<8>烏天狗(からすてんぐ)
芸者のお駒と兵馬がお芳の置き屋で湯豆腐を食らいながら話をしている。
「ふぅ~! 寒くっていけねぇ~や。この分じゃ、明け方は雪なんじゃねぇ~か?」
「風が雪を呼んでますから、たぶん、…でしょうね…」
お駒がそう言いながら銚子の酒を兵馬に勧める。
「おっ! …どうも、今夜は酔えねぇ~やっ! 降らねぇ~うちに帰るとするか…」
堅苦しい武家言葉が性に合わず、お芳の芸者置屋が鬱憤を晴らせる唯一の場所になっていた。
「積もるといけませんから、お泊りになった方が…」
お芳が熱燗を手盆に乗せて現れ、話に加わる。
「そうさなあ…」
お芳の置屋からは町籠がすぐに呼べたから、何かにつけ兵馬は重宝し、奉行所出仕に利用していた。
「烏天狗の一件、兵馬さま、お聞きになってらっしゃいます?」
手盆の調子を置きながら、お芳がそれとなく兵馬に訊ねる。
「ああ、その話は聞き及んでおる。おるにはおるが…」
「と、申されますと?」
訝しげな目つきでお駒が銚子を手にし、酒を勧める。
「いやなに…お上も、その手の話は調べがのう。…何分にも届が出ておらぬのだ」
被害の訴えが出なければ、奉行所に動く手筋はない。空になった猪口を手にし、お駒の酌を兵馬が受ける。貧乏人の家前に小判の雨を降らせる烏天狗は、巷で、もっぱらの評判となっていた。
「雀長屋にも二日前、降ったようでございますよ…」
お芳が空になった銚子を手盆に乗せ、去り際に小声で話す。
「ああ、喜助から二日前に聞いたところだ」
「盗賊でもない烏天狗って、いったい何者なんでございましょうね?」
「だな…。まあ、お前も一杯、飲め」
兵馬が空の猪口をお駒に差し出す。
「…」
お駒は無言でその猪口を受け取り、兵馬が手にした銚子の酌を素直に受ける。
「与蔵と又次が『ここ当分は、おまんまが食える』と申しておったそうだ…」
「喜助さんがそう言ってたんですか?」
「ああ…」
その次の日の朝、申し訳ない程度の名残雪が地面を覆っていた。それは恰も霜降のようであった。
烏天狗の正体は何者? 金の出どころは何処? という謎が謎を呼ぶ一件は、ひょんなことから、その真実が明らかになった。
ほろ酔いの兵馬が屋敷に向かい魚川端を漫ろ歩いていた。と、そのときである。
『フフフ…久しいのう、そこのお武家』
どこからともなく響くような声がした。
「なにやつ!!」
兵馬は一瞬、正気に戻って身構え、刀の柄に手をかけようとした。
『儂じゃよ、お武家…』
川面に突然、烏天狗の姿が浮かび上がった。
「出たな、物の怪っ!!」
『物の怪とは、聞き捨てならぬが、まあ、よかろう…。ほぉ~れ、いつぞやも出会うたであろうが…』
そう言うと、烏天狗の姿は、たちまち編み笠を被った辻占いの易者の姿へと変化した。
「おお! あのときの…」
『そうじゃ、天界にて姉上に追放された荒くれの須佐之男よっ!!』
「ま、まだ、この江戸におられたのですか…」
豪気な兵馬の声が俄かに震え出し、小さくなった。
『少し用ができた故通りがかれば、この世間の様よ。悪き奴輩が闊歩し、温々(ぬくぬく)と泡銭を手にしておる。見かねた故、スゥっ~と頂戴し、スゥっ~っと貧しき者どもへ分け与えたまでのこと。フォッフオッフオッ…』
「そうでございましたか…。そうした悪き者どもは奉行所でも捕らえられませぬ。ありがとうございました」
兵馬が深くお辞儀をし、川面を見上げると、易者の姿はふたたび烏天狗の姿へと変化した。そして、何処ともなくスゥっ~と消え失せたのである。
その後、貧乏長屋に小判が降ることはなくなった。兵馬はそのことを自分の胸だけに留めおこうと今日も漫ろ歩いている。
完