002
どうやら街中に落ちたらしく、街路の石畳は月光をほんのりと反射していた。
コンクリートの街並みとは程遠く、むしろルネサンス様式に近い事からここが元の世界でないのはどうやら本当らしい。
街路に面した白い石造りの建物を見ながら、ヒロは人ひとり居ない大通りをあてどなく歩いていく。
「スキル、かぁ…。」
神を怒らせてしまった事を今になって少し後悔していた。
手に提げている紙袋の中には、ヒゲから貰った能面と飲まずに余ったワインのボトルが1本。
財布とスマートフォンは持っているが、これが異世界で何の役に立つだろうか。
こんな事なら、食い扶持を稼げるようにスキルの一つでも貰っておくべきだった。
街路はほどよく涼しく、夜空も雲一つない星空が広がっている。
野宿でも凍死するような事にならないなのは不幸中の幸いというべきか。
明日からどう生きていくか。
いくら論破が得意でも、異世界でそれが通用するとは思えない。
相手からの反感を買えば、殺されて終わりなんて事もあるだろう。
この異世界にも法律があり自分を殺した人間が裁かれるとしても、そんな事で殺されるのは御免だ。
途方に暮れながら歩き続けていると、街路の一角に光の灯った建物が見えた。
笑い声と怒号が混じりあった騒がしさなので、おそらく飲み屋か何かだろう。
この異世界の通貨の持ち合わせは一切ないが、行ってみれば何かあるかもしれない。
そんな希望的観測で飲み屋らしき建物の押し戸に近づくと、
「うるさいわね! あんたらみたいなしょうもないパーティなんて抜けてやるわ!」
という大声と共に両開きの押し戸がバンッと開かれた。
そこから飛び出してきたのは、この月夜に照らされてなお深紅に映える長髪の女性だった。
その髪色も相まって怒り心頭に見える女性は、こちらをギロリと見る。
「何あんた、見てんじゃないわよ! 呑気な顔して目パチパチさせて。なんか文句あんの?」
「いえ、すごい怒っていらっしゃるみたいなんでどうしようかと思ってまして…。」
「そうよ私は怒ってるの。見てわかんない?」
「いやだから怒ってるみたいだって…」
「だからあんたねぇ! …ハァ。」
深紅の女性は諦めた様子で大きな溜息をついた。
どうやらヒロお得意の論破力は、相手を戦意喪失させる力もあるようだった。
「いいわ、あんた何? ここで何してるの?」
「えっと、お金がないもんでどうしようかなと思ってて。あっ、お酒なら持ってるのでちょっと店内で飲んで暖まれればなーなんて。」
品定めするようにこちらを見ていた女性は、はっと思いついたように表情を明るくした。
「あんた今から付き合いなさい。金がなくて宿も取れないんでしょ。」
そういうと女性はヒロの腕を掴んで、大きく開かれた押し戸に引きずっていく。
女性に引き摺られるひ弱なヒロは、ふりほどく間もなく酒場に連れこまれた。
「おいおいリエ、もう帰ってきたのかよ。こりゃ最短記録だな! 俺たちとまた一緒にドブ浚いする気になったか?」
「うっさいわね! あんたらとは酒の一杯すら金輪際付き合う事はないわよ!」
この深紅の女性はどうやらリエというらしく、店内から飛ばされる野次に大声で返している。
店内はやはり酒場のようで、木製のジョッキを掲げて盛り上がる人々が騒がしい。
腰には剣を携えたまま酒を酌み交わしている様子から、本当に異世界に来てしまったんだと実感した。
リエに引き摺られて店内の壁際の席に座ると、対面にリエがどっしりと構えて座った。
「で、あんたの酒を出しなさいよ。不味い酒だったら只じゃおかないからね。」
「いやこれ僕の酒なんですけど。」
「あんた、本当ッにうるさいわね。出せって言ったら出すのよ。」
この女性に論破は通じない。やはり異世界には論理など存在しなかったのだ。
力に屈したヒロは渋々ワインを取り出して置いた。
「ふーん、葡萄酒ね。まず私が飲んであげるわ。」
リエはウェイターを呼ぶと、ジョッキを二つ持ってきてもらうよう頼んだ。
リエはその間に腰元からナイフを取り出すと、ナイフをコルク栓に立てて器用に開ける。
「…へぇ、いい香りじゃない。結構いいもの持ってんのね。」
香りだけで分かるのかと感心するヒロ。元の世界だと結構お高いワインだったのだが、その価値はこちらの世界でも同様なのかもしれない。
ウェイターがジョッキを持ってくると、十円玉のような硬貨をチップとして渡していた。
剣を携えた人々が酒場で飲みかわすくらいなので、この世界は金本位制なのだろうか。
そんな事を考えていると、早速リエがジョッキに注いだワインを口にしていた。
するとリエが驚いたような表情をし、そのまま一気にジョッキのワインを飲み干してしまった。
「あんたこれ、超上物じゃない! こんなの滅多に市場に流れてこないわよ。何よこれ、あんたどっから盗んできたの?」
驚いた表情から一転こちらを疑う視線に変わり、何と説明しようかとヒロが考えていると、
「まあいいわ、あんた金ないんでしょ。このワインはもう開けちゃったし、しょうがないわね。私に任せなさい。」
そう言うと突然立ち上がったリエは、ワインボトルを持ったまま先程野次を飛ばしてきた一団のテーブルに向かう。
何やら話し込んでいるようだが、しばらくするとリエがまたワインボトルを持って帰ってきた。
「私たちの飲む分が減っちゃったけど、いいわよね。はい、これ。」
リエは百円玉のような銀色の硬貨数十枚を机の上に置いた。
どのくらいの値段かは分からないが、どうやら僕のワインは銀貨に変わったらしかった。
「あいつらもこんな良いワインを銀貨程度で飲めて幸せでしょうね。感謝してほしいもんだわ。あとあんたも私に感謝するのよ、この一文無し。」
「いや元々僕の酒なんですけど…。」
「いちいちうるさいのよ。さっ、早く飲まないと味が抜けちゃうわ。」
リエが二つのジョッキにワインの残りを全て注いでいく。
リエは再度ウェイターを呼んで注文をし、机の上にまだ置いてあった銀貨一枚を取ってウェイターに渡した。
そんなこんなでリエの愚痴を聞きながら、ヒロとリエは夜通し飲み明かしたのだった。