黒い森に生きる者たち-2
「逃亡兵、ですか?」
「二月前の戦で敗れた兵が黒い森に逃げ込んだ。そやつらも、武器を捨て、穏やかな生活を受け入れたのならばよかったのじゃがのう……」
ヨーゼフ村長の説明では、ここ数日、他村の交易団が続けざまに行方不明になったという。馬車ごと消えた状況から、森に住まう獣たちの仕業とは考えにくいらしい。つまり、アルムの民ではない人間が襲撃したのだ。行方不明となった者たちと同じく、交易に出ていた友人のボリス・ニコたちが無事に帰ってきたのは、不幸中の幸いだ。
いや、ボリスたちが単純に運が良かったとは考えにくい。
もしかして……
「村の交易団が森で不審なものを見たかもしれません。話を聞いてきます!」
「わしは自警団の編成を考えておる。わしもあとでボリスと話をしよう」
「いえ、俺が話を聞くのはボリスではなく……」
「あやつは交易団のリーダーだぞ? 他の誰に話を聞くのだ?」
デュランはヨーゼフ村長に返答せずに、外に飛び出す。目的地は誰かの住まいではなく、村で共同管理している馬小屋。話を聞く相手は、頼もしき相棒「灰色の槍」だ。灰色の槍が人語を理解することはヨーゼフ村長にも秘密にしている。デュランと灰色の槍の間で交わした約束事だ。
◇◇◇
『少年。来ると思っていたぞ』
デュランが簡素な馬小屋に着くと、灰色の槍が【念話】を飛ばしてくる。
同じ馬小屋にいる五頭の馬ーーそのうち一頭は腹に子どもを宿した牝馬ーーは、灰色の槍から距離を置いている。頼もしき灰色の馬は、人間の目にはどこにでもいる農耕馬にしか見えなくても、同じ馬には異質な存在だと認識されているようだ。
「灰色の槍、教えてくれ。森に常と異なる様子はなかったか?」
『あった。この村の連中は驚くほど鈍い。よく生き延びてこられたものだな』
灰色の槍が呆れたように答えながら、ため息をつくようにブルルと鼻を鳴らす。勢いよく吐き出された息で、リア・ノアが「灰色の髭」と名付けるきっかけとなった長いあご髭がブワッと揺れた。
「森でなにがあった?」
『交易団の馬車は獣除けの鈴を鳴らしながら走る。だが、赤熊の大洞穴の近くを通りかかったときだけ、逃げ出す獣が一匹もいなかった。意味がわかるか?』
「大洞穴の周辺には獣がいなかった。いや、獣が恐れる存在がそこにいたんだな。つまり、武器を持った人間……待ち伏せか」
『その通り』
赤熊の大洞穴は、かつて赤毛の大熊が冬眠に使っていた洞窟。入り口は狭いが奥行きがどれほど広がっているか誰も知らない。そこは黒い森に点在するどの村からも離れていて、特に人気のない場所のひとつだ。
大洞穴近くで危険を察知した灰色の槍は、馭者が制止するのを無視して、危地を一気に駆け抜けたそうだ。他の馬たちにも同様に全力疾走させたとも。襲撃を回避するためとはいえ、風のごとく駆ける灰色の槍と併走せざるを得なかった馬たちはさぞや大変だったことだろう。
「デュラン、ここにいた! 薬作り終わったよー!」
灰色の槍から一通り話を聞き終えたところで、馬小屋の外から耳慣れた声が聞こえてきた。リア・ノアだ。デュランに代わって鎮痛薬を作っていたリアが、作業を終えて、彼を探しに来たようだ。
「もう薬作りが終わったのか? ゼムの実は相当あったはずだぞ?」
「んー、でもぜんぶ使っちゃったよ。はい、これ。確認してー!」
デュランは、リア・ノアから薬を一瓶受け取る。瓶の蓋を開け、手のひらに一滴垂らし、舐めてみる。
「デュラン、どう? 鎮痛薬はちゃんとできてる?」
「いや、これは……」
デュランは、言葉を濁す。
否、濁さざるを得なかった。
リア・ノアに手渡された薬が鎮痛薬ではなかったからだ。
病気やケガの治療薬は、天然素材から調製した「薬」と、天然素材の調製品にさらに白魔法を注ぎ込んで調合される「薬」に明確に区別される。
そして薬師とは薬を調合できる者を指す。
今回、薬師見習いのリア・ノアが調合した薬は、鎮痛薬の上位に当たる麻酔薬だった。
対して、白魔法がCレベルのデュランは、鎮痛薬までしか調合できない。
つまり、リアは彼を上回る能力者。
少なくともBレベル以上の白魔法の術者ということだ。
『驚いたな。先日の戦で帝国兵が嬢ちゃんの身柄の確保に躍起だったのは、この力のせいか』
「そうかもしれない」
デュランは詳しい説明を避け、ひとり言のように呟く。灰色の槍との会話は、誰もいないところでするつもりだ。たとえリア・ノアであっても聞かせられない。
「どう? 鎮痛薬はできてる? それとも、わたし、失敗しちゃった?」
リア・ノアが不安そうな表情を浮かべながら、再度尋ねてくる。
できれば彼女の努力を認めてやりたいが、デュランは正直に答えざるをえない。
「残念だけど失敗だ。魔力注入の調整法を練習しないといけないな」
「ごめんなさい……わたし、ゼムの実をぜんぶダメにしちゃったね」
「気にするな。また一緒に採りに行こう。灰色の髭の背中いっぱいになるまで採ろうな」
「うん、わかった! でも灰色の髭はお爺ちゃん馬だから、あんまりたくさん持たせたらかわいそう。わたしがはんぶん持ってあげるからね!」
輝く笑顔を取り戻したリア・ノアが、灰色の槍の顔を優しくなでる。
心優しき灰色の馬はブルッと軽く鼻を鳴らし、リアの気持ちに応える。
灰色の槍は、灰色の髭の呼称同様、リアに年寄り扱いされるのにもすっかり慣れたようだ。
母を亡くし、帝国の魔道具の拘束から解放されてから二月あまり。村びとの優しさのみならず、お気に入りの灰色の髭の存在は少女にとって心の支えなのは違いない。
「で、この薬はどれくらいできたんだ?」
「んー、この瓶で百本ぶんくらいかな?」
リア・ノアが無造作に答える。
デュランは驚きの表情を懸命に押し隠した。
『なんと! 嬢ちゃんは、Bレベル相当の薬をこの短い時間に百本も……』
灰色の槍の【念話】がデュランの頭に響く。
灰色の槍としても、思わず漏れた言葉だろうが、正直、デュランも同感だった。
リア本人に自覚はないようだが、白魔法に限れば彼女の能力はデュランよりも上なのはわかった。いずれにしろ、Bレベルの白魔導士であれば、貴族や大商人が礼を尽くして招こうとしてもおかしくない。もちろん、利用価値が高いからだ。
かろうじて記憶にあった生年から、リア・ノアがデュランよりふたつ年下なのは分かっている。けれど、魔道具で拘束されていたせいか、リアはここ数年の記憶があやふやで、ときおり幼児のように振る舞うことも多い。とてもではないが、このまま世間に出すわけにはいかない。デュラン同様、能力を隠す術を身につけさせなくてはならない。
行きがかり上、デュランはリア・ノアと一緒に暮らすことになったが、単に世話をするだけではすまないようだ。




