2.契約でしかない
王家にとって、セレネが透明人間であることは重要な秘密だ。その秘密を守るため、何かあれば両陛下と相談することになっている。
なので、セレネは王宮に戻るとすぐにお目通りを願った。内密な話はいつも王の書斎で行われる。セレネが先に到着し、両陛下は後から少し慌ただしくやってきた。
「お忙しい中、お時間を割いていただきありがとうございます」
「気にするでない。それで、姿を見られたということだったな。子爵とはどこで会ったのだ?」
「植物園です。輸入されたお花を見るために入りました」
セレネは広い机の下で落ち着かない気持ちで手を組んだ。向かい側に並んでいる両陛下の面持ちが緊張しているからだ。
この秘密を知ってはならない者に知られてしまったことは、これが初めてだった。向こうのペースに巻き込まれて、逃げることも嘘をつくこともできなかったのは痛い失敗だ。
ましてや、罰があるとしたら自分ではなく子爵に下るであろうということも辛い。
「植物園か。なら会ったことを知る者は他にいないのだな」
「はい。陛下、このような不始末を起こしてしまったにも関わらず厚かましいのですが、一つお願いがございます」
「遠慮なく申してみよ」
「恐れ入ります。子爵は知ってはならないことを知ってしまいはしましたが、どうかそのことでお咎めにならないでくださいませ。あの方は少々軽薄ではありますが、ご存知のとおり外交官としては優秀なお方ですから、余計な因縁を残したくありません」
王はとんでもない、といった顔をした。
「そんなことは考えていないぞ、セレネ。心配は要らない」
「恐れ入ります」
王妃が話を継いだ。
「ところで、例のお花はどうだったの?」
「美しいものでした」
「そう。それは良かったわ」
微笑を作った後、ちらりと王へ目配せを送る。王は咳払いをした。
「実はその子爵がおまえとの結婚を望んでいるのだ」
硬直してしまったセレネへ念を押す。
「おまえは求婚されているのだよ」
「な……なぜわたしに?」
答えを持ち合わせている者などいなかった。
「とにかく、これは悪くない縁談だと考えている。王妃もおまえの結婚に賛成してくれている。おまえはまだ若く、これからの人生はとても長いからな。とはいえ互いを知り合わなければ不安だろうから、二年の婚約期間を設けよう。セレネ、分かったな?」
それは命令だった。
王には王の、セレネにはセレネの考えがある。どちらが正しいかは関係なく、セレネが優先するのは王の思し召しだと決まっている。
「承知しました、陛下」
動揺を押し隠し、セレネは淡々と頭を下げた。
「どうして求婚をお受けになったのですか? お断りすることもできましたでしょうに」
ジャネットが黒髪をくしけずる度、鏡に映る透明の顔がうねる。
セレネは目をつむって不気味な視界を閉じた。瞼も透明だが機能は失われていない。
「両陛下にこれ以上心配をおかけしてはいけないもの。それに陛下が仰ったとおり、子爵との縁談は悪いものではないわ。あの方は代えがたい人材だから、もし他国の有力者とでも結婚されたら損失だもの」
「……国のため、でございますか。殿下は立派すぎるほどご立派です」
「いいえ、ジャネット。これは当然のことよ」
王女の人生はどう曲がっても目的は同じ、国と王と民のためにある。
ジャネットは頭に麦わらのボンネットを被せ、慣れた手付きでリボンを顎の下で結んだ。
「行きましょう」
季節は夏。セレネは軽やかな半袖の侍女たちを連れて部屋を出た。
王はセレネと子爵が婚約するにあたり条件を出した。
結婚は二年後であることと、成婚するまで関係を秘匿することの二つだ。
対して子爵も交換条件を出した。婚約期間中は子爵の屋敷に住むことだ。
王はその条件をのみ、セレネは王が交わした契約を黙って受け入れた。
そして今日、王宮を離れる。
見送りに来た両陛下は威厳の中に寂しさを隠しきれていなかった。愛する娘に降嫁の命を下したことがよほど辛かったようだ。
「健康に気をつけて過ごすのよ」
王妃がかろうじで言葉をかけた。
弟のギュスターヴは両親の後ろに半分隠れていた。セレネはいつぞやのように未来の王太子へ一礼した。
ユーグは既に馬車を横付けして待っていた。軍帽を取って恭しいお辞儀をし、手袋を脱いだ手を差し出してくる。セレネは薄い手袋をつけたままの手をそこに重ね、馬車に乗り込んだ。
二人の後ろに続く馬車にはジャネットと子爵の執事が乗り、ユーグが率いる部隊が二台の馬車の前後を守った。車列は一見、公爵家の私的な移動だ。
「また会えて嬉しいよ、セレネ。これからよろしく」
信じられないものを前にしたようなセレネの視線にユーグは気づかない。
「不敬ね。わたしは王女だと言ったはずよ」
「まだ顔を見てないから本当かは分からないな。声は前回会った人と似てるが、替え玉かもしれない」
「……人をからかうのがお好きなようね。でもそのあたりにしておかないと、あなたこそ替え玉が必要になるかもしれなくてよ」
セレネは片手に隠した手を苛々と握った。
透明人間であることを揶揄されるのは初めてだった。今までは人前に出ないことでその危険を回避してきたのだが、これからは同じようにはいかないのだろう。覚悟していたつもりだったのだが、いざ言及されると治っていない傷口を触られたような気分だ。
一方、ユーグは困ったような奇妙な微笑みを浮かべている。
「さすが王女様だ」
「わたしが怖いなら、今すぐ馬車を降りて差し上げてもいいわ」
「それには及ばない。俺には首元に刃が迫るような状況をくぐり抜けて帰ってきた自負がある。お名前で呼ぶお許しを頂けないかな、我が婚約者殿?」
「……なら、どうしてわたしを選んだのか答えられて?」
ベールの下から凄むが肩をすくめられた。
「怒れる蝶々を納得させられるほどの理由があったら良かったんだが」
「言いなさい、ツァイス子爵」
厳しい声がユーグを居直らせる。
「長い話になるが、あれは三年前……」
「要点を言うのよ」
「……三年間の仕事を終えて帰ってきたが、俺に尽くされた報奨はありがたいお言葉だけで、身軽なこの身には何かが物足りなかった。そこで陛下におねだりしたのさ。この英雄にあの透明な王女様をくださいってな」
「わたしが報奨だというの?」
非難を込めると、ユーグは両手を上げる。
「こちとら一年間は遊んで暮らすつもりだったんだぜ。だがそれができないとなって落ち込んでいたら、偶然貴方と出会った。怪奇的で、幻みたいな貴方とね。孤独に疲れた心にちょうどいい慰めになると思ったんだ」
そう芝居めいて語る。セレネは呆れ返った。
「女を珍しさで選ぶのね」
「誓って言うが、別にそれが趣味なわけじゃない。出会いを大切にしてるだけさ」
「滅茶苦茶ね。陛下のご厚意を利用したり、わたしを言いくるめようとするなんて。貴方は異国で見聞を広めてきた立派な人だと思っていたのに、一度は貴方を高く買ったせいで恥をかくことになってよ」
セレネは締め切られたカーテンの方へ顔を背けた。
その見えない横顔をユーグは顎に手を当てて眺める。
「なるほど。理想がお高いようだ」
「高くなんてないわ。国に仕える者には人格や経験に即した能力が求められるのが当然でしょう」
「……で、名前で呼んでもいいのかな?」
大きな溜息をつく。
「勝手にしてちょうだい」
ユーグは小さく拳を握ると、機嫌よく笑顔を浮かべる。
居心地の悪さを感じながらもセレネは屋敷に到着するまで視線を逸し続けた。
ユーグの屋敷は郊外の平原に佇む。玄関ホールには軍人の家らしく剣や鎧など古い時代の物騒なものが見栄え良く飾られている。
セレネは何人もの使用人に丁重に迎えられた。事前に指導されているのだろう、好奇の視線はない。
「そろそろ昼だな。セレネ、気を取り直して一緒に食事しよう」
その物言いに執事を含めた何人かが密かに驚く。
ユーグが気軽く食堂を指したせいではないが、セレネは硬い声で答えた。
「ごめんなさい、人前では食事したくないの。部屋でいただくわ」
「そうか。案内してあげてくれ」
少々残念そうな様子に心苦しくもなり、腹が立ちもした。
セレネは執事に案内された部屋に荷物が運び込まれるのを見届けた後、部屋を見渡すこともなくソファにぽすんと腰を下ろした。珍しく疲れている様子をジャネットが気遣わしそうに窺う。
「移動中に何かございましたか?」
「ないほうが変よ。わたしの鑑識眼が未熟だと痛いほど思い知らされたくらいにいい加減な人なの。自分がこの国にとって重要な存在だという自覚に欠けているのよ」
ふと腕を組んで考え込む。
「だから陛下はわたしが必要だとお考えになったのかしら……頼りない殿方に軸を持たせるために?」
ジャネットは慌てて口を差し挟んだ。
「ご無理をなさらないでください。お断りする機会はまだございます。なんたってセレネ様は王女なのですから」
しかしセレネはゆるく頭を振った。その仕草をする時に微笑みが浮かべられていることをジャネットだけは知っている。
「心配しないでいいのよ、これはあくまで契約だもの。子爵との関係がどうなろうがわたしの仕事は決まっていてよ」
セレネは王女たる覚悟をもってそう言った。