おまけ① 「序」
本来は、この物語の冒頭につけるべき文章でしたが、堅苦しいので最後に持ってきました。
この物語のテーマ性を、少し深く理解して頂けると思いますよ。
序
僕の生まれた町には、何時も気持ちのいい西風が吹いていた。小さな町で、なだらかな山脈や川に囲まれ、休日の昼間でも長閑だった。軒並みは殆どが二階建てだが、小道や横丁を影で覆うには充分の高さで、道沿いの窓から顔を出すと、髪を絡ませる淡い西風の中に、僅かな人々のたゆたいを覗く事が出来た。町の中心は小さな広場になっており、噴水が、機能している所は見たことがないが、在していた。昼下がりのひと時、人々は仕事の合間にその煉瓦張りの広場で憩い、陽の傾きが目立ってくるまで仕事に戻る者は少なかった。夏の暑い日、陽の体温を吸収した煉瓦の上を裸足で歩けずに噴水の水溜に湛えられた、透き通った水に浸しながら、昼間にだけ決まって現れる露店商の呼び込み声を意識の奥深くで響かせていたのを覚えている。僕は余程の用事がない限り金を持って外出しない性質だったので、そういった露店でなにか買物をしたという記憶はない。が、一つだけ、露店に関して、強く記憶に留めている事柄がある。
七つか八つの頃だった。当時、何故だか僕の年代の少年達の間で、町の東の川を上流にずっと登っていったところでダイヤモンドを採掘できる、という噂が流れた。大人たちは多分そんな噂は知らなかったし、知っていても信用しなかった。この噂は、少年達だけの秘密となった。そして、何人かの少年達が新しい宝物を獲得すべく、幼い脚で踏ん張って、川を上流へと登っていった。実際、その噂を耳にしてから数ヶ月の間に、町の少年達の半数以上が、といっても同年代の少年は数えられる範囲内しかいなかったが、その期待と好奇心とを瞳の中で輝かせ、川を登っていった。然し、夕方頃に帰ってくる少年達の顔が明るかった事は一度もなく、時にはそれは演技で本当は発見したけれど秘密にしているのではないかとも思ったが、実際にダイヤモンドを発見した、という話は聞かなかった。僕もその冒険に興味は充分に持っていたが、ついに実行に移す事はなく、傍観しているうちにその噂は人口からはぐれた。
それから数ヶ月して、僕は、広場に新しい露店の来ているのを見つけた。暗い紫色の天幕が珍しく、普段は露店には目もくれないのだが、人が全く寄り付いていないのも魅力に思え、僕はその露店商の前に立ち、商品を眺めた。それは、石売りだった。鉱石売り。柔らかそうな紫色の布の上に丁寧に置かれた石は環境光により繊細に輝き、僕の目を眩ました。商品数は随分少なかったが、当時の僕でも、その中に磨かれたトルコ石や慎重に切り出されたダイヤモンドがあるのが解った。露店商は、見ると長い白髭の老人で、僕が興味深そうに石を眺めていると、何本か抜けた歯の並びを見せて微笑み、手にとって見る事を許可してくれた。僕は期待に喉を詰まらせながら、ダイヤモンドを手に取った。実に小さく切り出された物ではあったが、輝きは僕を満足させるに充分で、見る角度によって色が変わったりするのには、非常に心をくすぐられた。甘美だった。同年代の少年が想像の中でしか輝かせる事の出来なかった宝石が、自分の手の中で、恐らく彼等の想像以上の美しさで、瞬いているのだ。
随分時間が経ってからだった。僕は不意に、露店商の老人に、例の噂の真相を訊ねた。本当に川の上流でダイヤモンドは取れるのか否か。彼は、自分はこの町の辺りの者ではないので、そういう事には詳しくない、と言った。僕は少し落胆して項垂れたが、老人は眼窩の深い為に真黒に見える眼球の一点を鋭く光らせて、然しそういう噂があるのなら商売柄調べてみる必要がある、と言った内容の事を喋った。更に、彼は僕を案内役にと頼んできた。僕自身は現地に赴いた事は無かったのだが、道は知っていた。僕は、彼の人格を信用するか否か以前に、彼の請願に首肯していた。
親には秘密だった。必要性もあったが、そうする事がこの冒険の価値を高めることを自分は承知していた。その為、老人との約束は、朝日がその顔を覗かせるかどうか、という時間帯に決行、という事になっていた。待ち合わせ場所は、町の東の最も細い横丁の最果てだった。僕が駆けつけた頃には、既に老人はそこに立っており、僕の到着を歯抜けの笑顔で歓迎してくれた。彼が用意した物は、一本の杖と小さな皮製の腰袋だけだった。彼は、坂が急な様だったら杖を突く、と言って、背筋を伸ばして歩いた。
僕等は黙々と川を上流へと登った。川はやがて山脈へと続き、周りは森になる予定だが、誰かが獣に襲われた、という類の話を耳にしたことはなかったので、然程の懸念も無く、歩き続けた。
やがて山脈に入り、両脇を段丘に挟まれる様になった。老人は僕の隣を歩いていたが、時々立ち止まり、その段丘面に近づいて目を凝らす様な仕草を見せるようになった。
僕は、何処まで歩いていけばいいのかを知らなかった。僕の目にはダイヤモンドを見つける事など不可能だと解っていた。僕は、老人が僕の肩を叩いて呼び止め、其処にダイヤモンドがある、と言ってくれるのを密かに期待しながら、歩き続けた。
かなり歩いて、坂が急になる所で、彼は立ち止まった。彼はまだ杖を突いていなかったが、僕は、彼は疲れたのだと思った。然し、違った。彼は僕の方に歯抜けの笑顔を向けると、右手の段丘面を指差した。鳥肌が立った。僕にはダイヤモンドを解らないが、彼は終に発見したのだと理解した。彼は段丘に歩み寄ると、固い岩肌を右手の拳骨で何度か叩いた。僕は必死で動悸の激しいのを抑えようと思いながら、少しだけ息を切らして、彼の指差す所へ向かった。地平線からその額だけを覗かせた陽の橙の光の中、段丘は白に黒や茶色の斑模様の混ざった石で構成されているのが見て取れた。そして、彼の指の先に、なにやら鈍く光る透明の物体が在るのが解った。僕は彼の顔を見た。彼は微笑したまま頷くと、腰の袋から金槌と鑿を取り出した。そしてその透明の物体の周りに鑿の刃を入れ、金槌で何度も叩いた。静かな段丘間に、金属音が木霊した。彼は透明の物体を段丘から抉り出すと、周りに残った石を更に金槌で直接叩いて落とした。中からは、白っぽい、然し透明の、親指の大きさくらいの物体が出てきた。磨かれる前のダイヤモンドだ、僕は思った。而も、昨日老人の露店で見た物とは比べ物にならない程の大きさだ。彼は僕の手に、その大きな塊を握らせてくれた。彼は、大事にするといい、と言った。僕は歓喜の余り、彼に礼を言うのも忘れて心の中で雀躍した。秘密を手に入れた、と思った。
僕はこの事を誰にも話さなかった。老人の露店商は、その翌々日には消えていた。
ダイヤモンドの原石は、友人に見せて自慢したかったが、結局は自分の宝物箱に入れられた儘となった。また、何回か川を登って新しく採ってこようと思い立ったが、自分にはダイヤモンドを見つける事は出来ないし、友人もその為に噂の事実である事を証明できなかったのだろうと合理化して、実行に移す事はなかった。
更に半年程経った。少年達の興味は疾くにダイヤモンド等には無く、それに合わせて僕も自分の宝石の事をあまり思い出さなくなっていた。
そんな折のある日の夕方。何時もは深閑な時刻の町が、何故だか妙に騒がしかったのを覚えている。そう、窓から見る夕焼けが普段よりも赤い様に感じられたのだ。両親はなにやら難しい顔で何かを話し合っていたが、やがて母を残して父は家を出て行った。僕は母に、何か悪い事があったのか、と訊いた。母は深刻そうな表情のまま、火事があったみたい、と答えた。僕は、軒が密接しているから母は飛び火を心配しているのだろうと思ったが、そうではなかった。母は、郊外だからその心配はない、と言った。燃えた家は、僕の友人の一人の家だという事で懸念がある、と。僕は急にその友人の事が心配になった。それで現場まで向かおうとしたが、母に留められた。
夜、寝付かれなかった。窓の外はずっと赤かった。父は、僕が起きている間までには帰ってこなかった。
翌朝、起きしなに父に、家族は全員無事だった、という事を聞かされた。僕はそれで胸をなで降ろしたが、父は付け加えて、何か恵んで上げられるものがあったらお前も出してくれ、と言った。僕はまだ子供だったし、小遣いだって人並みに貰っていなかったので、そんな物はない筈だった。が、すぐに宝物箱を取り出してきて、例の物を探した。親指大のダイヤモンド原石。売れば、相当の値段に成る筈だと思った。
僕はそれをすぐに父親に渡した。友人の為なら、勿体無くなかった。僕はすこし誇らしげにして、父親の手に乗せた。
が、予想に反して、父親の反応は薄かった。少し、目を細めて掌の上で転がしている様だったが、取って置きなさい、と言ってすぐに返してきた。僕はその理由が理解できなかった。高級すぎて恵むには勿体無いと父は思ったのだろうか、位の予測しか出来なかった。然し、それは違った。父は僕に訊いて来た。その石は何処で拾ったのか、と。僕は、川の上流だ、と答えた。父はすぐに返してきた。あそこで採れるのは、純度の低い水晶の原石だけだ、と。話によると、親指大の原石では、パン一斤位にしかならないらしい。僕は自分の掌の透明の石ころを遠くにある視点の手前に眺めながら、呆然とするしかなかった。
然し、不思議だった。僕は、それがダイヤモンドなんかではない、という事実を知ったにも拘らず、何の怒りも諦念も込み上げてこなかったのだ。あの歯抜けの老人にだって、恨みを持ったりはしなかった。確かに価値は否定され、貨幣社会に於いて殆ど何の役にも立たない様な石ころと化してしまったのだが、ダイヤモンドとしての輝きを失いはしなかった。そう、僕にとって、ダイヤモンドの持つ金銭的価値なんかどうでもよかったのだ。少年の秘密として、宝物箱の中で、密かに僕の心と繋がっていてくれれば、それで充分にダイヤモンドだった。その水晶が実際にダイヤモンドとして僕以外の誰かに何らかの影響を与える事を望みはしなかったし、僕がそれをダイヤモンドとして大切にする事に関して、誰かに不利益を被らせたりする事もないと解っていた。僕だけが価値を見出せればよかった。幼いながら、そう思っていた。
この時のこの体験こそが、今振り返ると、これから語るべき過ちとも言える僕の奇妙な経験の端緒となったのだ、と思ったりする。水晶をダイヤモンドだと言ってみたりする、そのような思い込みは、或る種の信仰染みた、実際は無意味な、悪く言えば妄想に近い、誰もが経験する偶像崇拝の一つに過ぎないのではないか、と疑念を抱かざるを得なくなった、十六の頃の不思議な出来事の…。




