黒い森に生きる者たち-4
黒い森の夜が明ける。
10月末。晩秋の明け方はすっかり冷え込み、今年最初の霜柱が立つ朝になった。
ロア村で一番年寄りのゲルデは、この日も早起きした。
井戸水を汲みに家の外に出たゲルデは、パリパリと枯葉と霜柱をまとめて踏みつぶす音が近づいてくるのに気づいた。聞き耳を立てれば足を引きずる音も聞こえたはずだが、老女は自らの悲鳴でその音を聞き取れなかった。
「あ、あんた! しっかりおしよ!」
ゲルデは腰の痛みを忘れて、森からあらわれたケガ人のもとに駆け寄る。
背中に三本、右肩に一本矢が刺さった若者は、意識が朦朧としているのか、意味のある言葉を発することができない。
結局、若い男の代わりに老女が大声で助けを呼ぶはめになった。
「誰か! デュランを、デュランを呼んでおくれ! このままじゃあ、この男は死んじまうよ!」
それは黒い森にあらわれた「ならず者」が本気で牙をむいた最初の出来事だった。
◇◇◇
「傷口は塞がったし、脈も落ち着いた。けど、かなり血を失ってます。こればかりは俺ではなんとも……あとはしっかり栄養があるものをとって、ゆっくり休ませることですね」
デュランがCレベルの白魔法【術式治癒】で治癒した若者は、規則正しい寝息を立てている。顔に見覚えはあるが名前はわからない。
そう。老女ゲルデのベッドに横になる若者は、ラウム村出身で、三日前にマイアーとともに「ならず者」退治に出かけた男たちのひとりだった。
「デュランは相変わらず見事な腕前だねえ。ついでにあたしの腰も診ておくれよ」
「はは、いいですよ。けど、白魔法は所詮対症療法です。二、三日したらまた腰が痛みます。ゲルデ婆さんもいい年なんだから、あまり無理したらダメですよ」
「そしたらまたデュランに治してもらうさ。爺さんが死んじまってから、なんでもかんでもあたしひとりでやらなくちゃいけないからノンビリしてる暇はないんだよ! そのうえ、こんなケガ人まで抱え込んじまってさ!」
「……すみません」
ゲルデ婆さんの大声で意識が戻ったのか、治療を終えたばかりの若者が目を開け、申し訳なさそうに詫びを入れてくる。
ラウム村出身の男は懸命に体を起こそうとするが、家主のゲルデに押さえつけられてベッドに戻る。八十過ぎの老婆に力負けするようでは、彼が普通に起き上がれるようになるまで時間がかかりそうだ。
「あんたは休んでな! でも、カン違いするんじゃないよ! あたしはあんたに恩を売ってるだけなんだからね! 体が治ったら、たんと恩返ししてもらうよ!」
「……」
「ほらっ、シチューをお食べ。クミンの実をたっぷり入れておいたよ。動けるようになったら、このオンボロ小屋の修理をしてもらうからね! 屋根に穴は空いてるわ、壁は隙間風が通るわで、とてもじゃないけど冬を越せる気がしないんだよ。だからさ、早く元気になってくれなきゃ、あたしが困るんだよ!」
皺くちゃな顔を紅潮させながら、老女ゲルデがポンポンとまくし立てるように言う。相変わらず威勢がいい婆さんだ。素直でない物言いだが、優しい。本当に、ロア村の村びとは善良なひとばかりだ。
「すみません……」
「なんだい。矢傷だけじゃなくて、頭も強く打ったのかい? 同じ台詞ばかり言っちゃってさ。こういうときは『すみません』じゃなくて『いただきます』だろ? お代わりはいっぱいあるからさっさと食べな!」
ふたたび頭を下げた男の目には光るものがあった。
大ケガを負った若者ーーハンスという名の木こりーーが食事を終えるころ、ヨーゼフ・ビドル村長と村の自警団を率いるボリス・ニコがやって来た。ボリスは村中の男たちを叩き起こして警戒に当たらせてきたので、大汗をかいていた。
腹が満たされ、人心地ついたハンスが語った話はこうだ。
三日前、ロア村を出た討伐隊の一行はマイン村に向かった。
マイン村はロア村から馬車で一日半ほどの距離なので、一行は途中で野宿した。
野営の夜、森で仕留めた大きな鹿の肉が夕食に出されたが、仲間を士気を鼓舞するため、隊長格のマイアーは酒を振る舞った。半月以上敵に遭遇しなかったとはいえ、愚かな行為だ。実際、そのツケはすぐに払うことになった。
夜警の当番が眠り込んでしまったのか、起きていても酒の酔いで注意力が散漫になっていたのかは定かではないが、深夜、マイアー一行は襲撃を受けたという。
「俺は焚火のそばを離れて森の奥に用を足しに行ったんだ。で、みんなのところに戻ろうとしたら、野営地が襲われていて……」
そこから先、死に物狂いで逃げ、森のなかを二昼夜さまよったハンスの記憶は断片的だった。
かろうじて彼が覚えていたのは、襲撃した男たちは黒い革鎧を纏っていたことと、襲撃者が三十を越す人数だったことだ。
「三十!? マイアーの説明では、ならず者は十人だったはずだ!」
「ボリスよ、騒ぐでない。マイアーが敵を過小評価していただけかもしれぬし、あやつが見つけた野営跡が我らを油断させる罠だったかもしれぬ。よくよく考えれば、いままで襲撃を受けて逃げ延びた交易団の者はひとりもおらぬ。帝国の逃亡兵が十名だけとは考えにくいのではないかのう」
ヨーゼフ村長の説明に、デュランもボリスも納得する。
村の交易団は、馬の扱いに慣れた壮健な男たち数人から十数人で構成されていた。しかも地の利はアルムの民にある。いくら帝国の逃亡兵が戦闘に長けた者たちとはいえ、たった十人で交易団の者をひとりも逃さないのは難しいはずだ。
「ロア村は守りを固めたが、他の村は異変に気づいてはおらぬ。まずいのう……」
ヨーゼフ村長がつぶやく。
村長の声を聞き、横になっていたハンスがふたたび起き上がろうとする。
「俺の村が一番危ない! ラウム村は若い男連中が全員討伐隊に参加したんだ。村には弓を使える老人や女たちが僅かに残ってるだけで、とてもではないが……」
「あんた、動くんじゃないよ! そんな体でどうしようってんだい!」
「村に、ラウム村の仲間に知らせなきゃ!」
「ハンス、落ち着け。デュランはお前の矢傷を治したが、馬に乗れるようになるまで何日もかかる。だよな、デュラン?」
ボリス・ニコの冷静な言葉に、デュランは頷く。
同時に、マイアーでなくボリスが討伐隊の隊長だったら、こんな苦境に陥らなかったのではないかと想像し、帝国兵同様にマイアーを憎らしく思えた。
「ボリス、近隣の村に使いを送るのだ! 危険な任務になる、馬の扱いに長けた者を選ぶのじゃぞ」
ヨーゼフ・ビドル村長が硬い口調で指示を出す。
応じるボリス・ニコの表情は険しかった。
◇◇◇
「マイン村はベンノ、カインズ村はオイゲン、ノイス村はオリヴァ―、そしてラウム村はデュラン。道中、十分注意してくれ。特にデュラン、いま一番危険が迫っているのはラウム村だ。少しでも危険を感じたら逃げてくれ」
村の広場。村びと全員が集まったなかで、ボリスが言う。
デュランの同居人の少女、リア・ノアが口をきっと結んだまま彼を見つめている。リアなりに不安に耐えているようだ。
「わかってるよ。俺と灰色の髭の相性がいいのは知ってるだろ? 風のように駆ける灰色の髭は帝国兵の矢だって軽々と避けてくれるさ!」
デュランはボリスに答える。
むしろリア・ノアにも聞こえるように、軽い口調で大きな声で言った。
「デュラン、真面目に聞いてくれないか。友人としての助言ではなく、自警団の団長としての命令だ。少しでも危険を感じたら逃げろ……必ず生きて帰ってくれ」
ボリスが言葉を繰り返す。不安そうな表情。本音では、華奢な体つきで、碌に剣も弓も扱えない親友を危地に赴かせたくないのだろう。だが、村で一番速く馬を駆けさせるのはデュランだ。そう認めたからこそ、友はデュランを選んだはず。情に流されることなく、正しい判断を下した。立派な指揮官だ。
「ボリス、分かったよ。帝国兵の姿を見かけたらすぐに引き返す」
デュランは、笑みを浮かべながら嘘をつく。
ボリス・ニコは、ほっとした表情で頷いた。
同時に、リア・ノアの表情もいくぶん和らいように見えた。
「灰色の髭。デュランのこと、お願いね」
リアが灰色の髭ーー灰色の槍の顔を優しくなでながら言う。リア本人はいたって大真面目だ。まるで、灰色の馬が言葉を理解できるものと知っているかのようだった。
「リア。俺が留守の間はヨーゼフ村長の家でも行っててくれ……ミリアさん。リアのことを頼みます」
「わかったわ、デュランも気をつけてね」
ヨーゼフ村長の孫娘、ミリア・ビドルにリアを託す。
ミリアは気立てのいい娘で、幼くして両親を亡くしてから祖父のヨーゼフ村長とふたり暮らし。デュランの親友ボリス・ニコの恋人でもある。年が明ければ、ボリス・ニコとミリアは一緒になる予定。ふたりのためにも、森に訪れた脅威は除きたい。
「リアが作った薬を十本ばかり持ってきてくれないかな? 役に立つかもしれない」
「うん、わかったぁー!」
リアが駆けだす。
自分にもできることがあると分かり、うれしいようだ。
デュランは親友ボリスに、同居人の少女リアに、優しき村びとに偽りの約束をした。
帝国兵の姿を見ても、彼は逃げるつもりなどない。
その逆だ。
そうとも。奴らが黒い森にいる限り、村に安寧の日は訪れない。
帝国兵は森から排除するーーひとりたりとも逃しはしない。




