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9.魔物たちの愛

 足音が遠ざかり、二人はそれぞれ力が抜けたようにソファへ腰を戻した。セレネは自分の冷めた紅茶に初めて口をつける。

「さすがの度胸だな。もし俺たちが馬鹿で、一服盛っていたらどうなっていたのか、見てみたかった気もする」

「縁起でもなくてよ」

 単身で王宮に乗り込んできたカジミールは一見阿呆だが、ロティスとアトッサ間の微妙な平衡を信用していなければできない芸当だ。それを暗殺すれば、ユーグを始めとする多くの者が築いてきた全ての努力が崩れ去ることになる。戦争は避けられない。

 だからセレネの向かいには空のカップが残っているのだ。

 とはいえ、カジミールの提案は到底飲めるものではない。

 結婚はアトッサの最初の手段だ。第二位の妃の座も目くらましに過ぎない。後宮に入った後のセレネは、アトッサにとってただの人質だ。ロティスはセレネの命を盾に取られ、アトッサの身勝手な要求を次々に飲まされることになるだろう。次第にロティスはアトッサの属国となり、一緒くたにエリニアの敵になる。

 これは既に前例のあるやり口だが、人質にされた王子や姫君が一人として命を捨てていないのは不思議なものだ。後宮で何が行われているのかは、誰も知らない。

「まさか承諾するつもりはないよな」

 確信と疑いを半々に混ぜてユーグが問う。だが、セレネは即答しなかった。

「セレネ?」

「……承諾するのが完璧な王女の選ぶべき道だわ」

 ユーグの沈黙が耳に痛かった。

 目を閉じて再び口を開く。

「わたしがいなくなったら、あなたもきっと他の誰かを見つけるでしょう。あなたは素敵な人だもの。別れの寂しさはいつか年月に溶けてなくなってしまうから、大丈夫よ」

「冗談が下手だな」

 瞼を開く。ユーグの微笑みが怒りを押さえている。

「見くびらないでくれよ。そんな上辺だけの言葉を聞き分けるほど俺は安くないぜ……誰よりも特别な貴方に惚れた男なんだからな」

 身を乗り出しているのに、両手は肘置きをつかんでいる。獲物を狙う動物のように、今にも掴みかかってきそうな様子だ。

 あの日のリスのように――セレネはこっそりと微笑む。

「誰よりも変な、でしょう」

「セレネ……!」

 少しの卑下も許してくれない。怒りの大きさは想いの大きさに比例している。

 この人に想われると幸せだが、まだ少しだけ苦しかった。

「わたしは、怪物なの。でも、そんなわたしを想ってくれるのだから、あなたはわたしよりも変よ。だから好きなのよ」

 顎の下のリボンを解く。ボンネットが緩み、開放感が広がっていく。

「あなたといると、わたしは人間でいられるの。自分が自分であることを認められて……楽しいとさえ、思うのよ」

 頭を晒す。

 黒い髪が空中から生えているように見えるだろう。ドレスの立て襟はまるで何も詰まっていないかのように。そのせいで、上から覗かれれば服の中が見えてしまう。上半身も下半身も、下着とは何のためにあるのだろうか。

 ユーグはソファを降り、足元に片膝を突いた。伸ばした両手が頬をそっと挟む。心配性な親指が涙が溢れていないか確かめる。笑うと、動いた頬が熱い手のひらを擦った。

「ありがとう、ユーグ。もうわたしは大丈夫よ。あなたが救ってくれたから……」

 ユーグは呆然から我に返った。

「俺を試したのか? あの賢明にして愚直なセレネが?」

「その言葉は好きじゃないわ」

「要するに堅物生真面目ってことだもんな」

「あなたはリスよ」

 ぽかんとした顔を手袋の両手で挟み、頭を近づけた。

 セレネが目を閉じたことも、開いたことも、ユーグは知らないだろう。それどころか何が起こったのか数秒間分からなかったようだ。感じたのは、僅かな唇の柔らかさのみ。セレネも同じものを感じた。

 腰を抱き寄せられるがまま床に降りて膝立ちになる。見下ろしている視界がユーグだけになる。

「皇子を諦めさせたいの。手伝ってくれる?」

 追い払うのではない。意思を問うのだ。

 その意に気づいた若葉色の瞳がしばし瞑目する。

「……分かった。やろう」



 風呂場に一枚のシュミーズとナイトキャップが浮いている。インク瓶や大量の包帯を抱えて入ってきたユーグとジャネットは一瞬ぎょっとした。

「それ……下着一枚だけか?」

「見ないでよ」

「何も見えないんだが」

 視線に耐えかねたのかシュミーズが背を向けると、体の曲線が布に浮き上がった。目を釘付けにしたユーグへジャネットが呼びかける。

「ユーグ様。包帯の準備をしておいてくれませんか?」

「ああ」

 ジャネットは大きなインク瓶の手のひらほども大きい蓋を開けた。新品のインクのにおいが僅かに漂う。

 風呂場には他に、柄の長いスプーンや刷毛、筆、布切れなどが用意されている。変わった道具を使う絵描きのアトリエめいている。

「もう一度言うけれど、遠慮は要らないわ」

「はい」

「テーマは……『蝕んで共生する穢れ』、という感じよ」

「……頑張ります」

 セレネはシュミーズを脱いで丸めると、両手に持って掲げた。こうすれば何も見えなくとも腕を上げて立っていることは分かるだろう。

 ジャネットはまずスプーンを取ってインクを掬い取った。

「行きます」

 狙いを定めてスプーンを振る。塊となったインクがタイルの壁の手前で弾ける時、ユーグは我知らず顔を顰めた。


『その覆いの下に何が隠されていようとも、他の妃と変わらぬ寵愛を授けることも約束しよう。砂漠の栄えある民の約束は絶対だ』

 カジミールは自信満々にそう言った。付け入る隙をセレネに与えたとも知らず。

 セレネはカジミールを追い払うため、自分の最大の秘密を打ち明けることにした。ただし、少し手を加えてからだ。

 伴侶になり得る女性から男性が手を引きかねない理由の一つ、病。それも深刻で、治る見込みもないと、子を産む能力も疑問視される。いくら政略的に婚姻が必要だとしても、皇子が忌避すべき女性を傍に置いておく義理はない。

 特に見た目が悪い病ならなおさらだろう。ということで、セレネは病者を演じることにした。

 書き物をする時、ペン先にインクを浸した後、瓶の縁に余計なインクをなすりつけて落とす。それを繰り返したインク瓶の縁には、液体のような見た目の不気味な塊が出来上がる。

 今、セレネはその妙に生物的な塊から着想を得て、自分の体に病的な皮膚を作ろうとしているのだ。

 インクを荒く重ね塗りしたり道具を使ったりして細かに凹凸させ、異様な質感を作る。それを体中に染みのように作れば、爛れて腐りかけている透明人間の出来上がりだ。インクが付いていない部分から体の裏側が見えるのが、なんとも気色が悪い。


「なんだか芸術的ね」

 部屋の姿見の前でくるりと回ってみせる。体の隙間から、背後で苦い顔をしているユーグが見えた。

「ユーグ。いつまでそんな顔をしているの」

「……一生かな」

「もう……」

 この作戦で、セレネはカジミールの前で服を脱ぐことになる。

 ユーグは自分より先に他の男がセレネを見ることに納得できないでいた。時間がないのでそのまま手伝わせたが、ずっと言葉を喉に詰まらせている様子だ。

「ねえユーグ。わたしだってこんなことできればしたくないわ。何も見えないからって、何もないわけじゃないんだから」

「当たり前だろう、触ればそこに肌があるんだ。……あぁ、セレネがあいつに触られでもしたら、俺はおかしくなる自信がある」

「何がそんなに受け入れられないの?」

 ユーグは包帯を丸める手を止めた。

「何がも何もない、その姿さ! 俺は今の姿はセレネの本当の姿じゃないと信じてる。いつか必ず、昨日のように姿を取り戻すはずだ。そうでなければ昨日一瞬だけ姿を取り戻した意味が分からないじゃないか! 教えてくれ。昨日どうして元に戻れたんだ?」

「そんなの……わたしにも分からないわ。昨日はただ、あなたのことを考えて、踊って、すごく楽しかっただけよ。そこに魔法なんてないわ」

 激しい剣幕を浴びて、セレネはなんとなく両腕で体を隠す。ユーグはバツの悪い顔で頭を掻いた。

「……そうだよな。悪かった」

 伸ばした包帯を体に巻き付けていく。包帯は首から腰までを覆い、それ以外は下着や手袋、靴下で覆う。

 引越しの際に置いていったドレスをジャネットが持ってきたので身につける。少し小さく感じたのは包帯の厚みのせいだけではないようだ。以前の多忙さから解放された影響だろう。

「提案があるんだが」

 身支度が終わる頃、ユーグが口を開いた。

「俺が一緒にいるのはどうだ?」

「いいえ、駄目よ」

 セレネは鋭く返す。

「あなたに悪評が立つかもしれないわ。そうなればあなたの仕事はこれまでのようには行かなくなってしまう。致命的な障害になるわよ」

「そうかな。むしろ迫力があって良くないか? 怪物と愛し合ってる男、なんてさ」

「ユーグ様……!」

 ぎょっとしたジャネットを手振りで押さえる。

「本気なの?」

「本気だし、正気だ」

 二人はしばしベール越しに睨み合った。互いに考えていることは同じ、相手を危機に晒す価値がどれだけあるかだ。

 ユーグはベールを捲くった。透明な顔に散らばっている黒々とした斑点から唇の位置を正確に見定めると、自身の唇を押し付ける。

「セレネだけには背負わせないよ。疎まれるなら、俺も一緒だ」

「……分かったわ」

 ジャネットは手で顔を覆っていた。



 全ての準備が終わったのはカジミールが部屋を訪れる数分前だった。取り次いだジャネットがノックした直後、ドアが開かれる。

「約束の時間だ、セレネ王女」

「はい」

 慌てふためいているのを予想していたのか、カジミールの眉が意外そうに動いた。セレネは窓のカーテンを引きながら声をかける。

「お返事はあちらでさせていただきます」

 指したのは寝室の方だ。カジミールは一人で袋小路に向かう愚をせず、部屋が暗くなるまで待った。

「なぜ日を遮る? よく見えないではないか」

「申し訳ありません。ですがこれは殿下のためです」

「服が変わっているのもそうなのか?」

「全て殿下のためです」

 カジミールは目を細めて笑う。

「ほう。初心に見えて気遣いはできるのだな。結婚の覚悟は決まったか?」

「わたしの方は、既に」

 セレネの後からカジミールが寝室へ入る。後ろ手に閉じたドアには指一本分ほどの隙間が残された。

 ベッドの脇に立ち、カジミールへ体を向ける。

「ですが殿下はいかがでしょうか。まだわたしを少しも知らないのに結婚などできましょうか?」

「一理あるな。では教えてもらおうか」

 カジミールまだ警戒を解いていない。丸腰に見えるが実際は衣装の内側に武器を隠し持っているのだろう。いざという時に己の命を守れるように。

「……はい。お教えしましょう、わたしの秘密を」

 セレネはまずドレスの襟を緩めた。

 次に引き締めている腰の紐を緩め、ボンネットのリボンを解く。そして、その全てを前屈みになって体から振り落とした。

 シュミーズ一枚になり、長い手袋と靴下を脱ぐ。シュミーズの下を脱ぎ、最後の一枚を取り払う。

 首から腰までは包帯が巻かれている。ゆっくり解いたが、時折ベリベリと嫌な音がする。まだ乾ききっていなかった部分が包帯に付着したり、包帯の跡が刻まれたりしている。乾いている部分からは、インクの細かい欠片が少し落ちた。

 目を上げると、カジミールは凍りついていた。

「これがわたしです」

「はっ……?」

「こんな姿でも、ご寵愛をいただけるのですよね?」

 淡々と、しかし期待を込めて。

 演奏記号の一つのようだ。演技は演奏に似ている、とセレネは思う。十分な間を取った後、もうひと押しするため一歩踏み出す。

 カジミールの顔に浮かんでいるのは驚愕と嫌悪だ。こちらへ手を伸ばすつもりは毛頭なさそうだ。

「無理なら無理と仰っていただいて結構ですよ、殿下。ただの口約束なのですから」

 静かにドアが開き、ユーグが姿を現した。

 前後を塞がれたと思ったのだろう、カジミールは壁際へ飛び退ったが、その前を通り過ぎてセレネの肩を抱く。

「貴様ら……?」

「お察しの通りです」

 ユーグは黒い頭を撫でながら愛おしそうに見下ろした。

「私たちは別れを覚悟しています。私たちの悲しみ一つで世界の平和が保たれるというなら、喜んでこの愛を明け渡しましょう。しかし、この人を私と同じように愛することができないとなると、無闇に秘密を知ってしまった代償を支払ってもらわなければいけませんね」

 カジミールは信じられないものを見る目をユーグへ向ける。

「その女を、愛している、のか……?」

「私たちは真の愛で結ばれています」

 腰を抱き寄せられてユーグの方へよろめく。それをきっかけに緊張の糸が切れたのか、膝が笑い始めた。抱きとめられなければ倒れていただろう。

 折り重なるように抱き合う二人のシルエットは、信頼し合う恋人同士そのものだ。

「魔物どもめ」

 おぞましそうに吐き捨てたカジミールは、猫のように部屋を出た。通り過ぎた侍女の鋭い目つきを看過して廊下へ飛び出し、王宮の出口を目指す。

 廊下の巨大な窓ガラスから太陽の光が差し込んでいる。砂漠の民にとって太陽は常に試練を与える厳しい神だ。神を拝することができる窓の下は、異国の地では唯一安心できる場所だった。

 その太陽が、突如黒い影に覆われる。

 窓の下から湧き上がった黒い集団はカァカァと不気味な声を上げながら羽ばたいていた。カジミールが知らない鳥、カラスだ。

 咄嗟にカジミールは窓ガラスを拳で叩いたが、図々しくもカラスの群れは高く飛ぶことでいつまでも太陽の前から退かない。

「……呪われているに違いない!」

「カジミール殿下」

 毒づいている間に近衛兵たちが近づいていたのだ。

「謁見の間へお越しください。国王陛下がお待ちです」

 カジミールの舌打ちが響いた。


 乱暴な足音が遠ざかり、セレネの膝がとうとう折れる。

 ユーグは細い体を抱きとめると脱いだ軍服の上着で包み、両腕に抱き上げた。真っ白なシャツに黒い塵が付くが、セレネの手はそれを払うこともままならないほど震えている。

 風呂場へ連れて行って浴槽へ下ろし、蛇口を限界までひねる。掬ったぬるま湯でセレネの顔を拭おうとしたが、焦れったそうに唇を重ねた。

 啄むように何度も何度も口付けられる。緊張で呼吸もままならないセレネの息が上がる。

「もう、許して……」

 ようやく顔が離れたが、セレネを覗き込む瞳は熱っぽいままだ。驚くほど衝動的だったのに、これでも抑えてくれていたのだと気づいた。

「ユーグ、来てくれてありがとう」

 膝立ちになって目線を合わせると、ユーグはしばらく不機嫌そうにセレネの顔を拭っていた。が、やがて低く笑い出す。

「あいつのへっぴり腰を見たか? お化けにでも遭ったみたいに尻尾丸めて逃げ出したぜ」

「本当に尻尾があったら可愛かったでしょうね」

「違いない。猫……いや、狐かな」

 陰でこんなことを話すのは悪いと分かっていたが、こみ上げる笑いをどうしても抑えられなかった。なにせ、目論見通りの展開となったのだから。

「今頃はカラスの大群に肝を冷やして、陛下の御前で震えているだろう。あとは、俺の仕事だ」

 立ち上がりざま額に口づけ、頭をポンと撫でた。

「借りを返しに行ってくる」



 カジミールは近衛兵に見張られながら謁見の間へ入った。両陛下に歓迎の色はない。

「これはどういうことですか、陛下? 勘違いでなければ、私は罪人の扱いを受けているようですが?」

「残念ながら勘違いではないかもしれませぬぞ。カジミール殿下」

 疑問を顔に浮かべた背後で扉が再び開く。糊の効いた軍服姿のユーグが入ってきて宰相の隣に並んだ。

 王が手振りで文官を呼び、誓約書を持ってこさせた。ユーグがそれを受け取り、カジミールへ差し出す。

「我々からの要求は二つだけです。一つは殿下、貴方がこのロティス王国に今後一切出入りをしないこと。もう一つは、貴方がエリニア大公国とその同盟国へ、今後一切干渉しないこと。署名はここにお願いします」

 空欄を指し示そうとした指の腹を銀色の光が掠めた。誓約書が、それが載っていた下敷きごと切り裂かれる。

 カジミールが右腕を振り抜いた。手の甲の側の手首から仕込みナイフが突き出ている。

「代償、だと?」

 切っ先がユーグへ、ひいては王へ向く。近衛兵たちの槍がカジミールを取り囲む。

「これは詐欺だ! 貴様らはこの私を騙し、脅し、あまつさえ毟り取ろうとしている! 覚悟するが良い、無闇に知ってしまった王女の秘密とやらは私の口を発端に今に世界中に広まるだろう。呪われよ!」

「王女様の話が何の役に立つんでしょうか?」

 ユーグは人差し指を舌先で舐めた。血が微かにぬめる。

「王女様が透明で、しかも奇病に侵されているなんて話が仮に事実だったとして、それを広めた場合、一体我が国に何の損があるんでしょうか。そもそも王女様が何かしら病みついていらっしゃることは誰でも知っていますよ、一年中あんな格好をなさっているので。むしろ理由を知れば誰もが納得するでしょう、『あぁ、体が病んでいるから心もそうなのか』とね。つまり、殿下の数々の行いに比べたら大したことはありません」

「……何だと? 私の行い?」

「無断で王宮に入り、王女様へ強引に迫られた。紳士とは思えませんね」

 カジミールはあまりの怒りと呆れで立ちくらみがしたようだった。

「貴様こそ瑣末事を引き合いに出してこの私の署名を手に入れようとしているではないか!」

「では、入国申請書に虚偽の内容を書いた件はいかがでしょうか?」

 切っ先が宰相へ向く。宰相は二枚の紙面を見せる。

「一枚はパーティへの招待状に対して殿下の代理人が送られた返信で、もう一枚は数日前に書かれた入国申請書です。同じ名前が書かれていますが、筆跡は同一人物のものではありません。申請書を受け取った管理官によると、この人物に同行者はいなかったと証言しています」

 仕込みナイフがゆっくりと下ろされ、鋭い音を立てて袖の中に引っ込んだ。

 宰相が予備の誓約書を出し、切り裂かれた下敷きの無事な部分に置く。

「お一人でここまでいらっしゃる度胸には感服いたしますよ」

 カジミールは羽ペンを受け取ると、指し示された空欄に名前を書き始めた。だが、強い筆圧のせいでペンが紙を破る。

「穴が開いた」

 悪びれないカジミールの目の前でユーグが軍服の内側に手を入れた。巻かれた誓約書を取り出してニヤリと笑う。

 謁見の間に舌打ちが響いた。

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