1.ツァイス子爵の帰還
宰相のご令息が国外での平和維持活動を終えて帰還する。
その知らせは喜びとともに王都中に広まった。
宰相を務める公爵の長男ユーグ・リクトリアは、宰相が持つツァイス子爵の名を借りている軍人だ。国境が脅かされていた同盟国を無血で守り抜いた功績から、勲章が与えられることになっている。
セレネは王宮の一番高い窓から単眼鏡を街へ向けた。
大通りはパレードが行われているような様子だった。馬や馬車で帰還する軍人の列が、沿道に集まった群集から歓迎の声を浴びせられている。
列を辿ると、先頭に人々へ笑顔を見せている青年がいた。まばゆい金色の頭から軍帽を脱ぎ、貴族らしからぬ気さくさで手を振っている。
「意外と若い方だわ」
後ろに控えるジャネットが答える。
「御年二十四と聞いております」
「そう。立派な人ね」
「他のことも調べて参りましょうか?」
セレネは苦笑を浮かべた。
「旅をすると視野が広がるというでしょう。あの方も色んなことを学んできたのでしょうね、という意味よ。きっと今後も我が国によく仕えてくださるに違いないわ」
「左様ですね」
残念そうな返答にセレネは少し疲れを覚えた。
ツァイス子爵はたくさんの土産物と共に両陛下へ謁見した。両陛下のねぎらいの後、宰相が手ずから勲章を息子へ授与することになった。
金のバッジを軍服の胸に飾りながら声をかける。
「よく無事に帰ってきてくれた。お前は私の誇りだ」
「そうでしょうとも。流血があったのは部下が食事中に口の中を噛んだ時くらいですからね」
宰相は呆れ顔で息子の肩を叩いた。
ユーグが壇上の玉座へ敬礼する。王はにこやかに頷いた。
「楽にせよ。三年間、実にご苦労だった。土産物もありがとう。早速長旅の疲れを癒やすがよい……と言いたいところなのだが」
語尾を濁して王妃や宰相と目配せをし合う。
「実はその方に折り入って頼みがあるのだ」
直後、続けられた言葉にユーグは目を瞬いた。
広い芝生を黒い子犬が風のように横切った。落ちたボールをくわえると、それを投げた子どもの元へ駆け戻り、小さな頭を撫で回されて尻尾をバネのように振り回す。
子爵が帰還した翌日。遠くの弟を眺めながら、セレネはベールの下で微笑んだ。後ろに続く侍女たちも面白そうにしている。
「たいそう仲良くなられたご様子ですね」
ジャネットが自分のことのように嬉しそうに声を掛けてきた。
「ツァイス子爵はよい贈りものをくれたわね。輸入申請書が山ほど届いた日はそうは思わなかったのだけど」
「でも、お花のことは覚えておいでだったのですよね?」
「エリニア大公国の固有種なら一度は鑑賞しておくべきだもの」
「左様ですね」
眉尻を下げて答える。あまり理解できなかった時の仕草だ。
ジャネットは時々セレネに何かを期待する。その『何か』をセレネは理解できない。
長く一緒にいるのに不思議なものだ、とだけセレネは思う。
王宮の敷地内には植物園があり、くだんの花はそこに植えられたという。子爵は鉢植えを持って帰ったのだ。
天気が良いので、ついでに侍女たちの提案で外で昼食を取ることにもなっている。セレネが部屋をなかなか出ないので、行楽となると行程はいつも詰まりがちだった。
「セレネ様、私たちはあの木陰に席を作っておきますので」
「あら……」
来ないの? と続けようとして、ジャネットの気恥ずかしそうな表情に気づく。普段の昼食の時刻を一時間も過ぎているからだろう。バスケットいっぱいのメニューを急遽用意したせいだ。
主人の手前、のんびりするわけにはいかない立場だ。セレネがいない間にある程度腹ごしらえを済ませたいに違いない。
「分かったわ。あそこに入るのは久しぶりだし、ちょっと一周してくるわね」
「行ってらっしゃいませ」
勢揃いした礼に見送られ、セレネは植物園へ続く道へ折れた。
王都には市民も入れる大きな王立植物園があるが、ここにあるものはそれより古い。数代前の王が個人的に建てたものだという。
ガラスでできた小さなドームの内部は南方の気温が再現されている。屋外とはたった数度の違いだが、植えられている木や花にとっては天と地ほどの違いがある。
セレネはドレスの裾が植物を掠めないように気をつけながら石畳の道を進んだ。花が植えられた場所は事前に聞いてあるし、花の姿も図鑑で調べ済みだ。
狭い小川の源にその花は咲いていた。人工の崖から濃いピンクの花が鈴なりになってしなだれている。
「ふぅん……」
よく見るためセレネは顔のレースをボンネットへ上げた。特别製のレースは裏側からの視界を妨げない作りになってはいるが、文字が掠れてしまうほどには邪魔になる。
セレネは今、この植物園には一人きりだと思い込んでいた。
だから背後から無言の足音が聞こえた時、侍女が様子を見に来たのだと思った。
「ねぇ、エリニア大公国の海岸沿いには真っ白な家が並ぶ街があるそうよ。ここに白いものを置いて色を対比させたら……」
振り返ると、如雨露を持った青年が唖然としていた。
簡単な格好をしてはいるが均整の取れた体つきが明らかに庭師ではなかった。よく見れば、その金髪と端整な顔には見覚えがある。
「……あっ……」
我に返り、ベールを掴んで下ろす。
何もかもが既に遅かったが、信じられないものを見る視線にこれ以上は耐えられなかったのだ。
ひらめいた策は逃亡だった。顔が分からないのだから相手は王女だとも分かっていないはずだ。そう思って後ずさろうとしたのだが。
「これはこれは水の精霊様。私の花を愛でてくださっていたのですね? なんと身に余る光栄でしょうか」
ユーグ・リクトリアは堂々たるお辞儀をした。
今度はセレネが呆然とする番だった。反応を得られなかったユーグは身を起こして顎に手をやる。
「うーん、透明だから水でできてるのかと思ったんだが。違ったか。ならガラスかな? この植物園を守るガラスの精霊様?」
「え……?」
困惑のあまり声を漏らすと、またも大げさな所作が返される。
「おっと申し訳ない、冗談はこれくらいにしよう。俺はツァイス子爵。ユーグと呼んでくれても構わない。しがない農家として、異国の地に秩序の種をまき平等に水をやる仕事を終えて三年ぶりに祖国に戻ってきたところだ。どうぞお見知りおきを、見知らぬお嬢さん」
「わ、わたしは王女セレネです。はじめまして、ツァイス子爵」
諦めて背筋を伸ばすが、首を傾げられた。
「貴方があの王女様? 想像していたより可憐だな。全然、堅物生真面目って感じじゃない」
「それは……わたしの噂ですか?」
「というよりは体験談さ。一つの誤字も許してくれないから厳しい女教師みたいな人を想像していたよ」
「書類の誤字は不備です。許す許さないの話ではありません」
艶やかな微笑みが話を遮った。
「お説教はやめにして。花の香りに誘われて舞い込んだ腹ペコな蝶々さん。白い街は遠すぎますが、せめて蜜のある花までご案内しましょうか?」
「……結構よ」
差し出された手から遠ざかる。
もし透明人間でなかったら、怒りで赤くなっている様子が見えただろう。
セレネは逃げるように植物園を出た。そう遠くない木の下からジャネットたちが立ち上がる。
「どうなさいました?」
「例の子爵がいて、気を抜いていたせいで顔を見られてしまったわ。陛下にご報告を申し上げてちょうだい」
「承知しました」
ジャネットが人を遣わせた。
皆、表情はなくともセレネの苛々とした気分は分かるのだろう。呑気な雰囲気は消え失せてしまっている。
罪悪感を覚え、セレネは声を和らげた。
「せっかくの外出だけどもう戻るわ。昼食の続きは中でしましょう」
「かしこまりました」
敷布やバスケットがすぐさま片付けられた。
植物園での出来事の直後、両陛下の元に宰相が急行した。
「手筈通り接触したとのことです」
「うむ。結果は?」
王がそわそわと身を乗り出す。
「二つの知らせがございます。まずユーグ……いえツァイス子爵は、恐れながら殿下をたいそう気に入ったと申しておりまして」
両陛下が目を丸くする。宰相は恐る恐る続けた。
「むしろ自分から結婚を申し込みたい、と申しております」
「まぁ」
王妃が喜びの声を上げ、王も頷く。
「見る目のある男だ。よい息子を持ったな、エイル公爵」
「ありがたきお言葉です」
「してもう一つの知らせは?」
「ええ、その」
宰相は複雑な顔をした。
「殿下の方はたいそう不機嫌でいらっしゃるそうです」
両陛下が顔を見合わせる。
「困ったことになったようだ」
王妃は重々しく頷いた。