<7>消えた腰掛け地蔵
年が改まった一月の半ば、江戸に雪が舞っていた。
『お寒~ぅございますねぇ…』
『ええええ、本当に…』
魚屋の喜助が女中 頭のお粂と話す声が朝餉をとる兵馬の耳へと微かに届いた。
「おう、喜助かっ! 朝早うから精が出るのう!」
『兵馬の旦那、いなすったんですかい。…お出かけじゃ?』
「馬鹿を申せ。出仕してばかりでは身がもたぬわっ、ははは…」
『そりゃ、そうでごさいますなっ! ははははは…』
喜助も兵馬に釣られて賑やかに呵った。
「今日は何を届けに来てくれたのだ?」
『へえ、お粂さんに頼まれてやした寒鰤のいいのが今朝の河岸で入ったもんで…』
「そうか、それは夕餉が楽しみだっ! ところで、ここ最近、何か変わったことは起きておらぬか?」
『いやね、…実はそのことをお知らせしようと思っておりやしたが、生憎、商売の方が滅法、忙しくなったもんで…』
「ははは…それは結構なことだ。でっ!?」
『へいっ! ちょいとお待ちをっ! お粂さん、これなんだがねっ!』
『おやまあ…。こりゃ生きのいい寒鰤だことっ!』
「粂、そんなに生きがいいのか?」
『そりゃもう! 旦那さま』
「ははは…こりゃ益々(ますます)、夕餉が楽しみだっ! 喜助、まあ上がれ」
『いえ! これから稼ぎがありやすんで、腰だけ下ろさせていただきやすっ!』
兵馬に促され、喜助は式台へ腰を下ろした。
『実は旦那、二町ばかり離れた腰掛け地蔵の一件なんですがね…』
「んっ!? 腰掛け地蔵がどうかしたのかっ!」
『どうかしたもなにも、数日前から行方が知れねぇ~んでっ!』
「行方が知れんとは、どういうことだっ!?」
『ですから、消えちまったんですよっ!』
「消えた!? 消えたとは、地蔵が拐かされた、ということか?」
『いや、そこまでは分からねぇ~んですがねっ!』
「地蔵さまが拐かされたとあっちゃ~始末に負えねぇ~やっ! ははは…」
『喜助さん、番茶ですが、まあ一杯…』
『こりゃ、どうも…』
お粂が手盆に乗せた茶碗を上り框へ盆ごと置いた。兵馬からは襖越しで見えない。喜助は、その茶を啜りながら話を続ける。
『界隈の者は、罰当たりなヤツがいたもんだって話してんですがねっ!』
「そりゃ罰当たりだっ! …それにしても地蔵さまをどうするってんだ? 足がつくから売り物にもならねぇ~だろうしなっ!」
『そうなんですよっ!』
「よしっ! 今日はコレといった野暮用もないから、ちくっと当たってみるとするかっ!」
『ええ…是非、そうして下さいやし。それじゃ、あっしはこれで…』
喜助は残った茶を飲み干し、小忙しく兵馬の屋敷から消えていった。
巳の下刻、兵馬は腰掛け地蔵へと出向いてみた。兵馬にとって腰掛け地蔵は幼少の頃より馴れ親しんだ地蔵である。かなり古くから鎮座する地蔵らしく、悩みを抱えた雀長屋の連中もよく日参していた。地蔵前の御影石に腰掛け、ひと月の間、日参して一心不乱に念じれば、願い事が叶うという霊験が信じられていた。この地蔵、地蔵尊としては珍しく、背丈が二尺ばかりの小ぶりの地蔵だった。
兵馬が地蔵を祀った祠前まで近づくと、以前から顔見知りの祠はあったにはあったが、中のご本尊は確かに消え失せていた。
「金目当ての盗賊はお縄に出来るが、この手の盗賊は苦手だ…」
兵馬は腕組みしながら、さて、どうしたものか…と思案に暮れた。奉行所にこの一件を持ち帰ったとしても、内与力の狸穴から、このクソ忙しいときにっ! と叱咤されるのが関の山だった。すると、そこへ雀長屋の与蔵と又次がヒョイ! と通りかかった。又次が爪楊枝で歯をシーハーさせながら、低腰で兵馬を窺う。
「月影の旦那、この前はどうも…」
「ああ、月見のことか…」
「いいえ~うどんじゃないんで…。法外な手間賃を頂戴しやして…」
「んっ!? ああ、あのことな…」
兵馬としては一朱の積もりを間違えて手渡した一分銀だったから、仕方なく暈したという寸法だ。
「それはそうと、腰掛け地蔵を持ち去ったやつを引っ括って下さいやし、月影の旦那っ!」
与蔵が話に加わる。
「おお、無論のこと!」
当てなど全くなかったが、そう返すしかない兵馬であった。
「いったい、どうするってんでしょうねぇ~」
又次が祠を見ながら首を捻る。
「そのことよ…。どうも合点がいかんのだ」
「売り物にも出来ねぇ石の地蔵さまですよっ!」
「ああ…。なんぞ分かれば、喜助に伝えといてくれ。これは当分の駄賃だ」
「いつも、すまねぇ~こってす」
今日は間違いなく一朱を…と意識して手渡した兵馬だったから、少し語気も強い。だが、紋付きの房が半ば切れていることには気づいてはいない。与蔵も又次もそうとは分かっているのだが、駄賃を貰った手前、ニヤリとして押し黙る他はない。
それから十日ばかりが経ち、話は呆気なく解決した。雀長屋に住まう平助の息子で、今年で七つになる市松の仕業だったのである。母のお千佳が寝たきりで、病気平癒をひたすら願う子供心の拐かしである。拐かれた地蔵は、こともあろうに平助のボロ小屋に鎮座していた。日々、市松は地蔵へのお祈りを欠かさなかったという。そして、不思議なことに、お千佳の容態は持ち直し、十日ばかりのち全快した。
「まあ、そんなことだ、お駒…」
芸者、お駒の膝枕で一杯やりながら、兵馬はコトの次第を話した。
「さよ、でしたか…。でも、よかったじゃありませんか、兵馬さま。めでたし、めでたしなんですから…」
「ああ、無邪気な子供の仕業だからな。お上も無碍に裁けねぇ~ってこった、ははは…」
お芳が仲睦まじく語る二人の姿を暖簾越しに覗き、見ちゃいられない…とばかり、サッと踵を返した。
置き屋の前栽に植えられた梅が、早くも綻びかけていた。
完