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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

戻ってこいと言われてももう遅い。追放された直後に近所のお姉さんに捕獲されて、楽園のように幸福な同居生活に辿り着いてしまったから……。

作者: quiet



 そこには死体が埋まっていた。

 キッチン。床下収納。何の気なしに開いたその場所――つまり、彼女の家の中に、それは埋まっていた。紐で縛られた手足は小さく畳まれて、ぞっとするような冷気が僕の顔まで吹き付けてくる。


 屈めば、見える限りの全てが見えた。

 陰気な土埃に彩られた顔。首元に、薬品で焼かれたような奇妙な痕。防腐のために置かれた氷の魔法石。暗がりの中、何ヶ月も放置されてきたのだろう孤独。それでもどことなく残る温度はきっと、かつての生き物としての気配。


 選択が必要だった。

 目の前の現実を、どう処理すべきか。


 だから、僕は思い出すことにした。

 ここに至るまでの自分の顛末――つまりはまだ精々、二十年にも満たないくらいの、僕自身の人生のことを。


 死体の目の前で。

 窓から差し込む焦げ付くような夕の陽を、頬に受けながら。




───−−    −−───




「やる気がないならやめろ」

 と、リーダーは言った。これがちょうど、二ヶ月ほど前のことになる。


 その頃の僕は、それなりの規模の冒険者グループに所属していた。役職は後衛の回復担当。仕事ぶりは、ひょっとすると自己弁護の気持ちも入っているのかもしれないけれど、可もなく不可もなくといったところだったんじゃないかと思う。


 それでも、リーダーは言った。

 やる気がないならやめろ、と。


「そう、見えますか」

「ああ。見ればわかる」


 リーダーはそろそろ三十に差しかかろうかという年だった。

 冒険者団のプレイングマネージャーとしてはそろそろピークを迎える。業界という大きな枠で見ればどこにでもいる一流だったのだろうが、しかし個人として見れば、何の問題もなく成功者と呼べる、そんな男だった。


 見てもわからないことだっていくらでもあるだろうに、こういうことを言うとき彼は全く「自信のなさ」のようなものを覗かせなかった。彼の肩幅は広く、五分刈りで、かつてワイバーンと戦ったときについたという額の傷跡を、一度だって隠したことがなかった。


「お前には覇気ってものがない」


 彼の指摘は本当にもっともなものだった。

 お前には目も口もあるようだが、角は生えていないんだな――そのくらい当たり前のこと、見ればわかる範囲のことを、彼は僕に告げていた。


「冒険者っていうのは、危険な職業だ。チームの中にお前みたいな人間がいると、全体に悪影響が出る」

「やめろってことですよね」

「やる気がないのなら」


 しばらく、無言の時間があった。

 ギルドの中の、小さな会議室。受付に言っておけば一時間を大体食事一回分くらいの値段で借りられる、そんな場所。


 ちらり、とそのとき僕は、部屋の入り口を見た。

 そこには予約表が張ってあって、それによると五分後、また別のパーティがこの部屋を使うことになっていた。


 だから、たっぷり四分。

 時計の音に耳を傾けた末に、僕は立ち上がって、こう言った。


「それじゃあ、お世話になりました」


 僕は人生なんてものは心底どうでもいいものだと思っていた。

 たまたま生まれた。だから他の人に倣って、同じように生き延びることにした。僕にとって、僕自身は、その程度の存在でしかなかった。


 回復魔術を覚えたのは、潰しが効くと聞いていたからだ。


 生きている限り、職を失うということはいつでも起こりうる。それはたとえば、小さな子どもに大切にされていた人形が、ある日突然捨てられてしまうみたいに。あるいは、その持ち主だった子どもが、ふとした弾みで死んでしまうみたいに。


 だから人は、自分に保険をかけておく。

 需要の大きな技術を手に入れておくのだ。そうすれば、ある場所を追いやられてしまったとしても、ひょっとしたら別の場所で生きていけるかもしれない。需要が大きければ大きいほどその公算も大きくなる。


 僕がわざわざ教会学校なんかに入って、辞書みたいな量の教典に縛られた生活を耐えてきたのは、その需要という点において、回復魔術は永遠の位置に立っていると思ったからだ。この技術が廃れるときは、きっとすべての生き物が絶えて死が世界を支配したときか、それともすべての生き物が幸せになったときだけだ。前者の場合はもう生きる努力なんてする必要もなく、そして後者が訪れることは決してない。


 しかし残念ながら――特にメンバーの誰に別れを告げるでもなくギルドハウスを出て、家路を辿りながら思ったことには――僕のこの無気力は、どうにもただ一つの技術を身に着けたくらいで覆い隠せるものではなかったらしかった。再就職はそう簡単に叶うまい、と自分で思う。動く気のない者を受け入れる場所は、この地上にそうそう多くは存在しない……。


 諦めとともに歩いていたのは、夏の、青黒い夕暮れの中だった。西の空だけがほのかに赤い。けれどそれ以外は、熟しきらない夜のような、不確かな色を浮かべていた。昼の月が今まさに夜のそれへと変わりゆく、そんな時間。


「元気、ないね」

 彼女が話しかけてきたのは、そのときだった。


 それなりに地価の高い区域に、僕は住んでいた。特に他に金をかけるようなところも見当たらなかったからだ。冒険者を辞めた途端に生活の見通しが立たなくなるほどではないが、しかし長くそこにいるわけにもいかないから引っ越しは覚悟しなくてはならないだろう――そんな立地の集合住宅で、一人きりで暮らしていた。


 彼女はその隣人だった。といっても、彼女の場合は集合住宅ではなく、隣の戸建てに住んでいたのだけれど。


 亜麻色の長い髪をなびかせて、布の袋の中にいくらかの食べ物を詰め込んで、僕を心配そうに見ていた。


「何か嫌なことでもあった?」

「いや、別に……」

「ふうん?」


 知らない仲ではなかった。

 もちろん近くに住んでいるからというのもあるけれど、それ以上に、仕事の関係で。


 彼女は大学で錬金術を修めていた。そしてその技能を生かすためにと、この街で小さな魔法具店の店員として働いている。大手とは行かないながらも、その実験的で尖った性能を好む人間は冒険者の中に数多く、だから僕も、パーティメンバーとして何度も彼女の店に赴き、購入、あるいは注文を行うことがあった。


 年は、おそらく向こうが三つほど上。

 こうして見かければ話しかけて、同じ道を並んで歩くくらいの親密さはあった。もっとも、僕は大抵の場合、道を歩くとき人の顔なんて見ないものだから、彼女から話しかけられてばかりだけれど……。


「やっぱり、嫌なことあったでしょ」

 ふざけるように肩をぶつけてきながら、彼女が言った。「何かこの世の中に疲れたって感じの顔してる」


 いいえ、と答えることももちろんできた。

 というより、これはほとんど挨拶みたいなものだということはわかっていた。いつもの流れだったら、きっとこうだ。暗い顔してどうしたの。元からです。なーんだ元からか、あはははは。


「仕事がなくなりました」


 その流れが壊れれば、彼女は絶句した。

 暗闇の中で指を差し伸べた先、そこで人の目にでも爪を刺してしまったというような表情。思いがけず、人を傷つけてしまったときの顔。


 僕はそれを、気にせず歩いた。

 彼女もそれに合わせて、その夕闇の中を歩いた。


 そっか、と彼女が言ったのは、二十歩ほど歩いてからのこと。


「寂しくなるね」

「はい」

「あそこのパーティ、他の人みんな強面だからさ。結構、他の店員さんからも評判良かったよ。『今日は美形くんが来たからラッキーだった』とか、そんなこと言ってた」

「すみません」

「や、そんな、謝ることないけどさ……」訊きにくそうに、彼女は、「……もしかして、引っ越しちゃうの?」


 そうでしょうね、と僕は頷いた。


「このあたりにずっといるのは厳しいですから」

「そうだよね」

「はい」

「……そう、だよね……」


 足音だけが響き続けて、僕は自分の家の前についた。鞄の中から部屋の鍵を取り出して、「それじゃあ」と彼女に言う。ひょっとすると、もう二度と会わないかもしれないからと思って、そんないつもの言葉に、もう一言だけ付け加えた。


「お世話になりました」


 背を向けようとする僕の袖を、彼女が捕まえた。

 驚いて振り向いても、彼女の表情は見えなかった。俯いていて、僕の方が背が高かったから。せいぜい見えるものといえば、つむじと、長い髪が流れて露わになった、細く白い首筋。そのくらい。


「あのさ、」

 と震える声で、彼女は言った。



 一緒に住まない?




───−−    −−───




 甚だ奇妙な条件だった。

 彼女は僕に、「何もしなくていい」と言った。「何もしなくていいから、一緒に住んで」と言った。僕はそれを、彼女から僕に向けられる強烈な好意、あるいは彼女が彼女自身の中で培養している行き場のない奉仕精神の奇妙な発露……そんな風に、受け取った。


 だからそれに、頷いて応えた。


 好意を向けられているというなら、それに応えることに何の間違いもない。そして奉仕精神であるにしろ、感情の解消に付き合うことには何の負い目もない。僕には失うものなどもう何もなかったし、彼女の誘いに乗ることに躊躇いの生じる余地はなかったのだ。


 生活は、少しずつ改善されていった。


 初めの頃、彼女は当然、もっとぎこちない様子だった。これまで自分一人で住んでいた家に新しくやってきた異物――それにどうやって対処すべきか、決めかねているように見えた。


 けれど、彼女は僕に打ち解けていった。僕は僕で、環境の中に適応するための努力をした。彼女の行動の一つ一つをそれとなく観察し、この家の中にあるルールを学んでいった。物の置き場、食事の仕方、最適な声の音量、洗濯籠に衣服を入れる際に許容されている乱れの程度――そんな、一人のときには気にしないような、ほんの些細なこと。


 やがて彼女は、僕の身体に触れるようになった。たとえば、隣り合わせで本を読んでいるとき、ふと彼女は僕の指に触れてくる。指と指を絡めて、けれど視線は合わせない。僕はそのたび、昔家の近くに住んでいた野良猫のことを思い出す。右耳と左耳の形が違っていて、時々僕の足元に寄ってきては尻尾を絡めてきた、茶色の猫のこと。


 身体の距離が近付けば、心の距離も近付くらしかった。彼女は少しずつ、僕の顔を見て笑みを深めるようになっていった。口数が増えた。僕の暗い性格についても何度なく言及するようになり、そのたびに彼女は「あなたの欠点も愛する」と言いたげな、惜しみのない親しみを僕に披露した。


 僕は、その時間が嫌いではなかった。

 少なくとも、冒険者なんて職業の中で、血まみれの人間の肉や骨を弄り回しているのよりは、ずっと。


 けれど――ふと、今にして思うことがある。


 僕はどうして、ここにいるのだろう。

 本当に、僕の思うような理由で、彼女は僕に同居を持ち掛けてきたのだろうか?


「…………」

 今、僕の目の前には、死体が転がっている。


 ここまでの時間を振り返り尽くした僕は、それをまたじっと眺め――それから、態度を決定することにした。


 地下収納の、扉を閉める。

 ここに死体があると知ったのを、隠すことにする。


 けれどそれは、死体の存在を忘れることを意味しない。


 保留。

 僕のした選択はそれ。


 僕はもう少し、彼女について知る必要がある。

 記憶が教えてくれたのは、精々そのことくらいだったからだ。



───−−    −−───




「ただいま~! 今日も一日疲れたよぉ」

 そう言って、彼女は家の扉を開けて帰ってくる。


 集合住宅にいた頃と違って、今のこの家はそれなりの広さを誇っている。子どもの数人いる家族だって、おそらく部屋数に困ることはない。そんな家。だから、リビングで本を読んでいるときに彼女の声が聞こえてくるということは、つまりそれなりの大きさだということで。


 僕はそれを、合図だと思っている。

 帰ってきたから、迎えに来て。労って。そういう、彼女のサインだと思っている。


 だから、リビングで読んでいた本を置いて、立ち上がる。大抵の場合、僕は玄関まで足を運ぶ必要はない。よほど脱ぐのに時間がかかるようなブーツでも履いて出た日でもない限り、彼女はスムーズに居間に入ってくるからだ。


 彼女が、僕の姿を見る。

 蕩けるような笑みを、もう隠すこともない。荷物を置いて、小さな子どものように、彼女は僕に抱きついてくる。僕は背中に手を回して、やわらかくそれを撫でる。


「大変だった?」と僕が訊けば、

「そうでもないよ」と彼女は応える。「今日も楽しい一日でした。頑張りはしたけどね」


「偉いね」と言って僕は彼女を抱き締める。言葉の選択は、ちょうどここに来てから四十日目に彼女自身が要求してきたものだった。偉いね。その言葉が、一日の苦労の果てに待っていてほしい。そう彼女が言ったから、僕はその言葉を口にする。


 これは一種の労働だった。

 ここでの暮らしにかかる生活費の全ては彼女が負担する。そして一切の家事も、彼女が執り行う。だからこれは、この家の中で僕が生きていくために行う、最小限にして最大限の労働だった。機嫌取り。もっともそれは、僕が自主的にやっているだけのものなのかもしれないけれど。


「もうお腹空いてる?」

 僕から身体を離すと、彼女はそう言った。「私は空いてるんだけど」


 僕は頷いて応える。本当のことを言うと、ここに来てからというもの大して運動もしていないから、大抵の場合、空腹は感じていない。けれどそのことを正直に伝えたところで何か良いことがあるとも思えないから、僕は彼女の表情に合わせて返事をすることにしている。


「じゃあ、作っちゃおうかな」

 そう言って、彼女はついさっき床の上に置いた荷物を手に取った。一つは仕事用の鞄。もう一つは、帰り道に買い物をしてきたのだろう、中身の詰まった布のバッグ。


 僕は珍しく、彼女がキッチンへと向かうのについていった。


「何、どうしたの?」彼女が振り返って、呆れたような、面白がるような笑みを浮かべる。「そんなにお腹減ってる?」


 いや、と反射的に首を横に振ろうとして、僕はそれを堪えた。ついさっきのやり取りとの矛盾が生じないように。そして、率直にこう言った。


「何か、手伝おうかと思って」

「いらない」


 彼女の言葉は、僕が言い切るよりも少しだけ早かった。


「いらない」


 そう言って、彼女は笑う。

 攻撃的なニュアンスを含む笑顔ではない。ただ、にっこりと。可憐と言って差し支えない表情で、彼女はにべもなくそれを断る。


「……そっか」

「うん、そうだよ。座って待ってて」


 最初に提示された条件の、隠された本当に、僕は気付きつつあった。


 彼女は最初に言った。何もしなくていいから一緒に住んでくれ、と。

 それは本当のところ、あまり正確な言い方ではなかったように僕には思える。正しくは、彼女は僕にこう伝えるべきだったのだ。


 一緒に住んで。

 そして、何もしないで。


 彼女は僕の活動を嫌がる。

 家事の全てもそうだ。彼女は必ず僕の昼食を作り置いた状態で仕事に出る。僕がキッチンで取る行動のうち許されているのは、それをリビングへ運ぶことだけだ。洗濯も、掃除も。彼女は全てにおいて、僕がそれをすることを嫌がる。


 一度だけ、僕は彼女のいない間に家の掃除をしたことがある。同居するにあたって居住空間を清潔に保とうとすることは、一つのマナーだと思ったからだ。生活費の負担もないなら、なおさら僕がそういう役割を担うべきだろうとも考えていた。


 それに対する彼女の反応は、ごくシンプルだった。


「二度とやらないで」


 笑ったまま、そう言った。

 それ以上は、何の説明もなかった。


 生息領域の侵害。

 彼女はそれを嫌うのではないか、と僕は推測していた。


 たとえば、自分に強烈な好意を抱くハウスキーパーがいたとする。彼、あるいは彼女は、自分が家を空けている間に勝手に掃除を行い、勝手に食事を作ってくれるとする。では、そのような人間と自分が「一切の契約を結んでいない場合」――そんなとき、ハウスキーパーに対して好意的な感情を抱くことがあるだろうか。


 おそらく、大抵の人間はそうはならない。

 自分の居住空間を、たとえ善意であれ他人に自由にされることを、多くの人間は望まない。


 彼女は確かに僕に、一緒に住まないかと言った。

 けれどそれは、二人で新たな生活空間を築き上げよう、という誘いではなかったらしい。彼女は僕を、自身の生活空間の中に引き入れた。それ以上のことは、何もさせるつもりがなかった。


 だから、僕が彼女のために行おうとするあらゆる生活上の共同行為は、彼女にとっては、侵害に他ならない――そのように受け止められているらしい。おおよそ二週間もする頃には、そのことに気が付けた。


 だから、この顛末も僕は予想していた。ダイニングでぼんやりと、彼女が調理を行う音を聴いている。やがて盆に皿を乗せて彼女がやってくる。そのときの彼女の表情を観察して、僕はその料理に対してどのような感想を述べるべきかを決める。今日は単純で、「初めて食べたけど、美味しい」が正解のように思えた。彼女は「この世で初めて作られた料理ですから」「私のオリジナル」と言って得意満面になる。僕は彼女より少し早く食べ終えるけれど、皿をキッチンに持って行くというたった一つの行為すらも許されていない。ましてそれを洗うなんて、夢のまた夢だった。


 彼女が食器を洗い終え、僕達はシャワーを浴びる。僕は彼女の用意した服に着替える。ここに来るまで持っていた服は全て捨てられた。「もう古くなってるから」というのが彼女の言い分で、僕自身、そのことにあまり異論はなかった。彼女は職業柄か物の寿命というものをよくわかっているようで、一方で僕は、かつての職業柄、もうほとんど取り返しのつかないものすらいつまでも引き留めてしまう傾向にある。


 それからは、ボードゲームをするか、本を読むか、どちらかの時間が待っている。僕はその二つのうちの一つを選ぶ必要はない。ボードゲームをするべき日は、彼女が決めてくれるからだ。シャワーを出てすぐにベッドに向かう日は、もう今日は頭を動かすようなことをしたくないという合図。だから僕はそのベッドに横たわる彼女の隣に座って、ぺらぺらと本を捲り始める。もちろんそれは、彼女が僕に買い与えたもの。


 僕は本を右手で読む。

 だから彼女は、僕の左手を取って、自分の両手で撫でさする。少し伸びた爪を使って、僕の爪の甘皮をかりかりと削る。時々、それは行き過ぎて出血を伴う。そのたびに彼女はこう言う。


「あーあ」「痛い?」


 痛くはない、と僕は言う。

 大抵の冒険者上りは、自身の些細な怪我に鈍感になっている。鈍感になりすぎる前に引退するのが生き残りの秘訣らしい。気付かぬ間の出血で、ころりと死んでしまう人間も珍しくはないから。


 僕の右手は美しい。

 彼女が用意した美容品で、隅々まで丁寧に処置されているから。


 一方で、左手は傷が目立ち始めている。

 爪の甘皮がほとんどなくなって、だから新しく生えてくる爪が波打つようになった。両手をそれぞれ別の形で見せれば、それが同一人物の右手と左手であると見抜ける人間は、それほど多くないように思われる。彼女は僕の左手を見るたびに「大丈夫?」と訊ねる。そして僕は「大丈夫」と答える。すると彼女は安心したように、僕の左手をぺったりと頬につける。


 幸せそうな顔を浮かべて。


「人を殺すときって、」

 そう言って、僕は切り出した。


「え?」

「どんなときなのかな」

「何? どうしたの、急に」

「いや、この本で……」

「出てこないでしょ? そんなシーン」


 彼女は、悩むでもなくそう言った。

 おそらく彼女は、僕に与える本を、僕よりも先に全て読み終えている。


「なかったけど、人を生むシーンがあるから」

 僕はその背表紙を見せた。もちろん彼女は知っているだろうが、念を押すために。数年前に流行していた、ロマンス小説。


「人を生むシーンがあると、人を殺すときのことを考えるの……?」

 彼女は怪訝そうに言ったが、すでに瞼は重くなっているらしい。まどろみの中にいるような、甘い声だった。


「なんでも反対のことをすぐに考える」

「多角的な視点をお持ちで?」冗談めかして彼女が言うから、

「いや」僕も、冗談のように答える。「極端な二つの視点だけがあるんだ」けれどその意図は失敗して、単に曇り空を見上げる孤独な人間の独り言のように響いた。


 彼女が、僕の指の股を爪でひっかいた。何度も、何度も。水かきを裂くような鋭さで。


「それじゃあ、生きてるときは、死ぬことを考えてる?」

「理論上は」

「幸せなときは、不幸のことを」

「たぶん、それが生物が生き残るために必要な機能なんじゃないかな。危険に備えるために」

「逆だよ」


 ぎゅうっ、と彼女は、僕の爪を自分の爪で押した。

 それから二度三度、爪をスライドして、傷をつけた。僕の爪は、こうして日々薄く、形を歪めている。


「見ないふりをするのが、生き残るために必要な機能なの。……いつか嫌われるかも、なんて考えてたら、誰のことも好きになれないでしょ?」

「そうかな」

「そうだよ」

 陰気なこと考えてないで、と言って彼女は、僕から本を取り上げた。


「寝よ。明日も私、それなりに早いんだもん」

「いつもお疲れ様」

「うん」


 彼女は僕の方を向いて眠る。

 僕はそれを抱き締める。背中を規則的に撫でる。彼女は小さな笑いを溢しながら、眠りに就く。最も意識の薄くなるその瞬間にだけ、子どものように無防備に彼女は唱える。


「好きだよ」


 客観的に見て、僕は彼女に縛り付けられていた。

 けれど同時に、僕は彼女が好きでもあった。


 その束縛を、好意の現れだと信じてしまうくらいには。


 次の日、彼女が仕事に出てから、僕はもう一度、地下収納の死体を見つめた。

 その左手の爪は、ボロボロに波打っていた。




───−−    −−───




 案の定、扉には鍵がかかっていた。

 内鍵ではない。それを開いても、その先に。外から鍵がかけられているようだった。


 僕は、この家から外に出ることができなかった。


 あらゆる窓にはシャッターが下りている。僕はこの家に来てからというもの、外の景色を見たことがない。生来内籠りの気質だからそのこと自体は苦にならなかったけれど、そうした状況に置かれていることについては、違和感を持つことができた。


 僕はこの家に閉じ込められている。


 けれどいくつかの手順を踏むことで、なんとか外に出ることができた。当然と言えば当然だ。もしも内側から開く手段がないとしたら、彼女自身、何かの拍子にこの家を出る手段を失ってしまいかねない。誰かが作ったパズルなら、誰かが解くための手段も必ずどこかには存在しているのだ。僕は一ヶ月をかけて、それをようやく解き明かした。


 窓から、家の外に出る。

 久しぶりの、何も遮ることなく吹き付けてくる風は、僕に不安をもたらした。どこに立っていていいかわからない――信じられないような高所、たとえば山の頂上で、両足を踏むだけの足場しかないところに、支えもなく立っている。そんな感覚だった。


 本来は、これで一つの目的を達成したはずだった。

 僕はいつでも、身の危険が起きれば外の世界へと逃げ出すことができる。それを確認するという作業は、心の安寧をもたらしてくるはずだった。


 けれど――今の僕は、安心とは程遠い。

 何も自分を守るものがない状況というのは、著しい不安を僕に与えた。少し前までは、それが当然であったはずなのに。


 ひょっとすると、僕はこの時点で家の中に引き返すべきだったのかもしれない。

 彼女の言う通り、幸福な間は、それ以外のものを見ないふりで通すべきだったのかもしれない。


 けれど、あの地下収納の発見という偶然……それが僕に植え付けた彼女への不信感は、足を向ける先をたった一つに定めた。彼女が日中働いているはずの、魔法具店。そこで何が得られるのか、僕は自分でもわかっていなかった。ただ、家の中にいる彼女に何を尋ねたとしても、これ以上は何の情報も得られない気がしていたから。あの死体に対して合理的な、自分にとって都合の良い説明をつけるために、僕は彼女の情報を欲していた。外にいる彼女を見ることで、事態が好転することを期待し、祈っていた。


 魔法具店は、もうそこにはなかった。


「あの、」

 道行く人を呼び止めて、僕は訊ねた。「ここに、魔法具のお店があったと思うんですが……」


 何人かに問いかけたにもかかわらず、答えはほとんど「さあ」「知らないけど」……たった、それだけだった。僕が彼女の家で暮らすようになって数ヶ月。たったそれだけの時間で、店の一つがなくなって、人々の記憶からも消えていく。


 そんなことが、ありうるだろうか?


「ああ、それなら」

 そう言ったのは、やはり冒険者風の強面の男だった。彼は自分に話しかけてきたのが思わぬほど華奢な男であることに驚いたような素振りを見せながら、しかし的確に教えてくれた。「いつだったかな。結構前に潰れたぜ」


 では彼女は、一体どこで働いているのだろう?

 彼に二度三度と訊ねたが、しかし彼は明確な記憶を有してはいなかった。見るからに体格の良い男であったから、おそらく魔法具のようなやや裏方めいた仕事とは縁がなかったのではないかと思う。彼は親切にも「どうしても気になるなら、同僚に訊いてこようか?」とまで言ってくれたけれど、流石にそこまでの助力を求めることは気が引けて、僕は礼を伝えてその場を辞した。


 記憶にない新しい魔法具店は、思いのほかすぐに見つかった。

 知らない町だと思って歩けば、思いのほか、すぐに。


 前にもまして大きな店舗だった。立地も格段に良く、店構えからしてグレードが上がったことが明らかで、細かな格子のガラス窓の向こうに、彼女の姿を見た。自分の姿を悟られることが良い結果を生み出すことはないだろうとわかっていたから、僕はひっそりと、隠れながら店の中を観察した。


 内装は、彼女の家とよく似た趣味を持っていて。

 彼女より若く見える、大学出たてのような店員たちが、彼女を「店長」と呼んでいた。


 彼女は、僕の記憶の中にある彼女そのものだった。

 明るく、可憐で、それでいて笑顔の奥に静かに知性が宿っている。


 彼女に見つかるよりも先に、僕はその場を離れることにした。




───−−    −−───




 不確かさが空気にまで伝染したように思えた。

 辺りはすっかり冬の冷たさで、空は曇り、いつ雪が降るとも知れない。身体や視線を動かすのが久しぶりだからなのか、僕はくらくらと目眩を起こし、途中、一度は地べたに座り込んだ。小さな女の子が近寄ってきて、優しい言葉をかけてくれた。「だいじょうぶ?」「おうち、かえれる?」大丈夫だよ、と答えても、彼女は疑わし気な目つきをして、しばらくついてきた。けれどそのうち、自分が心配しているのが自分より遥かに背丈の高い青年期の人間であることに気付いたらしく、飴玉一つだけを渡してくれて、それからどこかへ走り去っていった。


 家に帰るべきなのだろうな、と僕は思った。

 外に出ることで得られたことは、特に何もなかったように思う。僕のいない間にも世界や社会は動いている。たったそれだけのことを確認するための作業に過ぎなかった。彼女は外にいてもそつのない笑みを浮かべていて、とても人を殺すようには見えなかった。


 あの死体のヒントとなるべきものは、どこにもなく。

 だから僕は、僕自身の今後について、何らの予想もすることができなかった。


 警察に行くことは考えなかった。彼女は、僕を数ヶ月もの間、世話してくれていたから。その恩は間違いなく存在し、詳しい事情を知るよりも先にそれを行うことは裏切りに他ならない。それに、僕は彼女を好ましく思っているから、酷い目には遭ってほしくないとも感じている。……たとえ、彼女が何らかの形で罪を犯していたとしても。


 話はもう、終わりだった。

 死体があった。彼女はその経緯を僕に教えるつもりはないだろうし、僕はその経緯に辿り着くための手段を他に有していない。それなら後は、何も知らないまま逃げるか、留まるか。


 少し外に出ただけでも、わかった。

 彼女といる家……その閉塞は心地よく、一方で外の世界はあまりに寒々しい。どういうわけか、数ヶ月前まで僕はそこにいたはずなのに、もうこの冷たい世界で生きることを耐えられそうにない。


 死体を見つけて、最初に僕は判断を下した。

 保留。


 今は、こう変わっている。

 無視。


 僕はこのまま、彼女とあの家で暮らし続けるだろう。爪がボロボロになるまで。あるいは、なってからも。あの死体が彼女の、たとえば昔の恋人だったとして、その死因が彼女の性格によるものではなく不可避の事故――あるいは、その死体の側に一方的に責任のある理由であることを期待して。僕は穏やかに、暮らし続けることだろう。


 両極端な、二つの視点。

 僕は、その片方を塞ぐことにした。


 ところで僕は、考えごとを終えたとき、彼女の家を通りすぎていたことに気が付いた。足に履いた彼女のサンダル――彼女が僕の靴を全て捨ててしまったから、この簡素で足の大きさを選ばないもの以外に履くものがなかったのだ――を眺めながら歩いていたから、周囲の景色の変化に鈍感になっていた。


 しかし、視線を上げた先には、ごく見慣れた建物が立っていた。


 彼女の家の隣にある、集合住宅。

 かつて自分が住んでいた場所。


 せっかくだから、という気持ちだったのだ。

 ひょっとすると、僕はもうあの家から二度と出ることもないかもしれない。そう思ったから、くだらない感傷。僕の足は、自然とかつての自分の部屋の前へと吸い寄せられていった。


 扉に開いた郵便受けからは、数々の紙類が顔を覗かせていた。

 くだらないチラシから、重要そうな封筒まで。入りきらずに、いくらか廊下にまで零れている。端の方に薄汚れた黄色い紙が見えたから、これではひょっとすると、風に巻かれて消え失せてしまったものもいくらかあるに違いないと思われた。


 ドアノブを握って、開こうとした。


「…………」

 けれど、当然ながらその鍵は閉まったままで、開くことはなかった。退去の手続きは、僕があの家の中での振る舞いを覚えるのに懸命だった最初の一週間、彼女が僕の代わりにやってくれたはずだった。


 これだけ郵便が溜まっているのを見れば、おそらくその後、まだ誰も新しい入居者はいないように思われる。しかし、不思議に思うこともあった。チラシはともかく、それならこの封筒は何なのだろう。


 僕はそのうちの一つを手に取った。

 宛先の住所は確かにここで、宛先の名前には僕のそれが書いてあった。


 裏返す。差出人は、僕を追放したあの冒険者パーティのリーダーだった。

 周囲を確認して、僕はその封を開く。中に込められた三つ折りのそれを広げて、目を通す。


 そこには、このようなことが書いてあった。



『あれからもう三年が経つが、元気にしているだろうか。

 あのとき……お前が怪我のためにパーティを離脱すると言ったとき、引き留め切れなかったこと。それを俺は、未だに後悔している。

 お前の言うケジメだなんだなんて言葉は無視して、無理やりにでも、療養休暇の扱いにして籍を残させるべきだった。最近の回復魔術師の力量を見るにつけ、お前を惜しむ気持ちが膨らむ。

 あれから、調子はどうだ? 一年もすればかつてのように回復魔術を使えるようになると医者は言っていたはずだ。

 冒険者以外の職を見つけているなら、それでいい。けれど、もしお前がかつての時代を惜しむ気持ちがあるのなら……戻ってくることも、選択肢に入れてもらいたい。

 もしその気持ちがなかったとしても、いつでも連絡してくれ。肩を並べて戦った仲だ。俺はいつまでも、お前の味方でいる。』




───−−    −−───




 何かが、おかしかった。

 何かが、致命的にズレていた。


 見ないふりをするべきなのかもしれない、と僕は思っていた。この気付きは、おそらく今の僕の生活を壊す。平穏に罅を入れる。それがわかっていた。


 それでも、この部屋の前に立っていたのは。

 無視をするにしても、全てを知ったうえでそうしたいと、思ってしまったからだ。


 彼女の家は広い。だから、僕の知らない部屋もある。

 初めてこの家に来たときに、外観からわかっていた。この家はおそらく、リビングの面積で数えて二十室はくだらない、その程度の大きさがある。しかしそれにもかかわらず、僕がこの家の中で知っているのは、リビング、キッチン、ダイニング、風呂、トイレ、寝室……その程度のものでしかなかった。


 ついさっき、家に戻ってくるときも。

 僕は見ていた。……おそらく、キッチンの向こうに、それはある。外に繋がっているかのように思われる勝手口。しかしそれは、家の外壁を見る限り、どことも通じていないはずの扉だった。 


 ゆっくりと、僕は。

 それを、開けようとして。


「ただいまぁ」


 玄関の扉の開く音が、聞こえてきた。


 背筋が凍る。

 幸い、キッチンからリビングへは、ダイニングを経由することで廊下を通らずに進むことができる。僕は足音を殺して素早く移動し、ソファーの定位置に移動し、読み止しの本をテーブルの上に置いて、あたかも今まさにあなたを迎えに行こうとしていたのです、という風に装って彼女を出迎えた。


 彼女はもう、笑っていなかった。


 いつものように、僕に向けて両手を広げるような動きをしない。鞄も置かない。ただ黙って、僕の横を通り過ぎて、テーブルの上の本に手を伸ばした。


「……昨日読んでたところから、十ページも進んでないね。そんなにじっくり読むようなところだった?」


 僕は戸惑いを装って、言う。

「よくわかったね。今日は、ずっと寝てて……」


 彼女はじっと僕を見た。冷や汗が出そうになる。が、出さない。身体が強張るのも、できる限り抑える。


「そう」

 彼女は、本をテーブルの上に戻した。「じゃあ、晩ごはんは簡単なものがいいかな。風邪?」


「そうかも」

 内心で安堵の息を吐きながら言えば、彼女は、


「わざわざ外に行って、お医者さんにかかろうとするくらいだもんね」 


 彼女は。

 僕を、見ている。


「な、」

「サンダルの裏」


 下手な言い訳をしようとする僕を、彼女は言葉で押さえ込んだ。


「私、あのサンダル、ゴミ捨てのときくらいしか履かないから。あんな土がつくはずないんだ。誰かが、勝手にそれを履いて外出したってわけでもない限り」

「…………へえ。そう、なんだ」

「でも、不思議だね。家からお医者さんのところまでに、あの種類の土が敷かれた道ってないはずなんだけど……。ほら、ここ、色々便利なところだから、地価が高いわけだしさ。……ねえ、」


 手、出して。

 と。


 彼女は、言った。


「…………」

 何も言われずとも、左の手だろうなと思ったから、僕はそれを差し出した。


 彼女はその手を取って、何度も僕の爪の皮を引っかいた。かりかりと。砂に埋もれた柱を引き抜こうとするように、執拗に。


 ねえ、と彼女は囁く。


「私、何かしたかな」

「…………」

「黙ってちゃ、何もわかんないよ」


 ねえ、と彼女はもう一度。

 僕の手の甲の骨をなぞりながら、呟いて、


「私、できる限りのことはしたつもりだったんだけど、何がダメだった?」

「……不満が、あったわけじゃなくて」

「嘘」

「嘘じゃない。ただ僕は……」


 言葉を選んだ。

 ここまで僕が、辿り着いてしまった理由。


「知りたかったんだ」

「……何を?」彼女の指は、執拗に動き続けている。

「キッチンの床下に、死体があるのを見つけた」


 彼女が、僕の目を見ていた。

 嘘かどうかを、確かめるように。


「……勝手に、入ったんだ」

「入っちゃいけないとは言われなかった」

「『やっちゃダメ』って言われなかったら、それはやっていいことになるの?」


 彼女が手を伸ばす。

 僕の顎の少し下……脈のあたりに指を滑らせて、些細な引っかき傷をつけた。

「じゃあ私、もっと色々、やっていいの?」


「……ごめん」僕は、頭を下げて、「僕が悪かった。本当に、ごめん」


 すると、彼女はきょとん、と。

 毒気を抜かれたような顔をして。


「そんなわけないじゃん」

 ふふ、といつものように、笑った。


 そして彼女は腕を広げる。


「ん」


 何を求めているかわかったから、僕はそれに応えた。

 自分も両手を広げて、彼女を目いっぱい、抱きしめた。


「私のこと、好き?」

「好きだと思う」

「私に好きって言われたら、うれしい?」

「うれしいと思う」

「もうこんなことしない?」

「しない」

「絶対?」

「絶対」


 そっか、と彼女は言った。そしてもう一度「本当?」と訊いたので、僕は答えた。


 本当。


「……じゃあ、許してあげる」


 そう言って彼女は、僕の頬に小さくキスをした。彼女の髪の匂いがして、僕は少しだけ、泣きそうな気持ちになった。


 僕から身体を離すと、彼女は言った。


「そっちから歩み寄ってくれたから……私も、歩み寄っちゃお」


 来て、と言って彼女は歩いていく。

 僕はその華奢な背中を、追いかけた。


 キッチンへ。それから、扉の前に立って、彼女はポケットの中から鍵を取り出す。そこでふと思い出したように「あ」と声を上げた。


「もしかして、ここ?」そう言って、床下収納を指差す。

 僕が頷くと、「そっかあ……」と彼女は、後悔と申し訳なさが混じったような顔をした。


「もうちょっと、ちゃんと隠すべきだったよね。どうせ死体なんだし……」

 扉を開くよりも先に、彼女はその収納を開いた。そして僕に言う。「担いじゃってくれる?」


 僕は言われたとおり、その死体の下に腕を差し入れた。背負うような形でそれを持ち上げれば、思わぬ軽さにかえってバランスを崩しかけた。力の入らないその死体はぐでりと形を崩し、ちょうど僕の視界の端にその顔を映す。


 それは、僕と全く同じ顔をしている。

 寸分たがわず、双子のように。

 全く同じ顔を、している。


 彼女が扉の先を開く。二重扉になっていたらしく、もう一つ、その先で扉を開く。随分頑丈な作りの施錠がされているようで、だからおそらく、僕一人ではその先へと辿り着けなかったように思われる。


「質問していいよ」と、彼女が言った。


「じゃあ、」僕は、彼女ができるだけ嫌がらないように、「この部屋は、何?」

「実験室。錬金術師だから」

「何の実験?」

「本当の幸せの作り方」


 彼女が、扉を開く。

 明かりを点ける。




 そこには夥しい数の「僕」の死体があった。




「本当は、」驚く僕に、彼女が言う。「ちゃんとこの部屋に全部入れておくつもりだったんだけど、満杯になっちゃって。重ねておくのもいいかなと思ったんだけど、やっぱりほら、それだと本当に荷物みたいになっちゃうかなと思ったから」


 彼女は、僕を心配そうに見た。「重くない? それ。置いちゃっていいよ」

 その言葉にようやく、僕は自分が抱えてきたものを思い出した。


 それを確かに、その床――というより、死体の上に置いてから、僕はさらに訊ねた。


「これは?」

「失敗作」

「何の?」

「本当の幸せの」


 彼女が屈みこむ。死体の前。そして首元を指差して「ほら、見て」と言う。

 そこにあるのは、強い薬品で焼いたかのような、真っ白な痕。


「いつもこうやるんだ。ナイフで切って殺して……そのあと、こうやって薬で蓋するの。臭い、しなかったでしょ? 上手く皮膚と肉の間に、こういうのを流してコーティングして、それから肌の上にまた防腐剤を塗ってるから。口から入れた別の薬で段々中身が溶けていくようになってるんだけど、その臭いは外に出ないようになってるの。これなら、最後にちょっと燃やすだけで後片付けが済むから」


「どうして」それだけでは、伝わらなかった。彼女が首を傾げる。僕は言葉の続きを口にする。「どうして、殺したんだ」


 だって、と彼女は、子どもじみた口調で答えた。「私のこと、好きになってくれなかったんだもん」


 昔ね、と彼女は語り出した。

「好きだったんだよね。君、っていうか、君の顔をした人のこと。怪我して、収入もなくなるっていうから、ちょうどいいと思って……。でも、私のこと、全然好きになってくれなかった。ひどいと思わない?」


 彼女が訊ねれば、僕は頷いた。

 それはその場しのぎの誤魔化しなんかではなかった――僕は心の底から、彼女に同情していた。


 僕は、彼女が好きだから。


「それでも好きになってもらえないかな、好きになってもらえないかなって頑張ってたんだけど……。そのうち、馬鹿らしくなっちゃって。だって、そうじゃない? どれだけ必死に気に入ってもらおうとしたってさ、いつかはそれもなくなっちゃうかもしれないし……。だって、一度好きになったらそのままなんて都合の良い話があるんだったらさ、離婚するなんてありえないことなわけでしょう?」


 僕は今の彼女の話をきっかけに、過去の記憶を思い返している。



『……いつか嫌われるかも、なんて考えてたら、誰のことも好きになれないでしょ?』



「私、幸せになるの下手なんだなあって思っちゃった。なんか、気付いたら最初の人のこと、殺しちゃってて」


 もうどれだかわかんないけどね、と彼女は悪戯っぽく笑う。

 それは僕に同調を求める気配のある笑顔で――だから僕は、それに合わせて、笑った。


「でもやっぱり、ほら。私って結構、努力の人だから」

「知ってる」

「へへ。だったら、作っちゃおうと思って」

「本当の幸せ?」

「そう」彼女は頷いて、「絶対に私のことを嫌いにならない、私のための恋人」


 ようやく、僕にも全てがわかってきている。

 目の前にいるのは、その失敗作たち――彼女を好きになることができなかった、僕の前身たちで。


 そして、僕自身も、彼女に作られた存在の一つなのだ。


「ホムンクルス、とか言うんだけど」

「犯罪?」

「もちろん!」彼女は、はにかんで人差し指を唇の前に立てて、「だから、秘密だよ」


 彼女は言った。

 これは、ホムンクルス。人造人間。錬金術師の手によって作り出された、神の手によらない人間たち。


 性格も、記憶も。

 すべて、彼女によって作り出され。


「好意も?」訊けば、

「もちろん」彼女は胸を張って、答えた。「そのために作ったんだもん。一番重要なところだよ。……でもね、」


 寂しそうに、彼女は死体のうちの一つ、その左手を取った。

「生き物って、自己防衛本能みたいなものがついちゃうんだよね。こうやって爪の形を歪めたりしてると、自分の形を保とうとして、段々私のこと、嫌いになっていっちゃって……」

「だから殺した?」


 うん、と彼女は頷く。

 彼女は物の寿命というものを、よくわかっている。僕と違って。


「でも、君は全然、爪弄られるの嫌がらなかったでしょ? 一番強いはずの本能も、好きって気持ちが征服した。だから、今回こそ成功したって思ってたんだけど……」


 じっと、彼女は僕の爪を見た。

 元の形がほとんどわからないくらいに歪んだ、それを。


「僕は、」本当のことを、「君のことを、嫌いになったわけじゃ、ない」


 彼女は僕を見ている。


「安心する材料が欲しかっただけなんだ。君と……」今は全てが繋がっている。数ヶ月と思っていた、ここでの時間。それと釣り合わない外界の変化。手紙に書かれていた年数。無気力な僕に似つかわしくない、彼女への強い好意……。「君と、僕の関係が正しく、安定したものなのかを知るために」


 彼女はもう一度、きょとん、とした顔をした。

 自分の手によって生み出したはずのものが、自分の知らないことを喋り始めた。そんな光景を目にしたように。


 ふ、とその口元を綻ばせて、彼女は訊く。

「正しくて、安定してた?」


「正しさのことは、わからなかった」僕は、そのことは正直に伝えて、「でも、安定させていいなら、安定させたいと思う。……酷いことをしたのはわかってるし、今更だけど」


「酷いこと?」

「僕は疑った」

「でも、実際私、悪い人だよ?」

「真実がどうとかじゃなくて、疑ったこと自体が」


 悪いんだ、と言う僕の声を、彼女の笑い声が掻き消した。

「成功、しすぎたかも」


 彼女が立ち上がる。

 そして、僕の頬へと、手を伸ばす。


「私のこと、好き?」

「好きだ」

「私に好きって言われて、うれしい?」

「うれしい」

「それじゃあ……」


 少しだけ、不安を目に溜めてから。

 彼女は、言った。


「私と、幸せになってくれる?」

「君が、許してくれるなら」


 ここにあるのはもう、すごくわかりやすい話だけだった。


 人が人を好きになるのには、様々な理由がある。そして当然、僕が彼女に好意を向ける理由も、存在する。


 彼女は、僕の世話をしてくれる。

 僕は何もする必要がない。ただ生きているだけでいい。生計を立てるために必要な労働は全て彼女がやってくれる。生活領域の維持のための雑事も、彼女が全てこなしてくれる。僕は不確かな世界に出ていく必要がない。冷たい風に晒される必要もない。永遠に、二人の恋人だけがいる場所で、何の不安もないまま、暮らしていくことができる。


 たったそれだけで、好意を寄せるには十分で。

 さらに言うなら、もう一つ。


 僕は彼女に、彼女を好きになるように作られた。

 そんな運命まで持っている。


 この家は、恋人たちの楽園で。

 僕はただ、思うまま、彼女を好きでいる。それだけでいい。


 選ばない理由は、どこにもなかった。


「ようやく……」

 彼女は、震える声で。



「ようやく、辿り着いた――――」



 僕に、そっと口付ける。

 それが僕の、初めてのキスだった。





───−−    −−───





 彼女は、それから少しだけ、僕を信用し始めた。


 家の鍵はよりセキュリティを増したが――一方で彼女は、僕が家の掃除をすることを許しつつあった。もちろん、それを行うまでには彼女の定めた細かいルールを学習する必要があったけれど……それでもおおむね、僕は彼女の思う通りに立ち振る舞うことができた。


「仕事のときは?」ふと思いついて、僕は訊いた。「いつも、そんなに細かく?」

「まさか」彼女は肩を竦めた。「仕事は人生じゃないから。もっと、気を抜いてやってるよ」


 僕は少しだけ、その言葉を受け止めて、それからこう返した。

「今のは、遠回しに『もう少し優しくしてくれないかな』って言ったつもりだったんだ」


 彼女も少しだけ、その言葉を受け止めて、

「まだ昼なのに?」

 と言った。


 今でも、極端な二つの視点が僕の中に顔を出すことがある。

 幸せなときに、不幸せのことを考える。そんな癖。彼女と似通ったその視点が、不意に姿を見せることがある。


 僕は、幸せだった。

 そして、その幸せを失う形があるとすれば……。


「あ、」

 別の日のこと。彼女は僕を見つけると、からかうように笑って言った。「調子に乗って、とうとうキッチンにまで来たな……」


「まだわからない」と僕は言った。「料理を手伝いたいんじゃなくて、単に傍にいたいだけなのかもしれない」

「どっちなの?」

「本当は、どっちでもない」言ってから、僕は慌てて、「いや、どっちでもあるんだけど」


 それが面白かったのか、彼女はくすくすと笑った。鍋の中のコンソメスープは金色で、ほとんど具が見当たらなくなるほど完璧に煮込まれている。


「それで? 本当は?」

「火を使わせてほしくて。焼きたいものがあるから」


 いいけど、と彼女は不思議そうに言う。

 僕はポケットから取り出したものを、コンロの上に置く。


「それ、何?」

「切符」

「何の?」

「この家から、出ていくための」


 驚いたように、彼女が僕を見た。

 宛先には、かつての僕の住所と名前。

 差出人には、記憶とどの程度重なっているのかもわからない、男の名前。


 極端な二つの視点のことを考える。

 ここにあるのは、何の心配もなく、愛する人といられる世界。幸せな世界。


 不幸な世界があるとしたら。

 それは――、


「燃やしちゃっていいの?」

「燃やしたいんだ」


 それは、愛する人もいないまま、孤独に生きていく。

 そんな人生を送る、僕がいる世界だ。


 コンロの火を点ける。

 青い火が瞬く間に、その手紙を燃やしていく。


 不幸な世界への切符は、今ここに灰に変わり。

 僕は、隣で笑みを隠し切れずにいる彼女に、少し屈んでキスをする。


 彼女が驚く。

 そして目を瞑るから、僕はもう一度、同じことをする。


 好きだよ、とどちらからともなく、僕たちは伝えあった。





 完璧な楽園の中、全てが満たされている。


 幸せだった。







 了




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― 新着の感想 ―
そもそも追放されてもいないし、本来の「本人」はとっくに……。 リーダーうかばれないな。
[一言] 『幸せなひと組の男女』の物語かもしれませんが、凄く怖かったです。
[良い点] タイトル詐欺……ではないけど騙された! 読んでる途中で「何読まされてるんだ…?」って思ったけど、面白かったです [気になる点] 元の人格がどういう思考回路してたのか気になる [一言] ハッ…
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