皇帝陛下の巡幸-8
ザクセン地方、逃亡の荒野。
男は灰色の槍の背中に乗る。
禁忌の精神魔法を目にしても、灰色の馬は怖がる素振りを見せない。
脚が速く、賢いだけでなく、肝まで据わっている。たいした奴。気に入った。
「灰色の槍。母娘らしき奴隷は何者だ?」
『知らぬ』
当たり前のように【念話】で返答される。
灰色の槍は無属性魔法の使い手であることを隠すのをやめたようだ。
「知らない相手だと? なぜふたりを助ける?」
実際に生命を張ったのは自分だが、男はあえて触れない。
『娘を想う母の強い思念が伝わってきた。お前は感じなかったのか?』
「戦場では【遮断】を常時発動してるからな」
『Aレベルの無属性魔法まで使えるのか。バケモノだな』
「なんだと!? こっちこそ【念話】を操る馬なんて聞いたことないぞ。お前こそ何者だ?」
男の問いに灰色の槍は答えない。
灰色の馬は返答する代わりに、全身の筋肉を張る。
いつでも駆けだせる構え。
理由はすぐにわかる。
西の彼方、主戦場方面。舞う土埃とともに、ひと組の人馬が近づいてくる。
姿をあらわしたのは、死を連想させる黒い巨馬ーー黒い鎧だった。
ただし、背中に乗るのは主人のザムエル・ビド将軍ではない。
反乱の首謀者は、男の傀儡だったザムエル将軍は、死んだ。
代わりに騎乗するのは将軍の右腕ジグムンド。
その鎧には己のものか敵のものか分からない乾いた血がこびりつく。
黒い鎧の巨体も同様。
凄惨な戦場から逃れてきたのが手に取るようにわかった。
「キサマが精神術士だったのだな! よくも、よくもザムエル将軍を!!」
馬上のジグムンドが叫ぶ。
憤怒の形相で、まっすぐ男に向かってくる。
男は呼吸を整え、目測する。
抵抗するそぶりは見せない。
否、争うのを諦めたかのような態度を偽装する。
唐突に、ジグムンドが黒い鎧の手綱を引く。
黒い巨馬は足を止める。
男との距離は二十シュリッドーー精神魔法の有効範囲まで、あと十シュリッド。
「はんっ! 知ってるぞ。精神魔法は相当近づかない限り効果がないそうだな!」
叫びながら、ジグムンドは鞍にかかった短弓を取り出す。ザムエル・ビド将軍の遺品だ。将軍の副官だった青年将校は、懐かしむかのような目で弓を眺め、意を決したように矢を放つ。
男を乗せた灰色の槍が跳ねる。
足場の悪い岩場にもかかわらず、巧みに矢を避ける。
男が距離をあけようとすれば、黒い鎧が突進してくる。
逆に、精神魔法の有効範囲に迫ろうとすれば逃げられてしまう。
息のあったダンスのように両者両馬は離れなければ近づきもしない。
「どうした? もう逃げ場はないぞ!」
気づけば背後は枯れ川沿いの絶壁。
知らず知らずのうちに、灰色の人馬は危地に追い込まれてしまっていた。
「薄汚い精神術士め。最後に問おう……なぜ、危険を冒してまで将軍に近づいた? なぜ、皇帝陛下の生命を狙った?」
「理由に知りたいのか? そうだな、教えてやろう」
時間を稼ぐ。
男はこんなところで死ぬつもりはなかった。
ジグムンドの黒鎧は火魔法の防御に特化した仕様。
無理をすれば倒せないことはないが、男も無傷では済まない。
だが、ジグムンドごときと相打ちで倒れるわけにはいかない。
かといって、精神魔法の距離まで踏み込むのも至難の業だ。
(なにか、状況を打開する手立てはないものか……)
「ジグムンド。マルリッツという名に覚えはあるか?」
「八年前に滅んだ公爵家か? なるほど、キサマは滅んだ公爵家の縁の者か」
「『滅んだ』か……滅ぼしたとは言わないのか。まるで他人事だな」
ジグムンドの素っ気ない物言いに、男はムッとする。
(ダメだ。この程度で心が騒ぐようでは俺もまだまだだな)
「我々はアウグスト皇帝の命に従っただけ。攻略対象がたまたまマルリッツ公爵領だっただけだ」
「そうだな。アウグスト皇帝は、ザムエルという道具を使って公爵家を滅ぼした。俺は、皇帝の道具を奪って、皇帝を弑し奉ろうとして失敗した。俺よりも皇帝の方が玩具の扱いが上手かったということだな」
「キサマあっ!! ザムエル将軍に向かってなんということを!!!」
ジグムンドが激高する。
即座に斬りかからんばかりの勢い。
だが黒い鎧は足を止めたまま、ジグムンドの手綱には反応しない。
黒い巨馬は、一日のうちに二度も主人を失いたくないということか。
ただ頑強なだけの馬ではないようだ。
「呪われた魔導士め、下衆な挑発をしおって。黒い鎧、もう大丈夫だ。いま将軍の仇をとってやるからな」
ジグムンドが短弓をかまえる。絶体絶命の危機。
瞬時、空気が切り裂かれる音が聞こえる。
どうやら、男の認識の外から風魔法の使い手が不意を突いてきたようだ。