<9>誠(まこと)から出た嘘(うそ)から出た誠
お芳の置屋の帰りである。いつもなら、屋敷へのご帰還なのだが、今朝は出仕だから、湯漬けを沢庵でかっ食らって飛び出す他はなかった。少し風が和らぎ、冬の終わりを告げる名残雪がチラチラと風花で舞っていた。兵馬は腕組みをしながら、いつものように漫ろ歩いて奉行所へと歩を進めた。足元を見れば、今日は間違いなく草履が左右にある…と、兵馬は馬鹿馬鹿しく思った。片草履では、同僚である与力の堀田主税に揶揄われるだろうし、内与力の狸穴の叱責は覚悟せずばなるまい…と兵馬は思えたから、足元へ眼をやったのである。卯の刻だから、辺りは暗く、まだ白んでいなかった。いつものことで朝一の出仕は兵馬に珍しいことではなかった。ただ、こうした場合は、昼までの空腹が辛くなった。
「月影さま、今朝はお早い出仕で…」
「おはようございます。ご苦労様です…」
門前を掃いていた下男の与助とは、初出仕以来の古い顔見知りだった。与助は疾うに五十の坂を越えていた。
「あの…少しよろしいでしょうか?」
与助が奉行所の中へ入ろうとする兵馬を呼び止めた。
「…なんでしょう?」
兵馬は訝しげに立ち止まった。
「奉行所が建替えられるとお聞きしたのですが、それは誠でございましょうか?」
「ああ、そのお話でしたか。身共も、誰ぞに聞いたような…。そうそう! 雀長屋の長太がそう申しておりましたな。なんでも、職人頭の一人として普請を仰せつかったとか…」
「そう、お言いで?」
「はあ、まあ…。それとなく訊いておきましょう。しかし、なぜ、そのようなことを?」
「他意はございません。私もすでに齢五十半ば。であれば、そろそろこの辺りが退く潮時かと…」
「いやぁ~、まだまだ、これからではございませんか」
口先では慰めの積もりだったが、よくよく考えれば、それもそうだな…と、兵馬は口にしたあと、しみじみと思った。
奉行所の昼時である。同僚の堀田主税といつもの三傘屋で親子丼と味噌汁で済ますのが兵馬の日課となっていた。
「お前、その話、誰から聞いた?」
「いや、それが思い出せねぇ~んだよ」
「規模は知らねぇ~が、誠の話のようだな…」
「そうか、誠か…」
「ああ…」
店を出ると、通り近くに植えられた梅の老木が、花蕾を大きく咲かせようしていた。だが、この話には裏があった。地方農民の季節労働者を一手に取り仕切る人足問屋と、こともあろうに奉行所差配の老中が結託した話で、奉行所は建替えするほど老朽化はしていなかったのである。兵馬はその裏情報を友人の旗本、土屋 監物から入手したのである。
「そうか…。黒幕は老中か…」
「ああ、お前が相手になる輩ではない。悪いことは言わん、諦めろっ!」
「このようなとき、素戔嗚さまが現れてくれたらのぉ~」
「今、なんぞ申したか?」
「んっ!? いや、なんでもない…」
「そうか…」
土屋は訝しげに兵馬を窺った。
「ははは…引っ括るのは、ど偉い大物だ。これは…俺の手の出る相手ではないぞ、誠から出た嘘から出た誠の話だ、ははは…」
土屋と別れた兵馬は、全てがややこしく、馬鹿馬鹿しくなった。飲んで一切を忘れようと、お駒が待つお芳の置屋へ歩を進めた。
完