12
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『待て待てっ!』
『ふふ、そうはいきませんわ!』
私たちは大広間に忍び込んでいた。大人たちの仕事の話が終わるまで、暇を持て余した私たちは応接間を抜け出してここで遊んでいた。
『このっ……待ちやがれって!』
『あら、意外と足が遅いですわね』
『なんだと』
追いかけっこに夢中になっていた私たちに周りなど見えてはいなかった。そして逃げる私に対してムキになった彼が足を滑らせ、その体が壺にぶつかった。
『あっ!』
壺はその衝撃にぐらりと傾き、そのまま倒れてしまった。床に倒れたそれは大きな音を立て、中腹から崩れるように多数の破片を撒き散らし壊れてしまった。
『……』
『あ、あぁ……』
彼は顔面蒼白だった。彼はそれがどれだけ大切なものかを子供ながらに理解していたのだ。しかし、彼には自分がしてしまった事を大人たちに伝える勇気はなかった。
『……逃げるぞ』
『えっ……?』
彼は私の腕を掴み強く引いて駆け出した。そしてそのまま大広間から逃げ出してしまったのだ。壺が割れた音に気がついた使用人が大広間に入ってくる前に私たちは近くの別室に逃げ込んだ。
『知らない振り、してくれ……頼むから。じゃないと、俺は……』
『……わかりましたわ。私は何も見ていません』
その悲痛な表情に私は頷くことしかできなかった。
――
「お嬢様。あと少しでお支度が終わりますよ」
「ふふ、今日もありがとう、ユミィ」
あれから時は過ぎ、私は今年で10歳になった。侯爵家での教育と国の魔術教育に明け暮れる日々は楽しく、気がついたら街で少年を救助したときから2年経っていた。私はこの2年間、医療部門の国属魔術士から治癒魔術の特訓を受けていた。また何かあった時のためにも自信を持って使えた方が良いと思ったのだ。その成果もあってか得意とは全くいえないがそれなりに使える程度の技量までは達し、もちろん体調不良を起こすこともなくなった。
この急激な成長にはいつもの魔術教師も驚いていた。適性外の魔術をここまで使えるようになることはかなり珍しいことらしい。私が巻き戻っていることが関係しているのか、魔力の操作自体は19歳だったあの時の未来よりもうまくできている。
ルーカス殿下との婚約の件については相変わらず保留にし続けている。婚約するのか、断るのか。どちらかを選ぶ必要があるのに、私はそのどちらにも踏ん切りがつかないでいる。そのことについて非常に申し訳なく思っているのだが、彼はさほど気にしていないようであと数年くらいは気長に待つと言っていた。私の両親や兄は既に少しやきもきしているようだが、彼の家族である王族の皆様はどう思っているのだろうか。
「できましたよ。いかがでしょうか」
お付きの侍女であるユミィに促され視線を前に向ける。鏡の中の私はこの数年で徐々に大人っぽく成長しており、まだ可愛らしいもののややキツく見える顔も含めて少し近寄り難い容姿をしている。紫がかった銀の短い髪はきっちりと整えられており、よく見ると花を模ったのように編み込まれている部分がある。そしてそれを彩るように、緋色と金色があしらわれた紫魔石の髪飾りが着けられている。これはルーカス殿下から貰ったものだ……彼は未だに私に髪飾りを贈ってくれていた。
「あら、今日の編み込みもいいわね。ここのところが花のようで素敵」
「お気に召されまして何よりです。では次からも同じものをやりましょうか」
「ふふ、そうね。そうしてくれると嬉しいわ」
私の髪は未だに短いままだ。あれからまた試しに髪を伸ばしてみたのだが、今度は魔術実習の際に制御を失い魔力が暴発してしまったためその場にいたルーカス殿下に髪を伸ばすことを禁じられてしまった。安全のためなので仕方がないとはいえ、社交の場に出る度に他の貴族令嬢たちから聞こえない程度にひそひそと何か言われていることは知っているので少し面倒ではあった。そのことを彼にも伝えたのだが、断固として許してくれなかったのだ。どうにか説得しようと思ったのだが、その時の彼の笑顔は有無を言わさぬ圧があって普通に怖かった。最近、彼は笑顔で物事を押し切るタイプだということを身をもって知りつつある。
(やっぱり彼、結構良い性格してるわよね)
そんなところも別に嫌いではないのだが。
身支度を終えた私はユミィに礼を言って屋敷の中を歩く。今のところ国内では大きな事件や事故等もなく平和そのものである。第一王子のディオン殿下は11歳、私の兄は12歳になり、各々の家の教育などを受けつつも親についていく形で頻繁に社交の場に出向くようにもなったため私よりもずっと忙しそうである。ディオン殿下の婚約者候補たちはあの時とは異なり今のところ1人も脱落せずに頑張って王妃教育について行っているらしい。私が婚約者候補に入っていないということで彼女たちにも何か心境の変化があったのだろうか。
一方、兄はあの時とさほど変わりなく暮らしている。彼はヴァロトア侯爵家の後継者であるため婚約者を決めなければいけない立場ではあるが、今のところそういった話は耳にしていない。……これにはきちんとした理由があるのだが、今は割愛しよう。
いずれにせよ平和ながら何かが少しずつあの時の未来とは変わっている。そんな日々を私たちは送っていた。
(このままずっと平和ならいいのに)
このささやかな願いが叶いはしないことを私は知っている。記憶の中の未来では、今の時点では特に何も目立った出来事はなかった。だが、そろそろ隣国との関係悪化の原因であるあの事件があった日が近づいてきているということに私は気がついていた。例の、隣国の国宝である壺を割ってしまい、それを隠蔽したことによって彼の国の不興を買ってしまったという事件である。
あの事件が起きた時、私は10歳くらいだったと記憶している。父が仕事の関係で宰相家に向かうことになり、折角だから未だに面識のない宰相家の息子と私の顔合わせも兼ねてとのことで私も父に同行することになったのだ。……そして先日、ついに父から宰相家への訪問のお誘いがあったのだが、
「あれ、ベル。そんなにおめかししてどこかに行くのかい?」
「あら、お兄様」
考え事をしながら屋敷の廊下を歩いていると、剣術の訓練終わりの兄と出会った。汗で頬に張り付いた葡萄色の髪が様になっている。数年後には女性たちを虜にしていた彼はまだ子供にも関わらず今の時点で既にどこか色気があった。
「今日はお父様と一緒に宰相様のお屋敷にお邪魔しますの」
「そうなのかい? それは楽しみだね。気をつけて行ってくるんだよ」
宰相家への訪問日。それは今日なのである。
「……ええ、楽しんできますわ」
彼の言葉にそう答えて私は父の待つ馬車に向かう。ちゃんと笑えていたかはわからなかった。楽しんでくるとは言ったものの、心の中は真逆の気分だった。
(正直、気が重いのよね……)
全く楽しみではない、と先ほどの兄の言葉に反論したかったくらいだ。壺のことも億劫といえばそうだが、そもそも例の宰相の息子が今思えば色々な意味でかなり『厄介』な男だったので有り体に言ってしまえば関わること自体が少し面倒なのだ。厄介なことになるので本人には口が裂けても言えないが。考えたら頭が痛くなってきた。
(悪い人ではないのだけれど、ね)
それに家同士の付き合いでもあるため行かないという訳にもいかないので、どの道行くしかないのだ。せめて壺を割ってしまうことだけはどうにか回避しようと心に誓った。
「こんにちは、ベル」
緋色の髪が太陽の光を浴びて輝いている。……なぜここに彼がいるのか。
「ごきげんよう……ルカ様はなぜこちらに?」
「んー? ベルに会いたいなーって思って?」
「いえ、そうではなく」
それは嘘……ではないのかもしれないが私の求めている答えとは違う。馬車に揺られ宰相家の屋敷、その玄関先に辿り着いた私たちの前に、さも当たり前かのようにルーカス殿下が立っていた。これには父も一瞬驚いてぽかんとしていたがすぐさま侯爵としての姿勢を正す。
「これはこれはルーカス殿下。本日はお日柄も良く……」
「ヴァロトア侯爵殿、お久しぶりです。今日も良い天気ですよねー。そんなに畏まらなくても俺は全く構いませんよ」
「いいえ、いいえ。そのような訳には」
父がルーカス殿下に対して頭を下げているのは少し居心地が悪い。王族相手なので当たり前なのだが、日頃の父の堂々とした振る舞いを知っているので恐縮している様を見るのはなんだか不思議な気分だ。
「ところで殿下、こちらにはどのようなご用件でいらしたのですか?」
「宰相殿にお渡ししたい物がありまして。まあ、多忙な兄の代わりに、ですが」
つまりただのおつかいですよ、と彼は笑いながら続けた。……なぜ父には普通に教えてくれるのに私には教えてくれないのだ。恨めしげな視線を向けるとそれに気がついた彼は愉快そうに笑っていた。その様子に少し腹が立ったので私は彼から顔を背ける。そして2人の少し距離のある当たり障りのない会話を聞き流しながら私は宰相家について知っていることを思い出すことにした。
宰相家は一族代々この国の宰相を輩出してきた歴史ある名家だ。わかりやすいように宰相家と呼んでいるが正式にはアルドール侯爵家という。彼らの領地は王都からはやや離れた位置にある商業を中心とした地方都市だが、政務のため頻繁に王城に向かう彼らが普段使用している屋敷は王都中心部の一等地にある。今回私たちが訪問するのはこちらの屋敷だ。美しく丁寧に手入れされた花々の溢れる庭園とその奥に佇む重厚な煉瓦造りの巨大な邸宅はこの王都の雰囲気と見事に調和している。王都に滞在するためだけに建てられた屋敷とはいえ、宰相家の爵位は私たちと同じ侯爵。別邸にも関わらず一貴族の本宅といっても過言ではないほど立派な邸宅がそこにあった。なんならヴァロトア侯爵家の本邸よりも少し小さいくらいだ。……もしかすると王都に建てたがために他の貴族に対する『見栄』を優先させたのかもしれない。
余談だが、ヴァロトア侯爵家もいくつか別邸は所持しているのだが王都にはない。単純に領地にある本邸が王都と近いので移動に全く困っていないというただそれだけの理由である。
そして、爵位自体は同じではあるのだが、担う役割は異なるとはいえ王国中枢における単純な立場では宰相を担う彼らの方が上であることは貴族内での暗黙の了解となっている。……だからこそあの時私は宰相の息子が壺を割ってしまった時、この立場のこともありあっさりと口止めされてしまったのだ。今思えば盛大なやらかしである。
今日父がここに呼ばれたのは隣国との交流に関する打ち合わせのためだ。再来月の末に隣国との貿易に関する会合があるらしく、今回それを主導する宰相と補佐を行う父で内容の擦り合わせを行うらしい。詳しいことは流石に教えてはもらえなかったので私にはわからない。ひとまず屋敷の中に入った私たちはここの使用人に案内され廊下を進む。使用人と父の後ろを私とルーカス殿下が並んで歩く形だ。隣のルーカス殿下を横目で盗み見る。彼はこの数年間でぐんと背が伸び、私の背丈をすっかり追い越していた。顔立ちは相変わらず整っているが成長に伴い少しきりっとした雰囲気を出すようにもなった。あまり似てない兄弟だとは常々思っていたが、時折見せる真剣な表情は兄であるディオン殿下と似ていると感じることがある。
一歩一歩足を進める度に彼の鮮やかな緋色の髪が揺れている。その髪色について最近気がついたことがあるのだが、彼以外にこの色を持つ人間を全く見かけないのだ。領地でも王都でも、あの時の未来でも彼以外に見たことがない。
(やっぱりかなり珍しいものなのかしら)
私の紫がかった銀の髪も珍しくはあるのだが、これは両親からの遺伝だ。父が深みのある銀色、母が明るい葡萄色、それを半分ずつ受け継いだ形だ。ちなみに兄は母譲りの葡萄色である。このような感じで髪の色は比較的遺伝の要素が強いのだ。
(遺伝……そうだとしても王族の皆様の中にもいらっしゃらないのよね)
彼の両親はこのような色を持たない。兄のディオン殿下は父親譲りの金髪だ。他の王族も知っている限りではあるが言ってしまえば皆『よくいる』髪色だった。つまり彼の特徴的な髪色は彼らからの遺伝ではないだろう。まさか、と脳内に嫌な憶測が浮かび思考を逸らすように首を横に振る。余計なことを考えることはやめよう。例え想像だとしても不用意に勘繰るのは彼に対してとても失礼なことだと思った。
(……そもそも今は他に考えなきゃいけないことがたくさんあるんだもの)
そのようなことに気を取られている場合ではないのだ。気を引き締めていこう。
「ねぇ、そんなに見られると穴が開いちゃうよ」
「えっ、あっ、それはルカ様の気のせいですわ! 私は見てませんっ!」
考えながら歩いていたためか無意識のうちにしっかりと彼を見つめていたらしい。私は恥ずかしさのあまり勢いよく否定する。
「そうかな?」
「そうですわ」
「本当に?」
「そうですって」
「何か考え事でもしてた?」
「それは……してましたけど」
「あはは、そうだよね!」
「こほん……皆様、こちらが応接間でございます」
案内してくれた使用人が気まずそうに咳払いをしてから私たちに声を掛けてきた。そうこうしているうちに宰相の待つ応接間についたようだ。




