7.一夜の幻
王妃の誕生日を祝うパーティが今年も開催される。
王家と親類が勢揃いし、国中の貴族が招待され、王宮が音楽とダンスで華やぐ夜だ。開催が知らされると早速、公爵家の嫡男であり今年の話題の人であるユーグに招待状が送られてきた。
「……しかし、貴方と行けないのは残念だな。秘密の関係はこういう時に辛い」
セレネとジャネット、ユーグとマクシムの四人は玄関にいた。使用人が旅行鞄をせっせと外へ運び出している。
ユーグが同伴者にセレネを選べないのは、婚約していることはまだ世間には秘密だからだ。よってセレネは「元から王宮にいた」ことにするため、一度戻ることになっている。
「仕方ないでしょう。一緒にいたら全てが明るみに出てしまうもの。陛下の信用に傷をつけられないわ」
ユーグは距離を詰めてくると、耳元に顔を寄せて囁く。
「でも会いたいんだ」
切ない声を吹き込まれて立ち竦むが、体を反転させられて背中を押されたので、玄関を出ざるを得なくなる。
「当日まで俺の顔を忘れないでくれよ?」
「え、ええ……」
あれよという間にジャネット共々馬車に入れられ、ドアを閉められる。
動き出した窓でユーグが手を振る。かろうじで手を挙げて返し、馬車は屋敷を離れていった。
しばらくして意味のなくなった手を下ろそうとしたが、耐えられなくなり、ベールの上から両手で顔を覆う。
「セ、セレネ様?」
「……大丈夫」
最近、なんだかユーグの距離が近い。声も柔らかく、笑みは甘い。落ち着かなくて戸惑うのに、迫られて胸をときめかせている現金な自分もいる。
会場で会うということはダンスもするのだろうか?
その疑問に突き当たると同時にセレネは現実へ引き戻された。
自分はダンスができない。
そもそもパーティに出席するのはこれが初めてとなる。十歳の頃から閉じこもってしまったせいで社交界デビューをしていないからだ。ダンスなど、練習もしたことがない。
だがユーグの誘いがなくても、会場に出たからには一回はダンスをして然るべきだと思われるだろう。
時間に余裕はない。
セレネは決意に満ちた面を上げた。
秘密の婚約者を送り出したドアが閉まる。
ユーグは玄関ホールから屋敷を見渡し、いや増した静寂に耳をそばだてて溜息をついた。
「寂しい……」
「たった二週間です」
「同じ屋根の下にいられないなんてどうにかなりそうだ」
おもむろに両腕を広げると軽やかなステップを踏み回転する。片方の腕が曲げられているのは、想像上の女性の腰を支えているからだ。
目を閉じて想像に浸っている主人へマクシムが半眼を向ける。
「やめてください」
「……壁がある方が恋は燃え上がる。先人たちの言葉を信じるしかないな?」
「確かに、時に貴方には歯止めが要ります」
ユーグは回転を止めると、不敵な笑みを浮かべて肩を竦めた。
王宮を出たことも秘密にされているセレネは、表立って歓迎されなかったが、両陛下は待ちわびていた様子だった。
「おおセレネ、よくぞ帰った! 全く、手紙の一つも寄越さないとはな」
「本当に、心配したのよ。ああ久しぶりにその姿を見るわねぇ」
立場がなければ抱きつかれていたかもしれない。安堵と喜びが満面に浮かべられている。
「ただいま帰りました。不精にもご連絡せず申し訳ありませんでした」
「便りがないのも良い便りと云うわ。さあ皆さん座って。お茶を持ってきてちょうだいな」
メイドたちが仕事に取り掛かる。王は待ちきれない様子でそわそわと身を乗り出した。
「それで、ツァイス子爵とはどうかね? 仲良くやっておるか?」
「はい、概ね……」
「な、なんだ? 申してみよ」
不自然な沈黙を不安がられ、慌てて頭に浮かんだ色々な場面を振り切るように首を横に振る。
「いえ、何でもありません。子爵は頼りになりますが、時に人をからかって遊ぶので油断がならない方です。婚約者としては付き合い易いです」
両陛下は興味深そうにこちらを見ていた。輝かんばかりの微笑みに、なぜか顔がかぁっと熱くなる。
「わ、わたしは来たるお母様の生誕パーティに向けてダンスの練習をするつもりです」
混乱のあまり突然そう宣言する。
両陛下はさらに喜んだ。
「そうかそうか。それはいい。すぐに準備を整えてやろう」
「ありがとうございます」
「では新しいドレスも用意しなきゃね。王女として恥のないよう、立派なものをお作りなさい」
「ありがとうございます」
セレネが反射的に返答しながら自分の発言に驚いている一方で、両陛下はまるでいたずらが上手くいったかのようにチラリと視線を交わし合った。
その日よりダンスの特訓が始まった。
王妃付きの筆頭侍女にステップを教えてもらった後、侍従に練習相手となってもらい、動きを確認して形にしていく。足を踏む度に謝ったが、何度目か分からなくなる頃に逆に申し訳ないからと止められた。
並行して仕立て屋との打ち合わせもあった。セレネの御用達の店なので、姿を覆い隠す服はお手の物だ。
色はセレネの印象と黒髪に合わせて青色にした。頭はボンネットではなく、髪飾りとベールだけで覆ってはどうかと提案された。
「以前、頭からベールを被ったらクラゲみたいだと言われたのよ。変にならないかしら?」
「ほう、クラゲですか。クラゲは小さいものは可愛いですよ。変なものじゃありません、優雅で美しいものです」
「そう……? なら、この案で任せるわ」
仕立て屋の老夫婦は恭しいお辞儀をして店へ帰っていった。あとはデザイン案が届くのを待つだけだ。
青い花のような、海を浮かぶ海月のような。そんな自分を見たら、ユーグは次は何に例えるだろうか。
「お喜びになるといいですね」
心を読んだようにジャネットが言う。セレネは慌てた。
「あの人は政略上の婚約者よ。別にどう思われようが構わなくてよ」
「誰とは言ってませんよ、セレネ様」
ハッとして小首を傾げているジャネットを見たが、どう返したらいいか分からずそっぽを向くと、くすくすと笑う声が聞こえた。
このところ、皆に見守られている気がする。温かい眼差しが静かに自分とユーグを取り巻いている。
皆が何かを期待している。その『何か』は、そろそろ分かりそうな予感がした。
「お誕生日おめでとうございます、王妃陛下。今年もたくさんの幸いが陛下にございますように」
貴族たちが一家族ずつ王妃と国王に挨拶を述べていく。今宵の主役である王妃は誰よりも華やかな装いで、丁寧に挨拶を返していく。
だが、皆の視線を最も集めたのは王妃ではなかった。
海のように青く、花びらのように可憐にふくらんだドレスを纏った美しい人影――王女セレネだ。
幾重にも重ねられたベールで顔を隠してるが、噂の『病的な精神』の不気味さを、芸術品のような美しさが上回っている。少し動く度に靡く刺繍で縁取られたベールは柔らかく優しい。
弟王子ギュスターヴと並んでいることも注目される理由だ。姉弟が揃って公の場に出たのはこれが初めてのことだった。
しかし、当のセレネは真新しいドレスの中で強張っていた。
初等学校の時とは比べ物にならないほどの興味本位な視線を浴びているのだ。自分へ向けられた会釈を返すだけで精一杯だ。
ちらりと隣のギュスターヴを盗み見る。小さい頃から同じような場を経験してきたお陰か、既に王子に相応しい気品を身に着けているようだ。いつの間にこんなに立派になったのだろうか。現実逃避のように弟の成長に感動しながら、セレネはぐらつきそうな両脚を懸命に立たせていた。
「おお、やっとお出ましか」
王の嬉しそうな声に目を上げる。その時、胸がどきりとした。
宰相であるエイル公爵とその家族だ。宰相たちは挨拶を交わした後、彼らの息子をこちらへ押し出した。
「セレネ殿下。ギュスターヴ殿下。既にお聞き及びかもしれませんが、紹介させてください。私の息子のユーグです」
一目ではそうだとは分からなかった。軍の礼服に身を包み、金髪を緩やかに撫で付けた姿が、あまりにも麗しかったからだ。
「はじめまして、セレネ殿下、ギュスターヴ殿下。ツァイス子爵ユーグ・リクトリアです。お会いできて光栄です」
「……あ、ええ、はじめまして」
手袋をつけたままの手を差し出し、甲にユーグの口づけを受ける。躊躇いのない仕草や上目遣いの小さな笑みが、二人だけの合図のようだ。
ギュスターヴも同じように手に口づけを受けた。幼年のため引っ込める手は素早いが、ユーグを見る目は好奇心に溢れていた。
「ギュスターヴは最近、どこかの平和的な英雄のことが気になって仕方ないようでな」
「おや、誰のことでしょうか。私以外にその称号が似合う者がいたかな?」
一同は笑った。ギュスターヴがはにかみながら言う。
「今度、私にもエリニアでの経験を教えて下さい」
ユーグは小さな王子へ向き直った。
「もちろんです。いつでもお呼びください」
「きっとですよ、子爵。それと……」
口元に手を添えたので、ユーグは耳を近づける。すると、その耳だけを赤くした。
「はい」
自分に関係する話をされた気がする。セレネは二人から視線を引き剥がした。
「そろそろ始めよう」
王の一声により、楽隊がワルツを奏で始めた。
最初に両陛下がホールへ滑り出た。二十年間、互いを支え合ってきた夫婦のダンスは、ぴったりと息があっていて伸びやかだ。
両親に見入っていたセレネは、我に返って周囲を見た。二番手を期待する視線が集まっている。
「セレネ殿下」
聞き慣れた声が呼ぶ。ユーグが片膝を突いて手を差し伸べる。
「私と踊って頂けますか?」
返事をしようと唇を開いたが、声は喉に張り付いて出てこなかった。
だが、もういいだろう。口を動かしたかどうかなど、どうせ誰にも見えないのだから。
微笑みに誘われるがまま手を重ねる。軽く引っ張られると、不思議なほど軽やかに脚が動いた。
ホールへ出て互いに一礼し、ユーグの手が腰に回される。
「わたし……練習したのよ」
「大丈夫。ついて行くよ」
緊張を察し、ユーグが頷く。その若葉色の瞳が厚いベールで淡く青に染まっている。
もしも手袋もベールもなければ、今頃は。
セレネは最初の一歩を踏み出した。
踏んでしまうと思われたユーグの足はそこになかった。当たり前のことなのに不思議な感じがして、試すつもりでもう片方の足も踏み出す。やはりない。まるで子どもの遊びのようだ。
基本的なステップに夢中になっている間に、ユーグがさり気なく位置を変えてくれる。ユーグの背景がゆっくりと流れていく。皆が自分たちに魅入っている様子が見える。
夢のように、心も体も軽い。
ふと、ユーグが口の端を上げる。
「つかまって」
「え?」
「最後の一拍子目で跳ぶんだ。できる?」
返事をする余裕はなかった。腰を支えられたので、慌てて肩に手を掛ける。気づけば途中から入った曲はもう終盤に差し掛かっていた。最後を技で飾るつもりなのだ。
高揚感に押し出されるように、セレネは両足でジャンプした。
シャンデリアの輝きがユーグの瞳に宿る。世界が回る。海の深みから浮上するように、視界が透明になっていく。
それは実際には一瞬のことだったが、曲が終わっても心はまだ宙を浮いていた。ユーグが目を瞠ってこちらを覗き込んでいる。
「セレネ……」
「なに?」
「貴方が、見える」
意味を理解するのに数秒かかった。
弾かれたようにユーグの腕を離れ、冷静を装った足取りでバルコニーへ向かう。皆は王女のために道を開けたが、ユーグの前には次のダンスの相手を狙う淑女たちの厚い壁だけができた。
「失礼!」
人をかき分けてバルコニーに駆け込んだ時、セレネは背を向けていた。
「セレネ……!」
「見ないで」
か細い声を聞いたユーグの息が一瞬詰まる。
「どうして?」
「……恥ずかしいの!」
「何が!」
「だって、お化粧もしてないのよ!」
ユーグは膝からくずおれそうになったのを堪えた。
「どうせ見えないからってお手入れは適当だったし、隈ができても構わないからって夜更しをたくさんしてきたのよ。それに日光にも当たってないの。それを八年間続けたのよ! どうなってるか分からないわ!」
「セレネ」
顔のベールを押さえるセレネの前へ回り込み、その両手を取る。
「俺を見て。目を逸らさないで、閉じないで」
真剣な声に抗えず、セレネは上を向いた。
曇ったガラスのように景色が霞むベール、その厚い積み重なりが一枚ずつ取り払われていく。こちらからは見えるが、向こうからは見えないという安心感と引き換えに自分を覆っていた壁を、ユーグが取り去っていく。
「……黒いまつげが見える。眉も黒くて、凛々しい美人だ。白い肌が火照ってて可愛い。瞳は……菫色で、星みたいに輝いてる」
夜風は驚くほど冷たく爽やかだった。
一点の曇りもない空気が瞳に触れている。妨げるものは何もない。パーティホールのざわめきが意外と近くなり、遠くの木の葉擦れの音が耳に届く。
澄みきった感覚の中央に、ユーグの柔らかな笑みがある。その瞳いっぱいに自分が映っている。
「セレネが見えるよ」
手袋を外した熱い手が頬を覆う。
顔が近づいてきて、思わずぎゅっと目を閉じる。だが、降ってきたのは小さな笑いの吐息だった。
頬を撫でられて恐る恐る目を開く。
「強引なことはしないさ。……それとも、した方がよかった?」
「……っも、う」
俯きかけた時、ユーグが驚いたように顎を支える。
「消えかけてる」
「え……」
頬に手をやったが、それで分かるわけはない。代わりにユーグの表情が自分に起こっていることを表している。セレネは急いでベールをかき下ろした。
「悪かったよ。キスするから消えないでくれ」
「そ、そんなこと言われても。わたしの自由じゃなくてよ」
「あぁ……セレネ」
抱きしめられたセレネの体がその場で半回転させられ、ホールから見えないようユーグの陰に隠される。
「貴方が好きだ」
心の深みを言葉が優しく打つ。放り込まれた丸い石が小さな飛沫を上げた後、水底へ到達するように。
セレネは何度か唇を開いた後、とうとう声を振り絞った。
「わたしも、好きよ」
顔を上げると、誰よりも正確に自分を知る瞳が視線を合わせ、嬉しさと安堵で笑った。