6.もしもの話
屋敷へ帰ると、待っていたジャネットが安堵して駆け寄ってきた。
「お帰りなさいませ! あら、セレネ様……手をどうなさったのですか?」
ベールの下の両腕が見えないのだ。涙で濡れてしまった手袋はユーグが持っていた。セレネは少々鼻声で答える。
「なんでもないわ」
「まぁっ、そのお声……」
口に手を当てたと思うと、キッとユーグを睨む。
「泣かせたのですか!」
「いや、まあ、ある意味そうかもしれないな」
「ユーグ」
誤解が生じる前に声をかける。ユーグは目を瞬いた。
「今日は、ありがとう」
「ああ。こちらこそ」
綺麗な笑みに一瞬、心を奪われた。
「もう休むわ。ジャネット、手伝ってちょうだい」
「あ、はい……」
ジャネットは二人を交互に見ていたが、ユーグから手袋を受け取ると、急いで主人の後を追った。
誰にも言えなかったことを打ち明けてみても、セレネに大きな変化が訪れるようなことはなかった。相変わらず、朝も夜もカーテンを締め切った部屋で過ごし、一人で食事をし、読書や物思いに耽って暇をつぶしている。
ただ、以前のような訳もない焦りは薄らいだようだ。王女としてやるべきことや保つべき威厳のことはあまり考えなくなった。いつもと調子が違う自分に落ち着かない気分ではあるが、これでもいいと思える安心感もある。
両陛下に手紙を書くことを思いついたが、結局書かなかった。何があったかは既に伝わっているだろうし、婚約者との関係も然りだ。いちいち報告して判断を仰がなくてもいいだろう、と寛容に自分を見過ごしている。
夏は深まり、夏季休暇が始まる頃になった。
王都の貴族が次々に避暑地に出かけると、国の仕事も進みが遅くなる。ユーグも王宮や軍でやることがないらしく、屋敷でのんびりしていることが多くなった。
「今年はエイル公爵は出かけないの?」
昼食後、涼しいバルコニーに揃ったので、話題を繋ぐため尋ねてみる。
「忙しいらしい。俺たちだけでどこか行こうか?」
「わたしには難しそうだわ。でも夏らしいことがしたくなる暑さね」
「夏らしいこと……か」
ユーグは何やらこちらを見ながら真剣に考え始めたが、セレネの思いつきの方が早かった。
「あなたはケーキを作ったことがあって? ……何を残念そうにしてるの」
「いや別に。料理はしたことないよ。でもケーキを焼くのって夏らしいか?」
「もちろん余計に暑いわね。でもエリニアのオレンジを使ったらきっと夏らしい味がするわ。あのお茶に入っていたオレンジのコンポートはまだ残っているのかしら」
昼に出された冷たい紅茶のことだ。屋敷では最近、エリニア大公国から送られたというオレンジが様々な形で登場していた。
具体的な話を聞いて乗り気になってきたのだろう、ユーグがベンチから立ち上がる。
「じゃあ、キッチンに行くか」
「ええ」
セレネはユーグとともに、どこか足取り軽く室内へ入った。
キッチンは昼食後の後片付けが済み、一旦落ち着いていた。入り口から覗くと、ジャネットとマクシムがメニュー表の前で話し合っている。
「あ、セレネ様、ユーグ様。どうなさいました?」
「聞きたいことがあって。オレンジのコンポートはまだあるかしら? 良ければケーキを作りたいの」
「ああ、あれですね」
ジャネットはマクシムを窺った。頷いたところを見るに、執事の管轄品らしい。
「構いませんよ。ちょうどお茶の時間の用意をしようとしていたところなんです。お菓子はそのケーキにしましょうか」
「それがいいわ。じゃあ、作業できる格好に着替えないと。ユーグも手伝ってくれるのでしょう?」
「ん? ああ」
「粉が飛んでも構わない格好にするのよ」
シャツとベスト姿をちょんと指し、セレネはジャネットを連れて部屋へ戻っていった。その後ろ姿を眺めているユーグにマクシムが耳打ちする。
「どういうことですか?」
「分からん、でも可愛い。指先に蝶でも止まりそうな可憐さだぜ」
ニヤニヤが止まらない口元を手で覆い隠している。マクシムは「は?」の形の口をそっと閉じた。
改めてキッチンに揃った二人は借りたエプロンをつけた。ユーグはラフなシャツに、セレネは襟の高いブラウスとスカートに着替え、手袋を外している。
「作るのは見ての通り、オレンジのケーキよ。簡単なレシピで作るわ」
作業台にはマクシムが出してくれたコンポートの瓶がある。輪切りのオレンジが模様のようだ。
「大抵のことはユーグとわたしでやるから、マクシムとジャネットは見ていてちょうだい」
マクシムがぼそっと何か呟き、ジャネットがすかさず腕を小さくはたいた。仲の良さに感心していると、二人で声を揃える。
「分かりました」
「よろしくね。では、ユーグ」
振り返るとエプロン姿で指示を待っている。貴族将校らしからぬ和やかな姿にベールの下で少し微笑む。
「オレンジを数枚、粗いみじん切りにしてちょうだい。わたしは包丁は怖いから」
「ああ。……みじん切り」
セレネは他の材料と調理器具を探しに向かった。広いキッチンの戸棚には札がついており、どこに何が入っているか分かるようになっている。四人分なので、ホール型を選んだ。
「型にバターを塗っておきましょうか?」
「そうね、お願いするわ」
量りと引き換えにジャネットが焼き型を受け取る。
気づけばマクシムもユーグの手伝いに入っている。たどたどしい包丁さばきを見兼ねたようだ。
二人の姿は子どもの頃の思い出に似ていた。菓子長に作り方を教えてもらい、果物を切ることになった時、皆気が気でない顔でこちらを見ていたものだ。
菓子長には色々教わったが、一番印象深いのは『お菓子に使う小麦粉は最低二回はふるうべし』という信条だ。菓子長は毎回、口癖のように言っていた。
オーブンが温められ始めた頃、ユーグがようやく顔を上げた。
「セレネ、できたぞ」
みじん切りを前に達成感を浮かべている。
「ありがとう。あとは生地作りを手伝ってちょうだい」
「分かった」
卵と砂糖を混ぜるのをやってもらった後、セレネが代わり、小麦粉を入れてさっくりと混ぜていく。二人は作業台の角に立ち、ユーグがボウルを押さえる役となった。
「セレネから何かがしたいって言い出したのは初めてだな」
手を休めずセレネは答える。
「この間の話で、あの頃のことを思い出したら、八年ぶりにこういうことがしたくなったの。こうやって混ぜるくらいなら今のわたしにもできるかと思って」
残りの手順が少なくなり、ジャネットとマクシムは紅茶の用意に取り掛かっている。しばらく物音だけが聞こえた。
「誤解を恐れずに言うと、今のセレネは普通の女の子に見えるよ」
「そう。褒め言葉ね」
セレネがわざと素っ気なく返すと、意図に気づいたのだろう、ユーグは苦笑した。
「……やっと貴方に適う男になった気がする、って意味」
言葉とは裏腹な気弱な視線がこちらを窺う。その距離はボウルひとつ分しかない。
もし姿が見えていれば、きっと赤くなった顔が目の前の若葉の色の瞳に映ってしまっていたことだろう。
動揺を隠そうと、溶かしバターを入れて忙しいフリをした。
「オーブンは準備できました。ちょうどいい熱さに」
マクシムの言い方にどこか含みを感じるのは気のせいだろうか。
「そろそろ型に入れましょう」
ホール型に生地を流し込み、少し高いところから作業台に落として空気を抜き、オーブンに入れる。少し焼けたら一旦取り出し、上面に輪切りのコンポートを並べ、再び焼く。
焼き上がったらコンポートのシロップを表面に塗り、出来上がりだ。
ちょうどいい時間なので、セレネとユーグは喫茶室にてお茶をすることにした。男性たちが部屋を整え、セレネたちはワゴンにティーセットを載せる。
その作業中にジャネットが尋ねた。
「あの、人前でお食べになれますか?」
普段から食事する姿を人に見られたがらない主人を心配しているのだ。だがセレネは平静だった。
「正直に言って、作りたいだけだったから考えてなかったわ」
「そ、そんな」
「多分大丈夫よ」
見えない笑みの代わりに小首を傾げて見せた。
とは言ったものの、数日ぶりに緊張しているのも事実だ。
自分のティーカップに紅茶が注がれ終わるとセレネはしばし固まってしまった。マクシムとジャネットが世話を終えて出てゆき、いよいよ長いソファに二人きりとなる。
「綺麗に焼けたな。焦げちまわなくてよかった」
「そうね。ユーグ、先に食べてくれないかしら? あなたとの合作だけど、一口目は譲るわ」
「いいのか? じゃあ、毒味させてもらうよ」
三角形の鋭い角にフォークが入る。大きな一口を頬張ったユーグは笑顔で頷いた。
「すごく美味い。俺が切ったオレンジが効いてるな」
「良かった。でも今日はこれだけよ。一日寝かせた方が美味しいから、取っておかなきゃ」
ユーグはすぐに二口目を食べようとしたが、セレネが一向に食器に手を付けないことに気づいて手を止める。
「……やっぱり、人前じゃ食べたくないか?」
「…………」
「じっと見たりなんかしないさ。約束する」
「あなたを疑ってるわけじゃないわ。ただ……」
言いよどんで俯いた。
「変、だから」
「変?」
「く、口に入れても、すぐには見えなくならないの」
ちらりと顔を窺うと、ユーグは多少は驚いていた。
「それは不思議だ」
「ええ、だからいつも一人でいたかったの。そんなもの見えてはよくないもの……ユーグ?」
セレネのフォークに一口分のケーキを刺している。それをこちらへ向けて、食べさせようとしてくるのだ。
「ベールを少し上げて。そうすれば見えない」
「でも……」
「怖がらなくていい。ただ美味しいだけさ」
ベール越しに魅力的な甘い香りを仄かに感じる。
セレネは恐る恐るベールを持ち上げた。下から潜ってきたフォークが、ちょうど口の高さへとケーキを運ぶ。
食べると、芳醇なバターとオレンジの香りが幸せなほど口いっぱいに広がった。
「美味いだろ」
コクコクと頷く。ユーグは目を細めた。
「初めて一緒に食べてくれたな」
透明人間になって一番辛かったのは、たった一口すらも人前で食べられなくなったことだった。そのせいでいっそう不気味がられ、孤独に追い込まれていったからだ。
孤独が自分の性格から良い部分を奪っていることには気づいていた。自分を守ろうとするあまり、沢山の人に失礼な態度をとったことにも。
忌避されるのは自業自得だと思う一方で、誰も自分を助けてくれないことを憎んでいた。
なのに――ユーグはどうして手を差し伸べてくれるのだろう。
「いつも思ってたんだが、見づらいだろう?」
ベールがついているボンネットを指す。室内用の軽いものだが、キッチンでも被っている姿は奇妙だっただろう。
「……見づらいわよ」
「暑くない?」
「暑いわ」
「面倒?」
「ええ……」
「じゃあ、脱いだらいい」
顔を上げると、ソファの背に腕を凭せ掛けたユーグは存外に近い。
僅かに首を横に振ったが、ベール越しに覗き込んでくる真っ直ぐな瞳から目が離せない。やっとの思いでソファに後ろ手を突いてじりじりと後退るが、すぐに肘置きにぶつかってしまう。
ユーグはどこか切ない微笑みを浮かべた。
「もし……俺が恋人だったら、逃げないでいてくれるのかな」
伸ばされた手が顎の下のリボンに触れる。
かぁっと全身を巡った熱さに耐えられず、セレネは咄嗟に身を捩って逃れようとした。だが、バランスを崩して体の支えを失う。
「あっ……!」
ソファから転げ落ちて床にぶつかる直前。
セレネの背中は腕に、頭は手のひらに持ち上げられていた。押し付けられた硬い胸から恐る恐る顔を上げると、頭上で安堵の溜息が聞こえた。
「痛いところは?」
「な、ないわ。大丈夫よ」
「よかった」
ユーグは片腕でセレネを支え、もう片方の腕を床に突いて体を浮かせていた。鍛えられた体が隆起しているのがシャツ越しでも分かる。
二人はソファとテーブルの間で重なるように倒れていた。ユーグが起き上がるため体勢を変えようとして、ふと眉を寄せる。
「何か……落ちてきてる」
「え?」
「頭に冷たいものが掛かってる。何か溢しちまったみたいだ」
セレネが頭をずらして上を見ると、テーブルの縁から白い液体が滴っている。
「ミルクピッチャーが倒れたんだわ」
「あぁ……しまったな」
そこへ、外からバタバタと足音が近づき、ノックもなしにドアが開かれた。
「何事ですか!? 大きな音がしましたが」
「あ、ジャネット……」
床から聞こえた声に驚き、その光景に目を丸くする。後ろから顰め面をのぞかせたマクシムは更に眉間にしわを寄せた。
「こ、この破廉恥! 早くどいてください!」
ユーグは困った声を出した。
「今はどけないんだ。よく見てくれ」
「言い訳しないでください!」
「これは事故だ。マクシム、早く助けてくれよ」
「布巾ならテーブルの上に」
「手が届かないから言ってるんだ!」
気づけばセレネは数年ぶりに笑っていた。顔に落ちたベールが少し揺れるほどに吐息を漏らして。