プロローグ
王家の一員として国に仕え、民を守り、良家に嫁ぐ。
王女とはそうあるべきだ。
「セレネ、そろそろお相手がほしくないかしら?」
――まただ。
二人きりで話をすると、王妃は必ずこう質問する。今年に入って何度目だろうか。セレネも答えを繰り返した。
「両陛下のご意向さえあればどこへでも嫁ぎます」
「わたくしが聞きたいのはあなた自身の望みよ、愛しいセレネ」
「両陛下の望みがわたしの望みです」
「……そう」
持っていたティーカップを音もなくソーサーへ戻す。
セレネは王妃の目線を辿ってポットを取り、向かいの席へ追加の紅茶を注いだ。少し引っ張られたドレスの袖から長い手袋が覗く。
「ありがとう」
暖かな陽が降り注ぐテーブルから一本の淡い湯気が立つ。
反対に冷めきっているセレネのカップへ王妃は心配そうな目をやった。
「あなたが飲んだり食べたりしているところを最後に見たのはいつだったかしらね」
それを聞くと、セレネは顔を覆う白の厚いベールを少し持ち上げた。
ベールは頭を覆うボンネットに縫い付けられている。その中へカップを潜り込ませ、一息に半分の量を飲み込む。
「ごめんなさい、お母様。失礼な振る舞いをしたいわけではありません。ただ、わたしは何かを楽しむ必要がないのです」
残りの半分も一息で飲み干して立ち上がる。
「やるべきことが残っていますので、これで失礼いたします」
完璧な淑女の礼をとる。
セレネが退室すると、王妃は深々と溜息をついた。
「なんて堅物に育ってしまったのかしら……」
このロティス王国の王女セレネには秘密がある。十八歳の妙齢にも関わらず縁談も遠のくような秘密が。
透明人間なのだ。
体中が水やガラスのように透明で、向こうの景色が透けてしまうのだ。唯一、美しい黒髪だけは目に見えるが、服を着ていなければ人間とは思えない姿になる。
なのでセレネはいつも隙間なく肌を隠していた。ドレスは必ず立て襟のものを着て、肘より長い手袋をはめ、ボンネットを被る。ボンネットの広いつばにはベールが縫い付けられており、顔面から項までをきっちり覆っている。
この秘密を知っているのはセレネの両親と弟、そして少数の近侍だけだ。知らない者は、王女は哀れにも心を病んでいるのだと信じていた。
長い廊下の向こうからはしゃぐ声が近づいてくる。
「……それで、馬に乗せてもらったんだ。走ったらすごく速くって……」
子どもの話へ侍女と侍従がにこやかに耳を傾けている。二人はセレネに気づくと立ち止まって頭を垂れた。
元気だった子どもの顔も緊張にこわばる。
「ご機嫌麗しゅう存じます、ギュスターヴ様」
ドレスをつまむと、八歳の王子ギュスターヴは唇を僅かに噛んだ。
返事をしてくれるつもりなのだろうか。そうだとしても、勇気が出るのを待ち続けるのはむごい仕打ちに思えた。
「失礼いたします」
セレネは居心地の悪い無言の場から逃れるように去った。その背をギュスターヴの途方に暮れた目が追ったとも知らず。
「今日もお忙しいご様子ですね」
侍女が執り成そうとした。
王宮中が寝静まる時間になってもセレネの机はランプで照らされ、広く暗い部屋の中に絶海の孤島のように浮かび上がっている。
そこへ遠いドアから声がかかった。
「セレネ様、もう日を跨ぎましたよ。そろそろお休みくださいませ」
部屋付き侍女のジャネットだ。セレネは透明な顔を上げる。
「ジャネットこそ起きていたの?」
「ちょっと目が覚めただけです。お休みにならないと明日がお辛いですよ」
「平気よ。明日は予定がないから昼寝くらいはできてよ」
「お肌が荒れてしまいますよ」
「見えないのだから関係ないわ」
セレネは二歳上のジャネットの姉のような心配性に微笑んだ。
「お休みなさい、ジャネット」
「……おやすみなさい、セレネ様」
ドアが閉まる微かな音を聞き届け、ガウンを正して再び机へ向かう。
机の上には書類の束が置いてある。署名が必要なもの、検証すべきもの、書き直さなければならないものなど、種類別に仕分けているところだ。
集中が途切れた隙に、ふと王妃の言葉が浮かぶ。
『あなた自身の望みよ』
セレネは自分の透明な両手を見た。
どうしてあの優しい王妃へ現実を突きつけられようか――結婚相手など見つかるわけがない、だなんて。
透明人間は怪物だ。化粧もできないし、服も選べない。当然理解されないから、よそへ嫁ぐことはできない。
完璧な王女になれないのはとても悔しい。
だからセレネは王と国と民に仕え、いずれ王位を継ぐ弟を守ることを使命にした。
それしか道がないからだ。