皇帝陛下の巡幸-3
アウグスト皇帝の隊列が、丘のふもとの涸れ川に近づく。
かつてダネル川と呼ばれた涸れ川に水はない。
ザクセン地方に実りをもたらした母なる大河は、いまや不毛な大地に刻まれた深い溝にすぎない。
深さ十シュリッド(約十メートル)、幅百シュリッドほどの涸れ川には、真新しい木製の橋が架かっている。皇帝陛下の巡幸にあわせて、ザムエル将軍が拵えさせたものだ。
帝国軍の隊列が橋を渡りはじめる。
先陣を切るのは数百の軽騎兵、黒い革鎧の兵が騎乗する脚の速い騎兵だ。続いて、重厚な甲冑をまとった重騎兵が百騎程度、二千ほどの歩兵、最後に輜重用の馬車が橋を渡る。
一個連隊に相当する三千人規模の渡河が二回繰り返されたのち、皇帝陛下の御身が収まる馬車が橋にさしかかる。帝国軍内部に潜ませた内通者からは、勇猛な皇帝は前軍に位置するのを好むとの情報だったが、まさに情報通りの隊列編成だ。
皇帝陛下の豪奢な馬車が橋を渡りはじめるのと同時に、ザムエル将軍が声を張り上げたーー作戦開始の合図だ。
「我が兵たちよ! アウグスト皇帝を称えよ! 神聖皇帝アウグスト・フォン・ガイデンブルグ陛下、万歳!」
「「「おおおーーッ! アウグスト陛下、万歳!!」」」
「「「皇帝陛下、万歳っ!!!」」」
ザムエル将軍に呼応し、旗下の兵士三千が一斉に声をあげる。
対して、皇帝陛下を守護する四万の軍勢も歓声に応えてくる。
「「「「おおおおおーーーーッ!!! アウグスト陛下、万歳っ!!!」」」」
怒号のような野太い声が、灼熱の大地にこだまする。
それは、涸れ川の底から一斉に放たれた火魔法の音がかき消されるほどの大歓声だった。
◇◇◇
火球の束が橋桁のひとつに集中する。
頑強に見えた新造の橋は、ただ一ヵ所の橋桁の損壊をきっかけに崩れはじめる。
事実、ズゥウウンッと大音量とともに橋全体が崩壊し、皇帝陛下の馬車も巻き込まれた。
「おおっ! 偽者を仕留めたか!?」
巻き上がる土煙に目をしばたかせながら、ザムエル将軍が興奮気味に叫ぶ。
傀儡を操る男は息を呑み、冷静に状況を観察しようとする。
「いえ……作戦は失敗に終わったかと。あちらをご覧ください」
将軍の右腕ジグムンドが、男よりも先に作戦の趨勢を見極め、喉から声を絞り出すように答える。
ジグムンドが指し示す先。涸れ川を渡河した軍勢、大混乱に陥った黒鎧の群れのなか。白馬にまたがった将兵がひとり、こちらを見上げている。
ぞくり。
視線が交わったわけでもないのに男の背筋が冷える。
同時に、尋常でない威圧感を覚えた。
「くっ……馬車に乗っていなかったのか」
ザムエル将軍が唇をかむ。
男の声の代弁者だ。
「将軍。涸れ川で分断したとはいえ、皇帝の偽者の周りには我が軍に倍する兵が残りました。ここは一旦引かれた方が宜しいかと……」
ジグムンドが将軍に進言する。
気鋭の将校はイチかバチかの賭けに気乗り薄な様子。
若くして副官に抜擢されただけはあり、ジグムンドの戦術眼は確かだ。
だが、男は、傀儡に選択肢を与えるつもりはない。
可能性が一パーセントでもある限り、命を賭けて戦ってもらうつもりだ。
無謀な挑戦がなんだというのだ。
皇帝襲撃に失敗したところで同士討ち。少なくとも帝国軍は弱体化する。
なんら困ることはない。
灰色のローブ姿の男は、将軍にAレベルの精神魔法【誘導】を重ねる。
ザムエル将軍の戦に躊躇する気持ちを薄れさせ、次いで、敵を木っ端微塵に粉砕した戦勝の記憶を思い出させた。
「……ジグムンド。なにをしておる。進軍だ! 出撃の準備を急げぇ!!」
<傲慢>になったザムエル・ビド将軍が吠える。
将軍の血走った目は、帝国軍の大軍勢を捉えているはず。
だが、澱んだ双眸には、四万の帝国兵は格好の標的にしか見えていないだろう。
「将軍!? 本気で仰っているのですか? 奇襲に失敗したいま、戦に勝利する可能性はございません!」
「ジグムンド! 臆したかぁ!! お前を剛の者だと思っていたがとんだ見込み違いだったぁ! それで我が副官とは聞いて呆れる! もうよい、下がれ! 誰かおらぬか! 我こそは戦人だと言う者はおらぬかぁ!!」
「なんと! 私を臆病者呼ばわりとは……わかりました、アウグスト皇帝を詐称する精神術士の首、私が奪ってご覧にいれましょう!!」
ザムエル将軍に、ジグムンドが一礼する。
巨漢の将軍に比べ、副官ジグムンドの身体はひとまわり小さい。が、羞恥と怒りに震える肉体は何倍にも大きく膨らんだように見えた。
「ブルーノ! 第五大隊は右翼に展開! ルーカス! 第六大隊は左翼だ! 両隊とも敵を寄せ付けるな! 本隊の中央突破の時間を稼げ! お前たちと次に会うのは天界だ!!」
「承知! 天界でお会いしましょう!」「おおっ! 天界で!」
ジグムンドの命を受け、騎馬の将ふたりが駆けていく。勇ましく、頼もしい戦人たち。だが許されざる業を背負った者たちが天界の門をくぐることはない。
(違う。お前たちの行先は天界ではない……地獄だ)
「本隊は私が指揮を執る! 重騎兵隊、騎乗せよ! 歩兵隊は魔導士どもを中心に密集隊形を取れ!」
ジグムンドが叫ぶように言う。
腹をくくった将軍副官の指示を受け、三千の兵が動きはじめる。
「全軍に告ぐ! 我らが狙うのはただひとり、アウグスト皇帝を詐称する精神術士、禁忌の魔導士だ! 敵は四万。勝利は皇帝の偽者を討ち取る以外にない! 進め! 兵どもぉ! おのれの強さを見せてみろぉおーーっ!!」
ジグムンドが声を張り上げる。
猛々しい檄に、配下の兵たちは即座に応じる。
「「「うおおぉおおーーーーーーッ!」」」
「「「殺せ! 殺せぇええーーーーッ!!」」」
兵たちの士気は高い。彼我の戦力差を気にもしていないようだ。
躊躇することなく、彼らが死地に赴くのはのはなぜか?
ザムエル将軍への忠誠心。
副将ジグムンドへの信頼。
あるいは単なる血への渇望か。
理由は何でもいい。
アウグスト皇帝の首さえ奪ってくれれば、それで良い。