなら次代の宰相として国から期待されているほどに優秀ではあるのだ。態度が少しばかりアレではあるが。
しばらくして宰相と父は別室にある資料を見て話がしたいようで退室してしまったため、私たち3人は応接間に残された。扉が閉まり2人がいなくなった途端、ニコラは気怠そうに伸びをして揃えていた脚を雑に組む。
「はー、つっかれた。ほんっと親父の話長いし肩凝るっつーの」
「相変わらず、ちょっとどうかと思うよその猫被り」
「うっさいな。ていうかお前が言うな。で、なんでお前がここにいんだよルカ。書類なんて使用人にでも運ばせりゃいいだろ」
「俺は兄上に頼まれて来たんだよ。宰相殿に急ぎで渡したいけど兄上はどうしても手が離せない用事があって。しかも国の機密事項が書いてあるみたいだから念のため『わざわざ』俺が持ってきたんだからむしろ感謝してほしいくらいなんだけど?」
「お、おう、ごめん。ありがとうな……」
「はい、どういたしまして!」
ニコラは物凄い笑顔のルーカス殿下に勢いよく捲し立てられてあっさり押し負けていた。よく見ると手が少し震えている。2歳も歳下の相手なのに。いや、ルーカス殿下は笑顔なのにとても怖い時があるのでその気持ちはよくわかるが。
だが、怖気付いているその割には王族である彼に対しても対等に接しようと意識しているようにも見える。この辺は誰も彼も丁重に扱う私の兄とは異なっている。……のだが、やり過ぎてもはや雑に扱っている域なのではと思う。ルーカス殿下本人は全く気にしてないようだが。それにしても、
(この2人、仲が良いのか悪いのか)
親しげに話しているように見えるがお互いに煽りあっているような気がしなくもない。実際のところはどうなんだろうと考えていると、ニコラがこちらに話しかけてくる。
「そこの、なんだ……ベルティール嬢だっけ? お前、ライの妹なんだな」
「ええ、そうですわ。兄がお世話になっております」
「そんでお前、なんでそんなに髪短いんだ?」
「えっ」
兄の話かと油断していたところに急に予想外の疑問をぶつけられて思わず言い淀んでしまう。遠回しに尋ねられたことは何度かあったがここまで直接的に聞かれたことはほとんどない。
「えーとこれは……これは、そう、お洒落の一環ですわ」
「お洒落? へー、変わってんだな」
「……よく言われますわ」
実際、この貴族社会の中では髪の短い令嬢は異質だ。変わっていると思われることに対して否定はできない。だがルーカス殿下はその言葉が気に入らなかったのかムッとして口を開いた。
「えー、ベルによく似合ってると思うし、ニコラにセンスがないだけじゃない?」
「俺にはセンスしかないぞ」
「あ、そうなんだ」
「それはそれでどうなのかしら……」
自信満々のニコラの答えに対する反応に困ったのかルーカス殿下は完全に棒読みだった。
「せっかくだ、俺の圧倒的な感性でお前らを評価してやる。まずはお前からな。その髪飾り……は」
ニコラは意気揚々と私の髪飾りを見て固まった。そして何か重大なことに気がついたような複雑な顔でゆっくりと口を開いた。
「……お前らって、もしかして婚約でもしてるのか?」
ニコラのその言葉に私とルーカス殿下は顔を見合わせる。だが婚約してはいないので彼にはそのまま伝えれば良いだろう。
「婚約してはいませんわ」
「うん。婚約はしてないよ。今は、まだね」
「まだって、えー、あーいやでも……あー、なるほどな」
ニコラはルーカス殿下の顔と私の髪飾りを交互に見て、何かを察したように大きな溜め息をついた。
「えっと、何かお気付きになりましたのですか?」
「お前ってディオンの……第一王子殿下の婚約者候補に入ってなかっただろ? 侯爵家の年頃の娘が選ばれてないなんて変だと思ってたんだよ」
「……こんなに髪の短い令嬢なんて貴族としての魅力がありませんもの。当然のことですわ」
「世間様はそうかもしれないけど、あいつは権利誇示とかそんな小さいこと気にするやつじゃない。それはわかるだろ?」
私は素直に頷く。ディオン殿下の為人はよくわかっている。今思えば、あの時の彼はその程度のことは意にも介さなかっただろう。
「だから、とても婚約者候補に入れられないような変な女なのかと思ったけど、話してみたらそうでもないし。でもまー、それがなんでそうなったかは今わかったけどな」
と言って彼はルーカス殿下をじとりと見た。つまり『そういうこと』なのだ。どこかしらにルーカス殿下の影響があったのではということなのだろう。実際、ディオン殿下の婚約者候補決定の話とほとんど同時にルーカス殿下からの婚約の打診があったのだから、その前に王族内で人選などの協議が行われていたはずだ。そこでどのようなやり取りがあったのかまではわからないが。
「……まあ、安心しとけよベルティール嬢。ルカは悪いやつじゃないから、多分」
「多分ってどういうことかな?」




