001
黒い穴へと落ちて何秒、何分が経っただろうか。
周囲は何の光もない暗闇から、徐々に夜へと変わっていた。
月明かりが周囲を照らし、星々がいま自分が顔を向けている方向を教えてくれる。
そして、未だヒロは落ち続けている。
「…っ!」
穴へ落ちた時の浮遊感はまるで宇宙にいるような感覚だったが、今は体じゅうで空気抵抗をひしひしと感じ、ここが高度数千メートルにある事を嫌でも知らせてくる。
声は出ない。それが落下による恐怖からなのか、風切り音が大きすぎて声が聞こえないからなのか分からなかった。
下を見ようと試みたが、顔にかかる風圧で目を開く事は困難だと分かった。
ヒロは死を覚悟しながら、生き残れる可能性を考えた。
木があって、運よく枝に引っ掛かりながら減速できるか。
海水で衝撃を緩和できるか。
とりあえず空気抵抗を大きくするために大の字になるべきか。
いつ地面に衝突するかも分からない時間を過ごしていると、ふいに風圧が消えた。
僕は死んだのか? 地面に衝突して即死だったのだろうか。
浮遊感は変わらず残っているが、手足は動く。
状況を把握しようとして、体をひねって下を向こうとしたとき、
『危ないところでしたね、ヒロさん。』
自身を見下ろすようにして、宙に人が立っている。
それはまるで、ダ・ヴィンチの絵画に描かれるキリスト像そのもののようだった。
なぜかはわからないが、それが人ではなく神であることをヒロは直感した。
『ヒロさんは、上の世界から下の世界へと落ちてしまいました。』
『この世界は上の世界と違って大変危険です。』
『これからヒロさんがこの世界で生きていくには、少々厳しいでしょう。』
『そこで、ヒロさんにはスキルを贈ります。』
『ヒロさんはどんなスキルをお望みですか?』
頭の中に響くような声が、立て続けに聞こえてくる。
唖然としていたヒロは、ここでようやく思考を働かせて口を動かす。
「えっと…その、神様なんですか?」
『はい。神です。』
「あっ神! 神っていたんすね! えーっと、じゃあ、神である証明をしてください。」
『……神です。』
「いや神なんだったら神っぽい事してくださいよ! それなら僕も神ですって言えば神になれますよ。ってかスキルってなんですか? プログラミングのスキルならもうありますけど。」
『……スキルは、ヒロさんのこれからの人生をよりよいものにする能力の事です。』
「そのスキルというのが、例えば一般的に努力すれば手に入るものを貰えるのか、漫画みたいな特殊能力を貰えるのかで僕の欲しがるスキルが変わってくるじゃないですか。えっと、神様はどんなスキルを準備してるんですか?」
『………どんなスキルでも与えられます。』
「えーっと、じゃあ神を殺すスキルとか神より上の存在になれるスキルとか言ったらくれるんですか? というか、人生をよりよいものにする能力をくれるって、それ上の世界でも皆に配った方がよくないですか? 本当に神様なんだったらご存じだと思うんですが、上の世界の人たち結構不幸ですよ。でも神様は何もしないじゃないですか。
だから、僕は神はいないと思ってたんですが、もしあなたが本当に神なんだったら、ほんと”無能”ですよね!」
『なんなんだよお前! オイ!』
先ほどまで神とやらは微笑みを湛えていたが、今ではその面影は完全に消えてしまった。
神でなく鬼と表現すべき状態になってしまった神とやらは、さらに声を荒げる。
『こっちだってちゃんとやってるわ! 命を救済するためにこうやって今日も出張ってきたのになんだお前!』
「いや、僕ひとりを救うよりもっとたくさんの命を救えますよね? もし本当に神ならですが。」
『だから今日こうして上から落ちてきた人にスキルを与えてるんだろうが! 転生した人にスキルを与えて、その人に下の世界を救ってもらってるんだろ!」
「いや、神様が自分で救った方が早くないですか? 異世界転生する人だって必ず良い人とは限らないじゃないですか。あと下の世界の人だけじゃなくて上の世界の人も救った方がいいんじゃないですか? それと――
『あのさぁ! じゃあさぁ! お前さぁ! 異世界転生者がスキルを持ってるから救われてる命もあるんだぞ、たくさん。』
「異世界転生者が悪い人だったら失われる命も出てきますよね。」
返す言葉がなくなった神とやらは、顔を真っ赤にして歯ぎしりをしながらこう叫んだ。
『もう帰るわ!!!! 驕るなよゴラァ!!』
「えっどこに帰るんですか?」
『もう家帰るわ!!』
まさしく怒号を残して、神はフッと消えてしまった。
それと同時に、感じていた浮遊感は消え、すとんと地面に体が落ちた。
どうやら地面すれすれの位置で止められていたようだった。
スキルを貰えないまま取り残されてしまったヒロは、呟く。
「神様って、家あるんだ…。」