皇帝陛下の巡幸-2
ザクセン地方、小高い丘の上。
男の傀儡となったザムエル・ビド将軍が演説をはじめる。
「兵たちよ。我が魔導士殿に失礼をするな。大事を前に気が高ぶるのはわかるが、我らが戦うべき相手は魔導士殿ではない……あやつらだ」
歴戦の老将軍は遥か彼方の荒野に視線を向ける。
鋭い眼差しの先にあるのは、帝国軍精鋭部隊の隊列ーー皇帝陛下を守護する四万の軍勢だ。
ザムエル将軍は、大地を蛇のように這い進む軍勢から視線を外し、配下の兵らに向きなおる。十倍を超える兵力差を意にかえさず、落ち着いた声で言葉を続ける。
「既に勅命は下った。アウグスト皇帝を詐称する精神術士を討伐するのだ。皇帝陛下の偽者さえ討ち取れば、兵らは正気に戻る。さあ、戦の準備をはじめよ」
「将軍。お言葉を返すようですが、ひとりの精神術士が四万もの兵を自儘に操るなど、本当に可能でしょうか? 私はいまでも信じられないのですが」
年嵩の諸将が口を閉ざすなか、若き副官ジグムンドが将軍に意見を述べる。
気鋭の青年将校は老将軍を恐れず、媚びもしない。
ザムエル将軍はジグムンドをギロリと睨みつけ、懐から封書を取り出す。
「もう一度言う。既に勅命は下ったのだ。疑うのであれば、好きなだけ勅書を調べるがよい」
ジグムンドは恭しく勅書を受け取り、すぐさま配下の文官や魔道士を呼び、真贋を鑑定させる。
「……皇帝陛下の刻印、側近たる軍務卿の署名、いずれも本物。申し訳ございません。私が間違っておりました」
勅書の鑑定はすぐに判明し、ジグムンドは己の誤りを潔く認めた。
「気にするな。慎重なお前が認めたからこそ、兵たちも信頼するというものだ。気が済んだのならば戦の準備をはじめてくれ」
ザムエル将軍が答える。
親子ほども年の離れた配下の非礼を咎めるそぶりはない。
副官のジグムンドは、ザムエル将軍に勅書を返す。同時に、灰色のローブ姿の男の方にちらりと視線を投げたが、その目にはもはや熱はこもっていなかった。
ジグムンドも眼下に迫る皇帝が偽者だと信じたようだーー正しい判断だ。
◇◇◇
将軍の右腕ジグムンドが配下の者らに命令を下す。
伝令の騎馬が次々と駆けていき、丘を覆う兵の群れが慌ただしく動きはじめる。
次第に黒鎧の兵たちの間に緊張感が高まってくるのが、男にもわかった。
「失礼ながら、我が魔導士殿のお名前は何でしたかな? どうにも記憶が定かではないのだ」
男の傀儡、ザムエル・ビド将軍が唐突に尋ねてくる。
それは幾度繰り返したか分からない問答。
「ザムエル将軍。名前など符丁にすぎません。わたしは将軍にお仕えする魔道士のひとり。それでよいではありませんか」
男は穏やかに答える。
「そうでしたな。我が魔道士のひとりだ。覚えておこう」
男の言葉を満足気に復唱しながら、ザムエル将軍が立ち去ろうとする。
今度は男が将軍を呼び止める。
「ザムエル将軍。皇帝陛下の勅書をお預かりいたしましょう」
「いや、いくら我が魔導士殿であっても勅書だけは……」
傀儡のザムエル将軍が、男の命令を拒絶しようとする。
男は感情を顔にあらわすことなく、Aレベルの精神魔法【誘導】をかけた。
わずかに逡巡する様子を見せたあと、<改心>したザムエル将軍が男に勅書を差し出してくる。
「大切な勅書を血で汚すわけにはいかない。我が魔導士殿に預かっていただくのが一番だ」
男は偽の勅書の回収に成功した。
皇帝側近に内通者がいる証拠を残すわけにはいかない。当然の処置だ。
(さすがは帝国の将軍だ。意に従わせるのに【隷属】だけでなく、【誘導】まで必要になるとは想定外だった。いや、俺の精神魔法がまだまだということか……)
相変わらず感情の色を見せることなく、男はそう考えた。