3.友人協定
開いたドアから薄い湯気が広がり出る。
ユーグはまだ濡れている髪をタオルでかき回しながら、ローブ姿で風呂場を出た。深夜の窓にカーテンが引かれた部屋をランプが一つきりで照らしている。
「速いのね」
声がかかった瞬間ぎくりと強張った。だがすぐに警戒を解く。
「王女様、お部屋をお間違えですよ」
「……居場所を注意できる立場なのかしら」
ソファの上で揺れる淡いベールと絹の寝衣がぶつくさ言った。セレネが頭からベールを被った格好で座っているのだ。
「不用心にも鍵が開いていたから、掛けておいたわ」
テーブルの上に用意してある酒のボトルを小さなグラスへ傾ける。身動きする度に膝まで丈のあるベールが揺れている。
「……クラゲみたいだな」
「なにか?」
「いいや。晩酌ならお供しようか?」
「違うわ、これはあなたが飲むの」
見えない手がグラスを差し出す。中身は一見蒸留酒だ。
「毒かな」
「あなたのボトルよ。執事が開けていいと言ってくれた、と侍女が言っていたわ。必要かと思って用意したの」
「一体この状況で何をする気なんだ?」
「あなたが望んだこと。こんなふうだから、疲れた心の癒やしになるかは分からないけれど」
セレネはソファを立って寝室へ入った。
僅かな光を頼りにベッドの縁に腰を下ろす。開いているドアの向こうで、ユーグがこちらを見ながらグラスを一気に煽った。
薄着の体がやってきて影のように伸し掛かってくる。セレネはシーツを掴みそこねて拳を握った。
ベールを剥がし、ユーグが顔を近づけてくる。その目には、襟ぐりの広い寝衣が人の形に膨らんでおり、長い黒髪を背中の下に敷いている様子が見えている。
「うん、無理だな。透明で何がなんだか分からん」
「なっ……!」
ベールをもとに戻すと寝室を出ていこうとする。セレネも急いで身を起こした。
「無理とは何事よ! わ、わたしに恥をかかせる気?」
「俺は抱かれに来てほしいとも恥かいてほしいとも願ってない。それに震えてる女を相手にするなんて願い下げだ」
全身が怒りでかぁっと熱くなるが、反対に頭は水を浴びせられたようだった。
「命令するまで来るなってことね。分かったわよ。わたしを王宮から出したのは懐柔して従順な召使いにするため、そういうことでしょう?」
「なんだと?」
思わず身を引いた。ユーグの声があまりにも冷静だったからだ。
「俺との婚約をそんなものだと思ってたのか?」
「ち、違うっていうの? あなたは交換条件で王女を自分の家に連れてきたんじゃない。一体何のためだというの?」
「そりゃあ多少は下心もあったかもしれないさ、男だからな。でも連れてきたのはそんな……あぁ言いたくもない。大体、貴方こそ嫌ならこんな条件断れたはずだ。なのにどうしてここまで来た?」
ユーグに気圧され、喉にある重いものを飲み込む。
「わたしには義務があるから、成婚前に自分が機能するか確かめないといけないわ。そこであなたの条件は好都合だったのよ。もちろん空を飛ぶような軽薄さには呆れたけれど!」
何を弁明したいのか、語尾を強める。
しかしユーグの声はますます冷えた。
「それは女としてのことを言っているのか?」
先程とは違う意味でこちらへ迫ってくる。
「セレネ。『義務』とは何だ?」
「……どうしてそんなに怒ってるのか分からないわ」
「答えろ」
理不尽に脅されたセレネはユーグを睨みあげた。
「国のために子を産むことよ」
渋面が返されたが、セレネの目に今のユーグは、どんな訳で自分を詰問したのかは知らないが、王家の人間の努力を理解しない愚昧な者に映った。
「俺はただの種馬かよ」
憎々しい呟きも、高潔な大義のためなら聞き流してやれる。
「それで、どうしてわたしを連れてきたのかまだ聞いていないわ」
ユーグは溜息をつき、頭を抱えた。
「報奨だからだ」
「ああ……そうだったわね。あなたは水かガラスでできた女をただ芸術品として鑑賞したいのよね」
金髪をかき回す手が乱暴になる。セレネは立ち上がり、その横をさっさと通り抜けようとして、後ろからベール越しに腕を掴まれた。
「待ってくれ。今のは違う、照れ隠しだったんだ。本当は友達から始めたいからだ!」
「はぁ……?」
呆れた声が出た。
「この期に及んで冗談なんて……ならそもそも連れてくるべきじゃなかった、としか言えないわ」
腕を取り戻して冷たい視線を送る。
ユーグは初めて余裕のない表情を見せた。
「明日ここを出ていくわ。こんな支離滅裂なことには付き合っていられなくてよ」
部屋を突っ切って施錠したドアへ向かう。
これで婚約騒動は終わりだ。セレネは清々した気分になりかけていた。
だが内鍵に手を伸ばしたその時、ぬっと背後から突き出された右腕が音もなくドアを押さえた。
「本当にそれでいいのか? 両陛下は俺の求婚をえらくお喜びだったんだぜ」
「っ……!」
耳元で囁いた吐息がベールをくすぐる。
「俺たちの仲が上手く行かなかったと知ったら、どれほど悲しまれるだろうな」
セレネは内鍵から透明な手を離した。
別居し、あまつさえ婚約を解消してしまったら、結婚における忍耐力や義務の遂行能力を示せなくなってしまう。そうなれば両陛下はユーグの言う通り悲しむだろうし、他の者からは失望されてしまうだろう。それに結婚適齢期に失敗の経歴を作ると痛手だ。
「友達、なってくれないなら追い出しちまうぞ」
「…………分かったわ」
苦渋の決断を聞いたユーグはぱっと身を離し、打って変わって腰に手を当てる。
「よーし。じゃ、早速明日は友達一日目記念として俺の遊びに付き合ってもらうとしよう」
ニヤリという笑いをセレネはうんざりと見遣った。
翌朝、セレネの姿は屋敷の裏手にあった。
なるべく簡単な格好で、と言伝されたので、ブラウスとスカートという格好だ。
いつも朝食の後は一日の予定を確認することにしているのだが、その日課が乱されたせいでなんだか落ち着かない。普段と比べて薄着であることも心細い。
そこへ、一頭の鹿毛がユーグを乗せて軽やかに歩いてきた。
「おはよう、セレネ」
気障な手振り付きだ。
シャツとベスト、乗馬用のズボンとブーツという爽やかな装いでセレネの前に降り立つ。
「ごきげんよう。朝から活発ね」
「そういう貴方は憂鬱そうだ。馬に乗ったことは?」
「数年前は一人で乗れていたわ」
まさか一緒に乗ろうと言うのではないか、と案じたが、そのまさからしい。
「おてんば王女様もさすがに今日の格好じゃ跨がらないよな?」
「そうね。でもどこに行くかも聞いていない内は乗らないわ」
「警戒は無用さ。この辺を散策するだけだよ」
屋敷の周囲はだだっ広い平原だ。ぽつぽつと木立がある他は、王都まで何もない。走っても風が得られるだけだろう。風は顔のベールを捲くるので好きではない。
「その頭の、脱いだらどうだ? 後できっと邪魔だぜ」
頭を覆うボンネットのことだ。普段のものよりは小ぶりだ。
「乗るとは言ってないのだけれど」
「おっと上手いな。だがガルシアに言葉遊びが通用するかな?」
ガルシアと呼ばれた鹿毛は黒い目でじっとこちらを見つめた。探るような視線に少々たじろぐ。
「な……何?」
ユーグは腕を組んで傍観に徹するようだ。
やがてガルシアは頭を下げると、膝を折って身を屈めた。まるで背中の鞍を差し出すような仕草にセレネは目を瞠る。
「乗っていいの?」
思わず馬に尋ねる。ユーグが横から手を差し伸べた。
「さあどうぞ、俺たちのお姫様」
誘われるがままセレネはそこに手袋に包んだ手を乗せ、ガルシアの鞍にそっと腰を下ろした。体重をかけるや否やガルシアは意気揚々と立ち上がってセレネを持ち上げる。
「きゃっ!」
「すごい気合だな、ガルシア……失礼」
鞍の後部にユーグが飛び乗り、横乗りをしているセレネに腕を回す。手綱を握ったのだが、抱きしめるような距離感だ。
「出発しても?」
「……ええ、いいわ」
セレネは呆然としながら答えた。
ガルシアが歩き始め、僅かな振動が背中から伝わってきた。鞍の座り心地は悪くないが、ユーグと触れ合ってしまわないかが心配で気が抜けない。
「こいつもなかなかの紳士だろ? 公爵家で育てている由緒正しい軍馬なんだよ。俺がいつも自分で世話をしているんだ。エリニアではあまり走らせてやれなかったから、帰ったらたっぷり楽しませてやろうと思っていたんだ」
緊張をほぐそうとしてくれているようだ。セレネは黒いたてがみが揺れている頭へ目を向けた。
「なら今日の遊びはこの子のためなのね」
「一番はな。もちろん貴方を振り回すことを忘れちゃいないぜ」
不穏な言葉にユーグを見上げると、いたずらっぽく笑っている。
「走るから、俺にしっかりつかまっててくれよ。王女様を落っことしたくない」
「え、……!?」
にわかにガルシアが駆け出した。
体に力がかかりセレネはユーグの胸へ軽く倒れ込んだ。しがみつくと、体のしっかりした感触や体温が伝わってくる。昨夜の自分の行動は何という無茶だったのだろう、心臓が保ちそうにない。
「こ、こ、これは、友達同士でやることなのっ?」
耳元で風が高く唸っている。ユーグは胸を震わせて笑った。
「友達になれば二人乗りもするさ!」
「そうではなくて……!」
近すぎる。ベールが顔にぶつかることもあり、景色を見る余裕は当然ない。
やがてガルシアは木立に近づき、ようやく速度を落とした。影の中へ入って足を止める。
「今日はいい天気だな」
呑気な声でセレネは我に返った。慌てて体を離して服装を整える。ユーグはその間に先に降りた。
「どうぞ」
差し出された手を借りてセレネも地面へ降りた。木陰はまだ夜の冷気を残していて涼しい。
ユーグはガルシアに胸元から出した銀色の細い馬笛を見せている。
「よし、行って来い」
合図を受け、ガルシアがどこへともなく走り去った。
「呼ぶと戻ってくるのね?」
「いつもはな。今日は俺たちに気を利かせてくれるかもしれない」
「紳士ならどうすべきか分かると思うわよ」
見えない微笑へユーグは肩をすくめて返した。
セレネたちは木立に入った。しっとりした澄んでいる空気が胸を満たす。
木立は平原の小動物の住処になっているようで、小鳥の声があちこちから聞こえる。素早く動き回る小さな影はリスだ。
「ここに座ろう」
木の根元にユーグがベストを脱いで敷いた。背中合わせになり二人で座る。
ふと何かを感じて視線を下ろすと、平たい靴の上に大きいバッタが乗っていた。驚いて身を引いてしまい、ユーグにぶつかる。
「どうした?」
「あの……靴に」
言い終わらない内に、振り向いたユーグが前方を指差した。
一匹のリスが体勢を低くしてこちらを睨んでいる。バッタを狙って来たのだろうが、人間たちを警戒しているようだ。ユーグが体を捻り腕を伸ばしてバッタを追い払うと、人間から十分離れたところで勢いよく飛びかかった。
大きな口で食料をくわえて走り去るのを二人で見送る。
「意外と雑食だからな。怖かった?」
セレネは間近な窺う視線から顔を背けた。
「別に平気よ」
「助けを求めていたようだったけど」
「気のせいじゃないかしら。小さい頃はよく外で遊んでいたから虫は平気よ。それにリスも見慣れているわ」
「本当におてんばだったんだな。じゃあリスを食べたことは?」
ぎょっとしてユーグへ振り返る。
「ないわ」
「冗談だよ、俺もないからそんな目で見ないでくれ。……まあ食用リスってのが世の中にはあるらしいが」
「もうこの話は終わりよ」
背後で小さな笑い声が立った。セレネは両膝を抱えて座り直す。
「貴方は度胸があるんだな。さっきのスピードなら絶対音を上げると思ったんだが」
「試したの?」
「ちょっと違う。貴方のことをもっと知りたかったのさ」
ベールの中で呆れ顔をした。
「ものは言いようね。それで何か有益なことが分かって?」
「ああ。花と動物と綺麗なドレスが好きな普通の女性だってことが分かった」
「……一緒に馬に乗ってそれが分かったというの?」
「本音を言ったら怒るだろ」
声色が笑っていることから、ろくなことではないと知れた。
「そうね。聞かないでおくわ」
「俺も胸に大事に秘めておくよ」
今日は既に散々だ、とセレネは密かに思った。しかも午後になっても予定があるわけではない。今までどおりのことなど何一つないのだ。
途方に暮れたような気持ちのところへ、ユーグが声を掛けてきた。
「そうだセレネ。友達の貴方に今度手伝ってほしいことがあるんだが……」