皇帝陛下の巡幸-6
ザクセン地方、混沌の大地。
戦場を駆ける灰色の槍が火魔法の攻撃を回避する。
灰色のローブ姿の男は手綱を捌く必要すらない。
敵の黒魔導士から距離をとり、灰色の槍は右に大きく迂回する。
男は【火槍連】を続けざまに放ち、反撃した。
だが、ふたたび、紅蓮の火球は黒魔道士が構築した【氷結壁】に阻まれる。
【氷結壁】はBレベルだが、魔法発動時間は極めて短かった。敵は相当な手練れだ。
【氷結壁】の消失と共に、火球の反撃が十数発、男に向かって飛来する。
灰色の槍は指示を待つことなく、すべての攻撃を右に左にかわした。
完璧な防御と完全なる回避の応酬を数度繰り返したのち、静穏が訪れる。
数瞬の間をおき、【火焔雷】ーー天から飛来する大火球が静寂を打ち破った。
Bレベルの【火焔雷】の威力は桁違いだが精度は悪い。戦略級の広範囲攻撃を封じるには、退避するより敵の懐に入りこむ方が良い。
むしろ、この展開は男にとって好都合だった。
男は手綱を操り、灰色の槍の進行方向を敵の黒魔道士に変更する。
頼もしき灰色の馬は躊躇することなく、一気に加速し、敵に肉薄した。
「はんっ! 【火槍連】を放つとは、キサマはCレベルの黒魔導士か? どうやらザムエル・ビドは用意周到に反乱を計画したようだな」
単身で敵陣深く侵入してきた黒魔道士が、不敵な笑みを浮かべながら聞いてくる。十シュリッド(約十メートル)の距離まで接近した灰色の人馬を少しも怖れない様子。なかなかに傲岸不遜な態度。『強心臓』のスキルでもあるのか、まさか『鋼精神』か。
「おい、キサマ。名はなんという。言え!」
重ねて、敵の黒魔導士が問いてくる。
完全に相手をみくびった口調だ。
「わたしはザムエル・ビド将軍の魔導士。それ以上でもそれ以下でもない」
男は答える。声音に恐れの色はない。
「ふんっ、名乗りたくないのか。まあいい、キサマに生き延びるチャンスを与えてやる。我が下僕になるか、それともここで死ぬか。好きな方を選べ!」
黒魔道士が勝ち誇った態度を示す。
男が憐れみを乞うと信じて疑わないようだ。
「ザムエル・ビドの企みは失敗に終わった。お前は運が良かったな。あと少し本隊を離れるのが遅かったら……」
『ぐっ、無念……』
突如、【念話】が男の頭のなかに響いた。Sレベルの精神魔法【隷属】が強制的に解除されたようだ。つまり、男の傀儡、ザムエル・ビド将軍が落命したということだ。
灰色のローブ姿の男は、乱戦状態となっていた主戦場を振り返る。
形勢は完全に逆転し、もはや包囲殲滅戦の様相。
戦と呼べる状況は、二刻(約二時間)ほどしか続かなかった。
侮ったつもりはないが、皇帝直属の精鋭兵はやはり強かった。
「キサマぁ! ひとの話を聞いているのか? 降伏すれば我が下僕にしてやるというのだ!」
敵の黒魔導士にあらためて問われる。
その顔をよく見なおすと、男が想像していたよりも若かった。
(ずいぶん若いな……現実の俺と似たようなものか)
敵の黒魔導士は、尊大な表情で、見下すような目で、男を見つめる。耐えがたい嫌悪感。男の背中に虫唾が走った。
(まあいい、ザムエル・ビドの戦死で傀儡の枠がひとつ空いた……お前の生命をよこせ。その力を利用してやる)
男は意識を集中し、Sレベルの精神魔法【隷属】をかける。
敵の黒魔道士は白目を剥き、身体を大きく震わせ、その場に崩れ落ちる。
数瞬ののち、ゆるゆると立ち上がった黒魔道士の顔からは傲慢な表情が消えていた。【隷属】は完璧にかかった。黒魔道士は拍子抜けするほど精神が弱い、驕慢なだけの若者だったようだ。
あらたな傀儡は澱んだ目を男に向けてくる。
男は命令を下す。
「アウグスト皇帝に会いに行け。そして生命を奪ってこい」
「皇帝陛下は怖ろしいお方、とてもではないが……」
「それがどうした。いいから行け、何度も言わせるな」
「わかった……」
従順になった黒魔道士を追い立てる。
あらたな傀儡が皇帝を弑逆できるとは、男には思えなかった。
ただ、自分が逃げ出す時間を稼いでくれればいいと、それだけを期待した。
◇◇◇
男は灰色の槍の手綱を捌き、敵兵の薄い北の方角に向かって駆ける。
ときおり、挑んでくる敵兵もいたが、風の如く駆ける灰色の馬に追いつける者はいなかった。
途中、薄汚れた格好で走る人びとを見かける。
皇帝陛下の巡幸に同行させられていた奴隷たちが、戦の混乱に乗じて逃げ出したようだ。
「お前たち、逃げるなら北だ! 北には深い森がある。森に住む民なら助けてくれる! 死ぬ気で走れ!」
男は叫びながら、幼い子どもを背負った母親に水袋を投げてやる。男にできるのはそれだけ。あとは自分たちの力で生き延びてもらうしかない。残念だが、今回の戦で、男が亡き父や母に誇れることがあるとすれば、この程度。皇帝陛下を弑し奉るのに比べ、なんと小さな成果か。
突如、灰色の槍が進む方角を東に変える。男の指示ではない。
男は手綱を引き、馬首を北に向けようとするが灰色の槍は言うことを聞かない。
「おい! 北に向かうんだ! 東にはまだ敵兵がいる。北へ向かえ!」
『否!』
誰のものかはわからない【念話】が男の頭のなかに響く。
灰色の槍は脚をさらに速める。
男は意に反して東に向かう羽目になった。