ポラロイド
自慢する気はないけれど、
まだ若かった頃わたしのセカイはイイ感じだった。
ひとつ年上の、
柄本センパイ
と同じセカイにいられたから。
雨の日以外の昼休み、センパイはだいたい校舎の屋上にいた。
「由良」
「はい」
「こないだ、心配してた物理のテストだけど」
「あ、はい」
「由良の予想したとおり87点だった」
「当たっちゃいました?」
「的中。物理だけじゃない。国語91、数学63、英語88、ほかみんな点数がズバリ」
「わたし直感が鋭いンですかね」
わたしはアハハと笑ってごまかした。
また別の日、屋上で、
「お、由良」
「あ、センパイ。偶然ですね」
「こないだ言ってた、ファンクラブ会員の限定ライヴ。チケットの抽選当たったわ」
「でしょう!」
とわたしは思わず跳ねたけど、慌てて、あ、そうなんですね、とクールを装った。
「アツかったよ~、クラブチッタ。あ、しかも帰りに百円拾ったし」
「わ、また当たり」
「そ。やっぱ由良の予想力、スゲー」
センパイはわたしが期待していた笑みを見せてくれた。
ある日の昼休みは、大雨だった。
「お、由良」
「あっ、センパイ。これ、ハンカチ。落としもの。廊下で拾って」
「おぉ、アリガト。由良も落としもの」
「え」
「それ」
センパイの視線がわたしの足もとに向いていた。見ると、白くて四角いものが落ちている。
「写真?」
「や、ちがいます」
慌てて拾い、ポケットに隠した。
センパイは言う。
「よくわかるね、ボクがここにいること」
図書室のはしにある資料室だ。書棚にかこまれ、図書室にある本よりも古いものが並んでいる。
わたしが返事をためらっていると、
「そっか。由良の直感力ハンパないんだもんね。もしかしてエスパー?」
わたしは目を伏せた。
「そうだ、予想できる?《カッコーの巣の上で》っていう昔の小説を探してるんだけど、ここにあるかなあ?ネットで売り切れてて」
「えと、そこに」
「ここ?」
「そうです。その右はし」
「え~、ないよ」
と、わたしは大げさにガッカリしてみせた。
「違いましたかぁ、ウアア、ゴメンなさい」
するとセンパイはくすっと笑い、
「ハズレたね」
「そりゃハズレるときもありますよ。わたし、エスパーじゃないですから」
「そっか。でも安心した、由良も同じ人間で」
そんなことばがききたかったんだ。
エスパー的な女子に見られて距離をとられたらたまらない。
またべつの意味でも安心した。さっき落としたものが写真だとバレなくてよかった。そこには資料室で本を探す柄本センパイのすがたが写っているから。
「由良。今度の日曜、ヒマ?」
「え」
「よかったら遊びいこっか?」
「はい」
あくまでクールに答えたけれど、
(OK !ヤッホー!)
と叫びたいキモチ。
やはり、わたしのセカイはイイ感じだった。
その夜、あたしはじぶんの部屋でうれしさに浸った。
意外だ、
部活の疲れもなんのその、宿題もはかどり、ふだんはそれほど楽しんではいないラジオ番組が弾みを含んできこえてくる。
おかげさまです柄本センパイ、と言いたい。
センパイから届いた初メールを何度も読み返した。登録おねがいします、というカンタンな文面が映えている。力をもらう。
おフロから出て牛乳を飲んでいたら、母がきて妙なことを言った。
「由良、レニちゃんって覚えてる?」
すぐには思い出せなかった。
けれど、
「須賀川の」
ときいて栃木の須賀川市に住んでいる親戚の子だと思い出した。
三村玲二
わたしと玲二ちゃんは同い年だ。
「そ。須賀川の三村さんから電話があって。なんでも玲二ちゃん、由良にすごく会いたがってるンだって」
そんなこと言われても玲二ちゃんをあまり覚えていなかった。
小学生1、2年生の頃、わたしたち家族は須賀川市に住んでいた。わたしは玲二ちゃんとよく遊んでいた。でも父の仕事上の都合で神奈川県に引っ越してからは、ぜんぜん会っていない。
わたしの家族も三村家とできるだけ距離を置いている。それは大人の事情だからと母はうやむやにするけど、ときおり三村家から電話があり、オカネの無心をされているようだ。
「会わないってキッパリ断ったから」
と母は言い、三村家が面倒だとぶつぶつ言った。
「玲二ちゃん、どうして会いたいの?」
「知らない。寂しいんじゃないの。きいたけど教えられないって」
深夜、わたしは布団に入ると柄本センパイのことを想った。
だんだんと怖くなってきた。
《センパイとの初デート、うまくいくかな》
《センパイをガッカリさせてしまうかも》
わたしの中の打算が勝手に膨らんでいるのを感じク・ル・シ・イ。
家族はみな寝ている。
わたしはサンダルをひっかけて庭に行った。
ペットボトルの水にタオル、懐中電灯、そして、
《eo》
というモノをもって。
これからeoとのセッションがはじまる。
セッションはいつでもどこでもできるけど、家でするときにはだいたい深夜帯を選んでいた。静けさがわたしの集中力を高めてくれるから。
セッションが終わったとき、わたしは芝生の上に横たわっていた。
けれど安堵の笑みを浮かべた。
《デート、うまくいくんだな……》
つぎの日曜日がきた。
下北沢駅の改札前で待ち合わせ。南口の階段を下りると、きらめく日射しがわたしと柄本センパイを迎えた。
スイカの季節はまもなくだ。
ショッピングをしようと決まった。
細くてひとが溢れる道をゆっくり歩き、帽子屋、古着屋、雑貨屋をめぐった。
多種類の商品を手にとっては、それぞれの部活のことや進路のことからはじまり、好きなミュージックやスマホゲームの話をした。
なんていうこともない会話だし、カンケイないひとにとっては雑音にすぎないのだろう。けれどセンパイはわたしの話をちゃんと聞いてくれた。わたしのペースに合わせてくれた。
それがホントに嬉しかった。
正午過ぎに、妙なことがあった。
わたしたちは喫茶に入り会話のつづきを楽しんでいた。
「由良って強いよね。みるとだいたい独りだし」
「友達つくるの、怖いだけです」
「ボクもしりあいはいるけど友達っていない。親友の良さとかわかんない」
「いないけどいないなりに頑張るしかないですね」
「そ。いないなりに」
「あの、センパイは将来やりたいことあるんですか」
「まだこれといっては。とりあえず明大に合格したら考えよかな、って。ヤバい?ノンキ?」
「イイと思います」
「ちょっと不安だけどね、受験。受かるかどうか」
「受かりますよ」
センパイの表情が少し曇った。
「ときどき、大丈夫かな、ってイライラして眠れないときあるもん。あ、由良、受かるかどうか予想できないかな?」
わたしは期待に応えたかった。
ちょっとトイレと断り、バッグを持って席を立った。
(センパイを待たせたくない。
あまり時間はかけられない。
集中、集中だ)
そうじぶんに言いきかせ、トイレの個室に入る。 急いでバッグから《eo》を取りだし、ベンザの前に立つ。
こうしてeoとのセッションがはじまった。
●
ヤバい!
セッションを終えるのにけっこうな時間がかかってしまった。
個室から出て洗面台の鏡の前にいき、タオルで顔の汗をすばやく拭きとった。入口のドアをあけて、柄本センパイのテーブル席へ急ぐ。
イイ顔しないだろうな、
とにかく謝ろう、と気を張った。
けどセンパイは別の意味でイイ顔をしていなかった。
「あー、由良がいなくなってからタイヘンだった」
「えっ」
「あの、へんなおばさんにからまれて」
そう言ってセンパイは喫茶の外を見た。はす向かいのコインランドリーのそばに電柱がある。その陰に中年の女性が立っていた。年相応の服装で、髪には白いものがまじっている。
女性はウサン臭げにこちらを見ていた。
センパイは言った。
「とつぜんここにきて。ボクにいろいろきくんだ。あのひと由良のしりあい?」
わたしは首をふった。
「ふうん、由良のこともきかれたから」
あたしのことを?
話をきこうと、わたしは表に出た。すると女性は逃げてしまった。
「由良とどういうカンケイかとか、同級生かとか。あー怖かった。心で、由良早くきてーって祈ったもん」
と、センパイは苦笑いした。
こんなことはあったけれど、帰りの電車のなかでまた雑談するうちに、楽しい気分がもどってきた。センパイもおばさんのことはもう気にしていないようだった。
「受験、受かりますよ」
「おぉ、自信あり?」
「あり」
わたしはキッパリと言った。
夕暮れどき、新百合ヶ丘駅で、わたしは電車を降りた。センパイとまた遊ぶ約束をしたから満足だ。
小田急線のドアが閉まり、車内からわたしを見るセンパイがゆっくりと動き出す。
その温かな笑みを、わたしは以前に見ていてしっていた。
《eo》のおかげだった。
●
8月上旬を迎えるまでに柄本センパイとデートを重ねた。
怖い映画を観に行き、お気に入りのバンドのライヴを浴び、夕暮れの公園で手をつないでそよ風を感じた。
電話で延々とオシャベリする楽しみ。スマホのバッテリーが途中できれて、慌てて充電器のプラグを繋ぐ。
互いに沈黙してどちらが先に笑い出すか我慢する楽しみ。たいていはわたしが負けてしまう。
そんな細々したことほど新鮮だった。
ある時センパイはわたしの顔をまじまじと見て、
「由良、なんか成長した?」
ときいた。大人びてきた、と。
それはわたしが《eo》を使ったからだった。
センパイはときどきわたしの予想を当てにしてきた。親からお小遣いをいくらもらえるか、擦り傷がすぐ治るか、そんなこまかいことを。
わたしはぜんぶ許せた。当てにされるたびにeoとのセッションをした。そしてセンパイに真実を告げた。
●
お盆前の正午だった。
陽射しが強く、暑熱に満ちていた。
近所のコンビニからひとり出ると、
「由良ちゃん」
と、背後からわたしを呼ぶ暗い声がした。
だれだろう……
直感で怖くなった。
そのまま歩き去ろうとしたら、
「由良ちゃん」
思わずわたしは振り返った。相手はダレなのかすぐに思い出せた。下北沢駅で柄本センパイにからんできた中年の女性だ。
女性はハニカミながら言った。
「あたし、玲二だよ」
●
「ほんとうに玲二ちゃんなんだ……」
そう納得するまでに時間はかからなかった。
決め手はカノジョが一枚の写真を見せてくれたからだった。
小学生のわたしと玲二ちゃんが手をつないで祭を見ているヒトコマ。
わたしと玲二ちゃんはファーストフード店の2階にいた。17時をまわった。
「なかなか話しかけられなかった」
と玲二ちゃんは言う。
その外見は、須賀川の時代からはほど遠い。
これでわたしと同い年だなんて……
「ときどき、由良ちゃんの様子を見にきてたんだけど確信がもてなくて。でも、今日の由良ちゃんを見たらその気になった。写真撮っているんでしょう」
わたしはハッとした。《eo》を思い浮かべる。
「ママからちょっときいたの。由良ちゃんがいま写真に凝っている、って。それでいやな予感がして、どうしても警告したくて」
「警告……」
「由良ちゃん、撮るのはもうやめたほうがいい。
あたしはやめたよ。まあ聞いて。あたしもね、撮ることができるの。あたしにも好きなひとがいてさ。片想い。振り向いてほしくて撮るのを繰り返したら、ごらんの通りおばさんだよ」
わたし、唖然としてことばが出なかった。
「どうして撮れるのか、あたしにはわからない。きっと由良ちゃんにもわからないと思う。あたしたちは親戚だから同じことができるのかもしれないね。ただこれだけはハッキリ言える。もうやめたほうがいい」
tired
玲二ちゃんは別れ際にこうきいた。
「カメラに名前をつけたんだ……なんて名前?」
「eo」
「エオ……」
「エモトオトヒコ。スキなひとのイニシャル」
わざわざ神奈川まできてくれた玲二ちゃん……
わたしは申しわけないキモチになる。月並みなお礼を繰り返すことしかできない。
新百合ヶ丘駅。
改札の奥に向かう玲二ちゃんの背中に、わたしは寂しさを見た。
玲二ちゃんの将来を想像するのは怖い。
もう、カノジョとは会わないだろう。
●
その夜、
センパイに電話する気にはなれなかった。
布団に入り微弱に光るランプの橙を眺めていた。
と、棚にあるスマホが震えた。
名前を見たら、センパイだった。
電話に出る。
「由良、予想してほしいな」
「ウン」
「スマホのイヤホンをなくしちゃって」
「ウン……」
「部屋に置いたハズなんだけど、どこにもなくて。わからない?」
冗談まじりの声だった。
「……センパイ」わたしの声は沈んでいた。
「ハイハイ」
「……見つけたら、正式にわたしと付き合って」
センパイの静かな笑い声が届いた。
「いいよ」
「じゃ、ちょっと待ってて」
わたしは電話をきった。
家族はみな寝ている。あたしはサンダルをひっかけて庭に向かった。ペットボトルの水にタオル、懐中電灯、そしてポラロイドカメラをもって。
これから《eo》とのセッションがはじまる。
わたしがセンパイに近づけるようになったのは、eoのおかげだ。
eoとの出逢いは物置小屋だった。年末の大掃除の最中に見つけた。
家族のだれもがeoに心当たりがなかった。へえそんなのあったんだ、というくらいの興味しか示さなかった。
フィルムとのセットで眠っていたから、わたしは気ままに撮影を楽しんだ。フィルムは市販のものでいつでも買える。
念写ができると知ったキッカケは、柄本センパイの存在だ。
センパイとほとんど接点がなく、声をかけられなかった当時、もんもんとしていたわたしは狂いそうだった。
そんなときにシャッターを切ったら、希望のドアが開いたのだ。
はじめは恐る恐る、けれどだんだんとシャッターを切る回数を増やした。そのたびに疲弊の代償を払ったけれど止められなかった。
だって、センパイのことを写せるンだもの。過去現在未来、センパイにまつわることなら何だって。
そのほかのものは念写できなかった。
例えばわたしの今後の進路、家族のこと、あすの天気などを念じてシャッターを切ってみても、フィルムに表れるのは目の前の風景そのままだった。あたしの念が弱いのか、eoのからくりなのかいまもってわからない。
スマートフォンのカメラや父の一眼レフで念写をこころみたけれどできなかった。
eoという存在とわたしの恋心があってはじめて柄本センパイを写せる。役割のはんぶんこ。
―わたしは庭にきた。
芝生の上に立って目をとじ、静けさに耳をすます。
《センパイがなくしたイヤホンはどこ?》
その文句をひたすら念じ、ここだという時にシャッターを切った。
とたん疲労感がどっと押し寄せ、その場にへたりこんだ。
死んじゃうのでは、と思うくらいに息がきれた。脈動が早まり、不快な耳鳴りが脳をつんざく。視界明滅してカラダじゅうから汗が吹き出す。
胃もよじれてしまう。吐く音で家族を起こさないよう、手探りでつかんだタオルを口に当てた。
ここはふんばり時、回復するまで待つしかない。
ずいぶん時間がたって、あたしは少しだけラクになった。
芝生に横になっていた。
そのまま懐中電灯を使って、撮った写真を照らす。
そこにはバッグの中を見て楽しげに笑うセンパイのすがたが写っていた。
(バッグの中か……)
セッション終わり。
念写をするとほんとうに死にかけてしまう。
そして薄々わかっていたけど、玲二ちゃんに会ったことで確信していた。念写をするたびにかなり年をとってしまうのだと。
念写ができるなら、センパイとの恋の行方を写したらどう?
そんなふうに言われるかもしれない。
けど、わたしは即答するだろう。
そんなこと怖くてできっこない、と。
これからも念写をするか、
これっきりでやめようか、
わたしは決められなかった。
「あったよ。バッグのなかだ」
と、電話の向こうでセンパイは喜んだ。
「よかった」
「ありがと。見つけてくれるって信じてた。これで正式に恋人どうしだ」
わたしはもやもやする心で、
「よろしく」
と言った。
「ウン。よろしくドウゾ」
もうすぐ午前4時だ。
「あさってから兄貴とキャンプだ」
「楽しんでね」
「ウン、お盆が過ぎたらまた会おう」
heavy rain
3日目の朝だった。
ウチのリビングにわたしは茫然と立っていた。
表から届いてくる激しい雨音のなか、
(まさか)
と思って。
(センパイが行方不明?)
母はテレビを観ながら、
「こんな雨の中、川でキャンプなんかするから。警報をあなどるなかれ」
と他人事だ。
けれど行方不明者の顔写真―センパイとセンパイのお兄さんが映ると、あら由良のセンパイのじゃないの、と身をのりだした。母はわたしたちが付き合っていることを知らない。
暴風雨は神奈川県の全域を襲い、勢いはおさまらなかった。センパイたちがキャンプしていた川は荒れ狂い、映像から不吉さが伝わってくる。
水難救助は難航しセンパイたちは見つからなかった。
わたしは二階の部屋に駆け上がった。
心臓の早鐘と不規則な呼吸に縛られながら、センパイに電話した。
応えはなかった。
スマホを持って階段をおり、リビングに急ぐ。
母がチャンネルを変えようとしていた。わたしはリモコンを奪った。テレビの前に陣取ると、画面を確認した。目撃情報提供先のナンバーが映っている。わたしはそれを電話帳に登録した。怯えた指がいうことをきかず、三度もしくじった。
ようやく済むと、また二階に駆け上がった。
(やるしかないんだ!)
決意のような、開き直りのような曖昧な念をもってeoを手にとり、バッグに入れた。予備のフィルムも突っ込んだ。
傘をさして表に出る。横殴りの雨が容赦なく向かってきた。こんなの弾いてやる、とばかりわたしは強気に足を早めた。
ウチから徒歩で10分。しなやかな木々や安らぐ芝生が生きている公園に着いた。
ひとけはなかった。
ありがたい、と、この一瞬に一瞬だけ感謝した。
隅に佇むカゼボに入り、木製のベンチに座る。そこに立て掛けた傘が地に落ちても、拾わなかった。
バッグからeoを取り出した。両手におさめ、瞼をとじる。
わたしは期待した。このとめどない雨音の激しさが、集中力を高めてくれるだろうと。
不安や恐怖のかけらがつぎつぎと湧いてきた。とらわれないように、深い呼吸のリズムに寄り添う。
熱い鼓動が落ち着いてきた。
わたしはわたしの胸に力いっぱい念じた。
《センパイはいま、どこ?》
繰り返し、繰り返し。
シャッターを切ったら、これまで以上の悶絶が待っているのは分かっていた。
それでもよかった……
●
黒一色の中で、まず気づいたのはことばだった。
「おばさんっ、おばさんっ」
慎重で、怯えたような調子だった。
声の向こうに激しい雨音もきこえた。
黒は白色の霞みにとって代わり、そのうち現実の輪郭がくっきりしてきた。
若い男のひとの顔があった。
くねった黒髪や鼻筋が濡れ、水滴を滴らせている。
「おばさんっ、大丈夫?」
険しい顔で、わたしを見据えていた。
(そうだ……)
わたしはそもそもなぜここにいて仰向けになっているかを思い出した。
(電話しなきゃ)
「スマホ……スマホ……わたしの……」
とうめき、右の掌で砂利の地面を探る。
男のひとが片方の眉をあげた。視界から消えた。
かと思うと、右手が勝手に浮き上がり、掌にひんやりしたモノが当たるのを感じた。
スマホだ。
わたしは握った。
(小屋、小屋だ)
非力に鞭をうってスマホを操作し、目的の相手に繋げた。
―いま、柄本センパイとお兄さんは川から離れた場所にある小屋にいます。まったくの無事です。小屋の窓の向こうから《熊に注意!》の看板が見えます。
それを伝えるのに、どれだけ長い時間がかかったことだろう。
それでも目的は果たせた。
とたん、右手をぐったり地面につけた。
まわりにはeoで撮ったフィルムが何枚も散らばっている。センパイの居場所がはっきり分かる写真が撮れるまで、休みなく念写を繰り返したから。
「おばさんっ、救急車呼んだよっ」
と男のひとが言った。高校生に見えた。
(おばさん、か……
わたし、人生のはんぶんをここで使ってしまったんだな。
けど、まあいいか。センパイが助かるなら)
センパイとの日々を思い起こした。じぶんの中心に少しずつ温かみが戻ってくるような気がする。
(センパイ、生きててよかったね。
わたし、それだけでじゅうぶん)
雨音が優しくなっていく。
わたしは安心して眠りに落ちた。
(終)