表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あおのさまよい  作者: ぼを
4/7

第4章 わたしは今日から「ボク」になる

 七月二日


 また朝だった。あたしは久々に、部屋の扉を激しく叩かれる音で目を覚ました。まだ可也眠かったけれど、仕方なく上体を起こすと、はあい、と答えた。もう、無意識との境の状態でも、ルザートは影を潜めてしまっていた。自然と女声が出た。

「ラセラ、ラセラ!」

 扉の向こうから声が聞こえてきた。あたしは服の皺を適当に手で均すと、髪を整え、扉を開けてやった。

 そこに居るのは、ファルナだった。彼女があたしの部屋に直接やってくるのは、初めてだ…。「ファルナ…どうしたの?」

 彼女は少し怒った表情だった。機嫌が悪いみたい…。

「おはよう、ラセラ」彼女は言って、少し間を置いた。あたしは何故ファルナがやって来たのかが解らず、呆然と彼女のつりあがった瞳を見詰めるしかなかった。「もう、鐘は十二回も鳴ったわ」

 そんなに…。随分寝てしまったんだ。

「…彼の所へ…行かないと…」

 あたしは、ファルナに気圧されながらも、明日はもうラッズが首府へ向かってしまうという事で、気持ちが焦って呟いてしまった。

「その前に行かなくてはならない所があるわ」ファルナが語気を強めて言った。「ねえ、真面目に聴いてよ」彼女はあたしの目を鋭い視線で射抜いて来た。逸らしたかったが、出来なかった。「今ね、『樫の盾』にサスティが来ているの。貴方が朝、化粧をしにやってくると思って、朝から来ているの」彼女はそこで一回言葉を切って、少し考える様に俯いた。「彼女、貴方に話があるって、待っていたのだけれど…気を張っていたのね…泣き出しちゃって…」

 あたしは、どう反応していいか解らなかった。

「…それじゃあ」あたしは小さく言った。「今日は、お化粧は出来ない、って事? サスティが居たんじゃ…」

「そうじゃないでしょ…!」ファルナは苛立ちと怒りを抑える様に、言った。あたしには彼女の言いたい事は何となく解っている気がした。が、サスティがあたしに話がある、というのは実に不可解だった。どんな話があるというのだろう?「ねえ…」ファルナは続けた。「彼女ったら、みてられないわ。お願い、ラセラ。ううん。ルザート。彼女、本当に思い詰めているの」

「思い詰める…?」急に自分の心拍数が上がるのが解った。そして、ファルナに対して、サスティに対して、怒りが込み上げてきた。あたしは無意識に冷笑していた。「思い詰めるって、何を? 貴女やサスティがそんな事を言うのは可笑しいよ。あたしを生み出したのは、他ならないサスティじゃないの。何を悩むっていうの? それとも、あたしを生み出してしまった事に対する罪悪感に悩んでいるの? だったら生憎だけれど、悩む必要なんか全くない。サスティや貴女の御蔭で、あたしは今、とても幸せなんだもの」

「ルザート!」

「その名前で呼ばないでよ!」

 あたしの言葉に彼女は怯んだ様だったが、彼女は続けた。

「違うの。解ってあげて。彼女、勿論自分のした事に責任を感じている。でも、そうじゃないの。解るでしょ? 彼女が何を思っているか」

「わからない」あたしは言い放った。「全然解らない。あたしを幸福にしてしまった事が、罪になるっていうの?」

「だから違うのよ!」ファルナは完全に叫んでいた。「サスティはねえ!」

 彼女は間を置いた。

「ファルナ!」遠くから声が聞こえた。ファルナは声の方を向いた。誰かが吹き曝しの階段を駆け上がってくるのが音で解った。それは、レネカだった。「ファルナ、もういいの」

「レネカさん…」

ファルナが呟く様に言った。

「ラセラ」レネカが言った。「サスティはもう帰ったわ。帰ってもらったの」

「レネカさん!」

「いいのよ、ファルナ。貴女はよくやってくれた」レネカはファルナを宥める様に言った。「何も言ってはだめ」レネカはあたしの方に向き直った。「何時も通り、服を貸してあげるし、化粧もしてあげる。でも、約束をして」彼女の表情はこれまでに見たことのないくらい、険しかった。「女神像が出来上がったら、ルザートに帰ってくるって。完全には戻れなくても、その努力はするって」

 その言葉に、あたしは素直に頷けなかった。女神像は、ラッズはまだ時間がかかるとは言っていたが、完成間近に思われた。

「ねえ」ファルナが言った。「約束して」

 あたしは暫く俯いたまま、返答を出来なかった。あたしは本当にラッズを愛していたからだ。

 けれどもあたしは、二人に向かって小さく頷いた。どの道、あたしとラッズの仲は一年以内なのだという事実が頭を過った。

「でも…」あたしが言った。「ラッズには、何と…? 納得してくれるとは思えない…」

「大丈夫」レネカが言った。「私達から、なんとか言うから。安心して。だから、ね? 約束してくれるのよね?」

 あたしは再び、小さく頷いた。

 二人はそれで、安堵の表情をみせた。そして、何時もの様に、あたしをレネカの部屋に入れてくれ、服と化粧を世話してくれた。明日からはどうなるか解らないが、取り敢えず、今日を逃したら三日間もラッズと会えないのだ。

 あたしは化粧をしてもらいながら、レネカに、ラッズとは暫く会えないのだという事を話した。彼女はその間も女装をするかどうか訊いて来たので、あたしは何もいわずに首肯した。


 あたしは、何となくサスティの気持ちを知っている様な気がした。ううん。正確にはあたしではなく、あたしの中のルザートの記憶が。少年ルザートは、稚さな夢として、今のサスティが露わにしているのであろう感情と同じ気持ちを持っていた。勿論、それはただの記憶であって、今ではそんな思いを抱く事はないけれど。あたしは、以前は自分の気持ちとサスティの気持ちが合致する事を望んでいた…。でも、何もかもが手遅れ。不器用だったサスティが、どんなに上手く矢を番えて、正確に心臓をとらえて、それを射抜こうとしても、それは命を失った一頭の羊の静止した心臓でしかないのだ。でも、彼女には剥製の羊の心臓を見つけることは出来ない。出来ない筈…。

 不図、レネカの言葉を思い出した。

「貴女がそうやって腕に籠かけている姿って、サスティに似てる」

 今頃になってだが、彼女のこの言葉は、案外間違っていないと思った。ラセラは、サスティと同じ性格…。ラセラは、サスティの模倣物…。この事に、レネカは早い時期から気付いていたのだろう。

 あたしはもしかすると、その稚さな願いを、こうした形を採る事によって、立場は逆転しているけれど、叶えようとしているのかもしれない。それとも、ラッズを好きになることで、サスティに訴えかけようとしているのかも…。

 でも、違う。違う。今はそんな事は憶測にすぎない。だって、あたしは本当にラッズの事を愛している…。



 七月三日


 ラッズは、朝早くから首府に向った。あたしはそれで出来るだけ早起きし、彼を見送った。弁当を用意したかったが、それは出来ない…。こういう事実を目の当たりにするのは、辛かった。

 彼は、たったの三日だよ、と言った。けれども、あたしは、三日だって空けてはならない気がしていた。彼はそうは思っていなかっただろうが、あたし達の仲はそれほどに揺らぎ易く、危うい気がしてならなかったのだ。それに、彼とはもう一ヶ月も一緒にいられない…。三日は、長すぎる。

 出掛けしな、ラッズはあたしを抱きしめてくれた。もの凄く強く、抱きしめてくれた。そして、一度だけ、接吻をした…。忘れられそうに無い程気持ちのこもった接吻だった…。

 別れが辛かった…。



 七月四日

 

 翌日。あたしはラッズと会えない事で気が重かった。一応「樫の盾」へ行き、レネカに何時もと同じように服と化粧を面倒見てもらったが、気分は悪くなる一方だった。町にでも行ってみようと思ったり、タリタの様子をラセラの儘で見に行こうかと思ったりしたが、なんだか思いつくだけで実行に移すだけの気力がなかった。鍛冶の仕事がなんだか懐かしくなった。でも、この恰好で今の気持ちでルザートの仕事をする訳にはいかない。

 それで、午前から夕方まで、「樫の盾」の食堂でレネカの手伝いをした。サスティがやってくる事を懸念したが、レネカは、今日は来ないんじゃないかな、と言った。理由は訊かなかったが、最近サスティは顔を出さないらしい。

 客が本当に少ないのでずっと暇だったが、レネカが話し相手になってくれたので退屈はしなかった。ファルナも少し顔を出したので、彼女とも幾らかお喋りをした。以前ほど互いに隔意は見られず、普通に、二人の少女として色々な事を話した。ただ、出来るだけ彼女の前ではラッズの事には触れない事にした。それで、サスティの事を訊いてみたが、彼女も最近は会っていない、と言った。それは何だか可笑しく聞こえたけれど、特に詮索はしなかった。


 夕方、あたしは「樫の盾」を出、一人で自分の部屋への道を歩いた。夏の空はまだ薄青かったが、もう寝てしまおうかと思った。本当に一日ラッズと会わないだけで、なんだか気が狂いそうな感じがした。特に独りでいると、情緒不安定に陥り、居た堪れなくなった。あたしも一緒について行ければよかったのにな…。

 

 急に気が変わって、あたしはもう少し陽が沈むまで、村の中を歩く事にした。時間が時間だけに、外を出歩く者の姿は少なかったが、あたしを知る者はまだ少なかったので、すれ違う時なんかに視線で追われたりした。あたしは殆どの者の顔を知っていたので一寸妙な気分だった。

 それで、あたしは村から少し外れた川に沿って歩いていく事にした。飛び越えられるくらいの細い川だったが、小さな蛙や稚魚の姿があった。緩やかな流れの音が涼しく、気が休まった。すると、何となく自分の中で後悔や罪悪感が芽生え始めるのが解った。なにやら不安があって、それがあたしの髪の毛を時々引いて遊んでいるかの様だった。

 やっぱり、三日も会えないというのは、良くない…。

 落ち着きはしたが、心の底で黒く蠢く物を感じながら、あたしは川を離れ、自分の部屋に戻る事に決めた。あまりにも感情が不安定だった。押し潰されそうだった。

寝台に入るのが恐い…。


 もう、空は薄暗く、遠くに夕映えが望める位だった。

 家々の窓にちらほらと明かりが点り始めた。あたしは歩調を早めた。

 あれ…?

 可笑しい…。あたしは、昨日の夜きちんと明かりを消した筈…。それに、油がこんなに持つ筈が無い…。何故だろう? あたしの部屋から明かりが漏れている…。

 訝りながらも、あたしは急いで吹き曝しの階段を駆け上がると、自分の部屋の扉の前に立った。変な気分だった。あたしは自分の部屋の扉を叩こうとしているのだ。これは、この間のファルナの役でしょう?

 あたしはそれで一瞬躊躇ったが、畢竟拳骨を作り、扉を数回、叩いた。すると、中から返事が返ってきた。これは、一体どういう事? 男の人の声みたい…。でも、ラッズみたいに低くない。声変わり前の少年みたいな声…。でも、勇ましい声だ…。

 足音が近づいて来ると、すぐに扉が開いた。

 少年だった。

歳は十五くらいだろう。トビ色の髪の毛を首の後ろの所で短く切りそろえており、暗くてよく解らなかったが、肌は日に焼けた小麦色だった。胸板が厚いが、女の子の様な顔立ちだ。否、そういう分では、自分も同じか…。でも、あたしよりも背が低い。

「どうしました?」

 少年があたしに向かって言った。あたしは少し怯んでしまった。

「あの…」少し上目遣いで彼の瞳を覗き込んで、言った。「ここは、あたしの部屋なんですけれど…」

「え?」彼は少しだけ驚いた様に言った。「可笑しいな。ここの部屋だと聴いていたんだけれどな」言うと、彼はズボンの隠しから鍵を取り出した。「鍵も受け取っている」

 あたしは、自分が間違えているのかと不安になり、彼と扉との隙間から奥を覗き込んだ。家具は備え付けなので、特に自分の所有物と言える物は部屋の中には置いていなかったが…あたしは、窓辺に置いた花瓶にラッズのくれた赤い花が挿さっているのを見つけた。「樫の盾」から貰ってきたものだ。

「あの花瓶と花は、貴方が持ってきたの?」

 あたしが言うと彼は振り返った。

「いや…違う。来た時からあすこにあった」

 あたしは微笑した。

「じゃあ、部屋違いね。この村には越してきたばかり?」

「まあね」彼はあたしの方に向き直ると、言った。「今日、部屋に入る事になっていたんだ。でも、間違えてしまったらしいね」

 彼は苦笑した。

「空いている部屋だと…そうね、丁度真上の部屋になるかな…。管理人さんにもう一度訊いてみるといいんじゃない? それと、その鍵はちゃんと返しておいてね。多分、合鍵だと思う」

 彼は、解った、迷惑かけて失敬、と言うと、部屋から出た。

「何も触っていないよ。否、明かりは点けてしまったが…」彼は扉を閉めた。「そんなに長い間この村にいる訳ではないけれど…同じ場所の住民として、宜しく」

彼は言って、手を差し出してきた。それで、あたしは彼と握手をした。驚いた事に、彼の手は凄く小さかった。それに、綺麗だった。どういう仕事をしているのだろうか? 

「あたしは、ラセラ、よ。よろしくね」

 彼は微笑んだ。

「僕は、アルトス。この村の事を色々教えてくれるとあり難いな」

「いいよ」あたしが言った。「いつか案内してあげる」

「それじゃあ…」アルトスはあたしの目を見つめながら言った。「明日はどうかな? 暇じゃない?」

 明日? 勿論暇だけれど…。

「急ね」

 彼は頷いた。

「出来れば町も案内して欲しいな。一応、来る時に通っては来たんだけれど、何しろ生活用品を揃えなくてはならないからね。急で悪いけれど、明日で頼むよ」

 あたしは少し二の足を踏んでしまった。それで、目を逸らして視線を彼の足許あたりに当てた。

 ラッズに申し訳ないような気がするけれど、アルトスはまだ少年だものね…。

 あたしは笑んだ。

「わかった。明日ね」

「ありがとう」彼はも一度微笑んで、言った。「それじゃあ、明日の朝にでも迎えに来るよ。って言っても、一階しか違わないか」

 彼の言葉に、あたしは故意に小さく声を立てて笑った。それで彼も薄笑みを漏らすと、おやすみ、と言って、階段を下りていってしまった。管理人の所に行くらしかった。

 

 夜、あたしは中々寝付かれなかったけれど、悪い気分ではなかった。残りの二日、どれだけ精神が狂ってしまうか心配していたけれど、アルトスが何とか繋いでくれそうだったから…。

 夜遅くになって、三階に駆け上がる足音が聞こえて来た…。



 七月五日


 あたしは教会が八回鐘を鳴らす前にはもう起きていた。アルトスに村と町を案内するという約束をしてしまったからだ。

 あたしは直ぐに洗面を済ませると、「樫の盾」に着替えに向かった。レネカが商売柄早起きなのは、幸運だった。あたしが彼女に今日の予定を話してやると、彼女は微笑んだ。そして、いい気分転換になるんじゃない、と言ってくれた。それと、年下の男の子に手を出しちゃだめよ、と。

 あたしが部屋に戻る頃には、もう鐘が九回鳴っていた。アルトスがあたしが居ない事を訝っているのではないかと懸念したが、その必要はなかった。彼は、まだ来ていなかったのだ。それとも、来たのにあたしが居ないので、諦めて部屋に戻ってしまったのだろうか? 

 あたしは、三階の彼の部屋に行ってみる事にした。

 扉は閉まっていた。あたしは、少し躊躇ってから、強く数回叩いた。けれど、返事は無かった。もう町へ出かけてしまったのだろうか? 念の為、も一度叩き、さらに、アルトス、と数回名前を呼んだ。が、返事は無かった。あたしは、扉の把手を掴み、鍵が掛かっているか確かめた。すると、扉は開いてしまった。

 アルトスは、居た。けれど、寝ていた。あたしは少し呆れてしまった。自分から迎えに来ると言っておきながら、寝ているなんて…。

 それにしても、安らかな寝顔だった。よく見ると、睫毛が長い…。綺麗な顔立ちだ。

 取り敢えず起こさなくてはならないと思い、あたしは彼の傍に寄って、数度、アルトス、と大きな声で呼んでやった。すると、彼は眠たそうに薄く目を開けると、あたしと視線を合わせて来た。そして、驚いた様に目を見開き、しまった、と呟くと、凄い勢いで上体を起こした。あたしはその様子をみて、くすくす、と笑った。

「おはよう、アルトス」

 彼は照れたように微笑しながら、自分の髪を両手で梳った。

「…起こされちゃったな」彼は立ち上がった。「僕とした事が…」言いながら、彼は水の張った樽で洗面をした。「本当に済まない」

 あたしは、気にしないで、と返してやった。

「着替える? だったら、出て行くけれど」

 あたしの言葉に、彼はかぶりを振った。

「着替えたいけれど、着替えがない。今日、買いに行くんだ。ちょっと待ってくれ」彼は寝台の下から靴を取り出すと、履いた。足も小さい様だった。「よし、大丈夫だ」

 

 あたし達は部屋を出ると、早速、村を慫慂した。特に見るべきもの等なかったが、彼は何にでも興味を示した。それであたしは、彼に機織小屋、鍛冶工場、畑、それから「樫の盾」を案内してあげた。特に「樫の盾」でレネカに彼の事を紹介すると、彼は非常に礼儀正しく挨拶をした。

 彼は、村が気に入った、と言った。早く短期の仕事を探さなくてはならないが、村の中で見つけることも出来そうだ、とも言った。あたしは危うく、自分は鍛冶工場で働いている、と言いそうになった。

 昼を「樫の盾」で軽く済ませると、午後からは町に行く事になった。食事をしながらレネカに、何処を案内するのがいいかな、と相談すると、彼女は色々と指導してくれた。特に、服飾の店や生活用品の店はあたし自身は詳しくなかったので、彼女が教えてくれたのは非常に助かった。話によると、今日は市が立っているらしい。


 陽射しは日増しに強かったが、草原に挟まれた国道には気持ちのいい風が吹いていた。今日は髪をリボンで結っていたので髪はよかったが、緩やかな服やスカートは風に大きく靡いた。それを見てアルトスは、寝間着みたいだな、と笑った。そういえば以前に、サスティの恰好に就いてそんな事を思った事があった。否、ルザートが。男の人は皆、そう思うのだろうか。


 町には、確かに市が立っていた。想像程には賑わってはいなかったが、それでも普段の数倍の人出だった。露店が立ち並び、服飾品だけなら露店だけで事足りそうだった。

 あたし達はゆっくりと露店を見て廻った。果物等の食料品と服飾品の店が多かった。それで、彼は男物の服を上下二着ずつ購入した様だった。あたしも女物を買おうかと思ったけれど、いずれは持て余すと解っていたので、やめた。

 それから彼は適当な手拭を数枚、インク壺と羽筆を一つずつ、洋藁紙を数枚、そして食料品を買った。荷物が多いようなので持つのを手伝おうかと思ったけれど、彼は、軽いからいいよ、と断ってきた。

 他に特に見て廻る所はなくなったので、あたし達は町の中を散歩した。大通りから横丁に入ったり、横丁から大通りに出たりした。影が多い方が涼しかったので、特に横丁を好んで歩いた。

 やがて、タリタの入院している医院の前を通りかかった。あたしはタリタに見られるのを恐れてそちらに目を向けない様に努めたが、彼は医院の扉に視線を合わせて、立ち止まった。

「医者か…」彼は呟く様に言った。「覚えておこう」

 長居はしたくなかったので、あたしは少し早歩きで通り過ぎた。彼はすぐに後からついて来た。

 あたしは、町を出る前にラッズの工房を案内してあげようと思った。それで、彼よりも半歩前を歩いて、工房のある横丁に入った。あたしは彼に向かって、ここに自分の好い人の工房があるのだ、と説明してやった。すると、彼は何故だか表情を険しくした。

「今は、仕事で首府に行っちゃっていないんだけれどね」

「入れるの?」

 彼は荷物を片手に持ち替えると、工房の一階の扉の前に立った。それであたしは、この扉は鍵がないけれど、二階に入れるかは解らない、と言ってやった。彼はあたしの了解を得ずに、扉を開けて中に入ってしまった。一瞬止めようと思ったが、彼が早足で階段の所まで行ってしまったので、仕方なく後を追った。それにしても、彼は一階の部屋には目もくれなかった。確かに二階とは言ったけれど…随分せっかちな性格だ。

「開いてるよ」

 彼は片手を二階の扉の把手に掛け、階段を上るあたしを見下ろしながら言った。そして、扉を開けると、中に入っていってしまった。あたしとラッズだけの空間に異物が混じる様であまりいい気はしなかったけれど、あたしも続いて入った。

 白い広間の真中には、まるで時間が止まったかのように、あたしの顔をした、女神像が立っていた。アルトスはその像の真前に立って、眺めている様だった。

 あたしはゆっくりと歩き、彼の横に並んだ。彼はそれに気付き、あたしの方を向いた。

「これは…」彼はあたしの横顔に言った。「ラセラ…君?」

 あたしは薄笑みを浮かべながら、両手を腰の後ろで組み、少し顔を上に向けると、彼の方に傾げ、そうよ、と言ってあげた。

「まだ、完成ではないけれどね」

 彼は暫く呆然と像を見詰めていた。

「ちょっと悔しいな…」

彼は呟く様に言った。あたしは彼の方を向き、どういう事、と訊いた。けれど、彼は答えなかった。

 彼は、あたしと像を幾度か交互に見てから、言った。

「君には胸がないのに…この像の胸は豊満だね」

 あたしは一瞬、鼻白んだ。何か言い返してやりたかったけれど、彼の表情から悪気を感じられなかったので、やめた。代わりに、小さく、大きなお世話よ、と呟いて、微笑んであげた。


 部屋に戻った頃には、もう空は茜色だった。あたしが先頭になって、吹き曝しの階段を上った。あたし達は二階で一度立ち止まった。

「今日は楽しかったよ」

アルトスが言った。

「そう」あたしは微笑んだ。「お役にたてて嬉しい」

「また、何処か連れて行ってくれる?」

 彼が言った。あたしはすぐに首肯した。

「また暇な時にね」

 あたしの言葉に彼は笑むと、大きく頷いた。そして、荷物を持ったまま両腕を広げると、あたしを抱きしめてきた…。ちょっと驚いた。

「それじゃあ、また」あたしを抱きしめたまま、彼は耳許で囁いた。あたしは、ぞく、とした。そして彼はそのままあたしの頬に軽く接吻した。「お休み」

 彼は言い放つと、三階への階段を上っていってしまった。

 あたしは彼の急な行動に呆然としてしまった。確かに、ああいう挨拶が普通だという地域もあるというけれど…。やはり、驚きを隠せなかった。



 七月六日


 ラッズの居ない、最後の一日だった。明日には会えると思うと、少し気が楽になった。昨日のアルトスの別れしなの挨拶には少し驚きはしたが、彼が今日も訪ねてくれれば、気が紛れるのにな、と思った。

 昼頃まで、あたしは自分の部屋で特に目的もなく寝転んでいた。夜と違って、日光に包まれていると、厭な思いが頭を巡る事はなかった。窓辺の花は愈々元気が良かった。

 正午の鐘がなっても、アルトスはやって来なかった。それで、一日中寝転んでいるのも退屈なので、着替える為にも、と、「樫の盾」に向かった。化粧は落としていたし、服は幾らか皺がよっていたが、充分女性に見える筈だった。少なくともアルトスに見抜かれる事はないと思った。けれど、着替えるに越した事はない。

 「樫の盾」に入る時、思わず二の足を踏んでしまった。食堂のテーブルに、アルトスがいたのだ。レネカとアルトスとファルナが三人で、昼食をとっていた。

 あたしが入ると、三人が揃ってこっちを向いた。そして、挨拶をしてきた。

「ラセラ」ファルナが言った。「この人、貴方の上の階に住んでるんですってね」

 あたしは鼻白みながら六人掛けのテーブルの椅子の一つに座った。

「今日は、仕事を村の中で探しているんだ」

 アルトスが言った。

「ラセラは何がいいと思う?」

 訊いて来たのは、ファルナだった。けれど、いきなりそんな事を言われてもあたしには思いつかなかった。

「鍛冶の手伝いはどうか、って薦めているのよ」レネカが意地悪っぽく笑みながら、あたしの方を見た。「どうかしらね」

 あたしは何と答えて良いか解らなかった。

「食事が終わったら、ラセラ、貴方がアルトスの仕事探しを手伝ってあげなさいよ」

 ファルナが微笑しながら言った。あたしはどう反応していいか解らなかった。

「取り敢えず…」あたしはレネカに向かって言った。「着替えたいんだけれど」

 言われて、レネカは立ち上がった。アルトスが、何故此処であたしが着替えるのかを訝りはしないかと横目に表情を窺ってみたが、彼は特に気にした風ではなく、パンを千切っていた。

 あたしはレネカについて二階へ上がっていき、彼女の部屋で服を着替え、化粧をして貰った。

 化粧をしながら、レネカがこんな事を言った。

「あの子、貴女に気があるんじゃないの?」

 半分冗談でも言うかの様に、笑っていた。あたしは思わず彼女の方を振り向き見上げてしまった。

「冗談言わないで下さい」

 あたしが慌てて返したのが可笑しかったのか、彼女は少し声を立てて笑った。

「でも、解らないわよ。一応、貴女のラッズの為にも、用心しないとね」

 あたしは、彼女がただ、からかっているだけなのだと思った。大体、会って二日くらいの女性に惚れる様な軟派な少年には見えない。


 とは言ったものの、元々今日も彼には会う心算だったので、ファルナに言われた通り、アルトスについて村を廻った。昨日を繰り返しているようで、何だか楽しい気分だ。

 歩きながら、あたしが訊いた。

「どんな仕事をする心算なの?」

「この村にはね」彼は歩きながら答えた。「数ヶ月の滞在予定なんだ。だから、融通の利く仕事がいいかな。あと、見てもらえば解るけれど、僕は身体が小さい。あんまり力の要らない仕事じゃないと…」

 あたしは笑った。

「村でそんな仕事を見つけるのは困難かもよ。町に出れば、露店商でも出来るけれど」

 言われて彼は、商売か…と呟いた。

「あんまり気が進まないな」

「そうねぇ…」あたしが言った。「機織なんかどう?」ふざけて言った。「娘のする仕事だけれど、貴方にぴったりかも。この村で出来るし」

 彼は苦笑した。

「耳が痛いよ」彼が言った。「でも、悪くないかもね」

 あたしは彼の言葉に、本当に、と疑いの返答をした。


 やがて、村を一周してしまった。彼は、やっぱり町に出るべきだな、と言った。

 あたしは、彼が町へ探しに行くのについていこうか、と言うと、それは済まないよ、と断ってきた。が、一瞬迷った様にしてみせ、今日は行かないけれど、行く時には誘ってもいいかな、と訊いて来た。それで、あたしは笑顔で頷いてやった。



 七月七日


 目が覚めたのは正午よりも幾分か早い時間だったけれど、採光窓から入射する陽射はなくて、光を受けて影を落とす部屋の中の寝台やら机やらは、なんだか輪郭があまりはっきりしないようで、気分も晴れやかではなかった。起きてすぐに思ったのはラッズの事。明日帰ってくるのだけれど…この雨で足止めされてしまったりはしないだろうか。

 あたしはひんやりとした室内を呆然と歩き回り、大粒の雨滴に打たれて大きな音をたてる窓ガラスの向こうを、雨垂れでよく見えず視点を合わせることはできないけれど、眺めたりした。そして、幾度も、「樫の盾」にいこうか、それともやめようか、と悩んだ。行くべきだと思うし、あたし自身の為にも行ったほうがいい事も解っているのだけれど、雨脚は衰える様子もなく、出かけるだけの気概もなく、ただ呆然としていた。

 室内は依然として薄暗く、再び寝台に寝転んで天井を眺めてみたりすると、等間隔で並ぶ垂木が輪郭をぼやかしながら梁の板材に影を投げかけていたりして、なんだか気分も曖昧になってくるようだった。

 ルザートとあたし…。この先、どうなっていくのかな…。

 村の教会からの鐘の音が聞こえてくる。十一回鳴った…。

 あたしは小さく溜息を吐いた。途端、部屋の扉を強く数回叩く音が聞こえてきた。少し眠気と戯れていたので、暫くは意識の遠くの方で、意味だけを放っておいて音だけを呆然と聞いていたのだけれど、やがて、ラセラ、ラセラ、と呼ぶ声がしたので、慌てて起き上がり、身嗜みを適当に気にしてから、入口の扉を開けた。

 そこには、雨に濡れて全身水浸しのアルトスが居た。水分を帯びて針のように鋭く垂れ下がった前髪の奥から覗く幼い表情が、何やら険しくなっている。あたしに関して、何か悪い事でも聞き、それを追究しにきたかのような表情だ。あたしは彼と視線を合わせないようにしながら、わざと顔を顰めてみせた。

「どうしたの?」

 あたしが訊いた。彼は、少し表情を緩めた。そして、そんな怖い顔をしないで欲しいな、と言った。

「起きたばかりみたいだね」アルトスが言った。「でも気にしないよ」

 あたしは彼の言葉に、半分無意識に髪を手で梳りながら、こんな雨の日に何の用事なの、と訊いた。

「ちょっと手伝って欲しい事があるんだ。仕事を探す事じゃないよ。ファルナの事なんだ」

「ファルナの?」

 彼は首肯した。

「とりあえず、僕と一緒に『樫の盾』まできてくれないかな。行けば、ファルナが直接説明してくれるよ」

「緊急の用事なの?」

「それなりにね」

 彼は少し考えるようにしてから、答えた。

 あたしは訝りながらも承知すると、雨よけの頭巾の付いた外套を羽織り、彼と共に雨の降る外に出た。彼は雨を避ける為の用意をしていなかった。あたしは彼に外套を共有する事を提案したけれど、彼は、これだけ濡れてしまえば、あとはどうにも変わらないよ、と返答してきた。それで、あたしはそれ以上気にしない事にした。

 「樫の盾」に着くと、屋外が雨天の為に暗くなっている為か、ランプの赤い光の漂う屋内は、一層明るく見えた。

 そこには、レネカとファルナが居り、一番勘定台に近いテーブルに向かい合って座っていた。あたしは、何の用だったのかな、と呟く様に言いながら、外套を脱ぐと、空いているテーブルに投げかけた。レネカは、あたし達に乾いた手拭を渡してくれた。

 あたし達は、レネカやファルナと同じテーブルについた。

 ファルナ…泣いてる…?

 あたしはファルナの表情を上目遣いに伺うようにしながら、誰に向けてでもなく、どうしたの、と訊いた。普段気丈なファルナだけに、急に心配になってしまった。

「あのね」レネカが言った。「ちょっと事故があったの」

「私がね」ファルナが涙声のまま、言った。「お金を盗られちゃったの」

「ファルナはいいから」レネカが宥めるように、ファルナに言った。それから、あたし達の方を向いた。「今朝、町の方に行く用事があったのね。ファルナが行ってくれる事になったの。それで、次いでだからって、タリタのお医者様への謝礼金も持っていく事になったの。勿論、お金はタリタの母さんから預かった物ね」

「そのお金を盗られちゃった、っていうこと?」

 あたしが訊いた。ファルナが俯いたまま、首肯した。

「ファルナを責めないでね」レネカが言った。「だって、盗られちゃったんだもの」

 あたし達は頷いた。

「どういう感じで盗まれたの?」

「うん…」あたしの言葉に、ファルナが答えた。「朝早く出掛けた時は、まだ雨は降っていなかったの。だから、雨具は持たずに町に向かったのね。でも、町に着いた途端に急に大降りになってしまって、近くの建物の庇の下で雨宿りをしていたの。でも全然止みそうになかったから、少し小降りになったのを見計らって、レネカさんの用事を済ませてから、医院に向かおうとしたの。そうしたら…お金を持っていない事に気付いたの…」彼女は一旦、言葉を切った。「雨宿りした時に落としたんだ、と思って戻ってみたんだけれど、もうそこには無かったわ…」

「他も充分探したの?」

 アルトスが訊いた。ファルナは、出来る限りは、と回答した。

 それで、レネカは、あたし達にもう少しだけでいいから、町まで行って探してきてくれないか、と依頼してきた。アルトスは、その為にあたしを呼びに来たのだ。あたしはファルナの方を見てから、すぐに承諾した。


 レネカは、アルトスに雨よけの外套を貸した。あたしには、化粧や着替えはいらないの、と訊いて来たけれど、どうせ濡れるから、と、断った。

 あたし達は外套を羽織ると、雨の様子を暫く窺い、止む様子がない事を確認すると、早歩きで、二人並んで町までの道を歩き始めた。

 雨が強いのと、歩みを早めているのとで、二人とも無口だった。アルトスはあたしよりも背が低い為もあってか、歩くのはあたしの方が速く、出来るだけ彼に合わせてあげなくてはいけなかった。

「ファルナさあ」アルトスが、雨の音を破る為か、少し叫ぶ様に言った。「本当に盗られちゃったのかな?」

「解らないわ」あたしが言った。「落としただけで、見つけられなかっただけかもしれないし…」

「でも、お金なんて、拾われたら絶対に返ってこないよ」

「今日は雨だから、きっと人通りが少ないよ。だから、運がよければ、あたし達が見つけてあげられるかも」

 あたしの言葉にアルトスは、そうだね、と言って首肯した。


 教会の鐘が十二回鳴る頃にあたし達は町に入ったけれど、雨足は衰える様子がなかった。仕方なしに、先ず、ファルナが雨宿りした、という建物に行く事にした。それは町の入口からすぐにある建物で、一階建ての民家だった。普段は白いと思われる石積みの壁が、今日は雨に濡れて灰色に変色している。

 あたし達は家の周りを一周し、その後、その家の主に落し物はなかったか、と訊ねた。が、主人は知らない、と答えた。

「町全体を歩いて探すのには無理があるかな?」

 アルトスが言った。

「出来ない事はないと思う。そんなに大きな町じゃないから」

「手分けして探したら?」

「教会の午後の鐘が二回なる頃には、一通りは周れるんじゃないかな」

「じゃあ、そうしよう。人があまり出ていないから探し易いと思うけれど、気をつけてね」

 言って、あたし達はそれぞれ、町の入口を基準に、ラッズの工房のある右手半分をあたしが、タリタの居る医院のある左手半分をアルトスが担当して、探す事にした。鐘が二回鳴るころに、入口に戻ってくる事。

 別れてすぐ、アルトスはこの町の地理に明るくないから、多分、あたしよりも余計に時間が掛かるだろうな、と思いついた。あたしが早く見つけるか、アルトスが早く見つけるかが出来れば、すぐに合流してしまえばいいのだけれど…。あたしの担当分が早く終わって、見つけられなかったら、アルトスと一度落ち合う事にしよう。

 あたしは小走りに、歩きなれた町の道を、きょろきょろと見渡しながら、進んだ。細い横丁の多い碁盤目の町なので、それ程道順に苦労する、という事はなかった。人通りは確かになかったが、視界は相当悪いので、探し難さはあまり変わらないかもしれない。

 あたしは、人を見かけたら出来るだけ落し物の事を訊きながら、教会の午後の鐘が一回なって少し経った頃には、発見できないまま、町の入口に戻ってきていた。

 アルトスはまだ来ていなかった。という事は、彼もまだ見つけられていないんだ。

 あたしは暫く佇んで、このまま待つか、も一度右半分を探し直すか、アルトスと合流して一緒に探すかで悩んだけれど、結局、見落とした積りはなかったので、アルトスを探す事にした。彼は町に詳しくない分、あたしよりも時間がかかる筈。碁盤目なのですれ違う可能性が高いけれど、教会の鐘が二回なったら入口に帰って来ればいいのだから。

 出来るだけアルトスとの遭遇率を上げるために、あたしはアルトスが向かっていった方向と違う向き、つまり、アルトスが帰ってくるだろう道を選んで、水溜りに気をつけながら出来るだけ早歩きで進んだ。次いでに、あたしが行く道はまだアルトスが調べていない道なんだろうから、ファルナの落した、お金の入った袋の事も意識しながら、道の両端や影になっている部分にも重々目を走らせつつ、歩いていった。


 随分進んでも、なかなかアルトスと出会えなかった。アルトスの担当する分の約半分を歩いても彼を見つける事が出来ないという事は、彼はもう入口にまで帰っていったのかもしれない。そう考えると、彼がお金を発見出来た可能性は可也高いとみていいのかな…。

 あたしはアルトスを探す事をやめて、来た道とは違う道を通って町の入口まで戻る事にした。

 刹那。雨の音に埋められて可也小さくなっているけれど、あんまり遠くない場所から、ラセラと呼ぶ声が聞こえてきた。それに気づいたあたしは、すぐに足を止めて、辺りを見渡しながら声に耳をそばだててみた。

「こっち、こっち」

 声の方を振り向くと、そこには、どこから見つけてきたのか、水溜の壺を引っ繰り返した底の部分に腰掛けたアルトスがいた。思ったよりも近くだったので、少し驚いてしまった。彼がすわっている所は、町の大通りから細い横丁に入り込む入口になっている場所で、横丁の両側にある背の低い建物の庇が重なって丁度雨宿り出来るようになっていた。

 あたしは彼の横に、庇の下になるように移動し、立ったまま、見上げる彼と視線を合わせた。

「見つかった?」

 あたしが訊いた。

 彼は、すまなさそうにかぶりを振った。

「とても済まないことになってしまったよ」

「町にあまり詳しくないんでしょ? 時間が掛かっても仕方がないよ」

 あたしの言葉に彼は、そうじゃないんだ、と返してきた。

「恥ずかしいことに、この雨の中で足を滑らせてしまって…」彼は言うと、自分の右足の膝頭を指差した。見ると、淡い白の下衣の膝部が、血で赤く滲んでいる。「もう少し経てば歩けるようになるよ」

 転んで怪我しちゃったんだ…。

 あたしは彼の横に屈んで、患部を凝視した。それから彼の、雨の日特有の薄灰色の環境光に仄かに浮かび上がった表情を窺い、瞳を覗き込み、訊いた。

「裾を捲ってみてくれるかな?」

 彼は承知すると、痛そうに表情を歪めながら裾を膝の所までめくりあげた。

 酷くぶつけたのか、小さく肉が抉れて血が流れ出ているのが確認できるが、それと同程度で、打撲傷の痣を作っていた。

 あたしは彼に、何処でぶつけたのか、とか、怪我は他にないか、とか、足はきちんと伸ばせるか、とかを訊いた。思ったよりは軽い様だ…。

「どのみち」あたしが傷をみつめながら言った。「お医者様に診てもらったほうがいいと思う」

 彼は顔を顰めてみせた。

「医者は遠慮したいな」

 それはあたしも同感。町の医院にはタリタが居る…。でも、骨に異常があったら大変だし、診てもらったほうがいいと思うな。

 あたしは暫く患部を見つめたまま考えたけれど、やがて彼を見上げて、頷いた。

「応急処置ね」

言って、あたしは羽織っていた外套を脱ぐと、その裾の部分をまとめ、彼の患部に軽く押し当ててやった。彼は痛そうに小さく声を漏らした。変声していない彼の悲痛の叫びは、とても少年の物とは聞き取れず、思わず微笑してしまった。

結構かわいい…。

 あたしはまた彼の顔を凝視した。彼はそれに気づくと、無理に微笑んできた。それで、あたしも微笑み返した。

 血のついた外套を脇に避けると、あたしは彼の膝と脛に手をやり、傷口を見つめた。それから軽く舌を唇から出して、患部をそっと舐めてあげた。

 彼は少し驚いたようだった。けれど、適切な処置に違いない事は解っているのか、始めは少し嫌がっていた様だったけれど、やがて何も言わなくなった。あたし自身、少しどきどきしてしまったが、取り敢えず消毒だけでもしておかないと大変だと思い、そうした。

 そうして暫くして、彼は、大変だろうし大分痛みも引いたからもういいよ、と言ってきた。

 あたしは外套で口を拭いながら彼を見上げた。少し恥ずかしそうに頬を染めているのが解ったけれど、別にそんな気があってやった訳でもないので、特に反応はしないことにした。

 あたしはそれから、彼が立てるようになるまで、彼の横にしゃがみ込んでいた…。


 午後の鐘が二回鳴った頃、丁度雨があがり、空が晴れ間を見せ始めた。水溜りは空の蒼を照り返して、まるで鏡のようだった。強い陽光に、洗いたての町並みはなんだか輝いて見え、素敵だった。

 人がちらほらと姿を見せるようになった頃、あたしたちは立ち上がった。アルトスはまだ痛そうにはしていたけれど、普通に歩く事ができるようだった。それであたし達は、出来るだけゆっくりと歩きながら、残りの道を探した。

 結局、町中を歩き回っても見つからない事を確認した時、ファルナに対する悪気も感じながら、空腹を覚え、お昼にする事にした。

 適当に食料品を扱う店舗を探してもよかったけれど、雨の日のためか閉まっている所が殆どだったので、あたし達は軽食を出す店を探して、入る事にした。

 小さな広場に入る小路の角に、二階建ての軽食屋を見つけたので、そこに入る事にした。

 雨の為か時間の為か客の入りが数える程度しか居なかったので、店員はあたしたちに二階の広場に面した、大きな窓のある席を案内してくれた。普段はここから人通りを見渡す事ができるのだろう。

 雨の所為か、外からは気付かなかったけれど、店内は、焼き立てパンの良い香りがした。アルトスは目を閉じて香りを吸い込むと、この匂いは何処々々産の葡萄の酵母を使ってるな、みたいな蘊蓄をたれた。そういえばサスティは、普段は村のパン屋で働いていて、直接見た事はなかったけれど、パン焼きを手伝ったり、酵母の世話をしたりしている、という事を思い出した。あたしがお店に行くときは、彼女は専ら店番で、いつも注文したよりも一つ多くパンを入れてくれた。「樫の盾」では、彼女の店のパンを客に出している。あのパン屋にあたしが近づかなくなってから、大分経つんだ…。

 あたしとアルトスは、二人で適当に、甘パンやら山羊の乳やら燻製やら腸詰やら野菜スープを注文してから、あたし達はお金を見つけられなかった事でこれからどうするかを相談することにした。

 彼は、あたしに謝罪と礼を言った。

「どうして?」

 あたしが訊いた。

「だって、一つに、こんな雨の日に君を連れ出してしまっただろう? もう一つは、怪我をして迷惑をかけたのと、手当てしてくれた事だよ」

 あたしは、どうってことじゃないよ、と返してあげた。

「どうしてお医者様に診せるのが嫌なの?」

 あたしは、テーブルに両肘をつき、彼の表情を探るように訊いた。彼は一瞬、回答に困るような素振りを見せたが、すぐに、お金もかかるし面倒だし、と答えた。

「じゃあさ」あたしが続けた。「後で、お医者様の所に言って、お金を盗られちゃったって事を説明しにいかなきゃいけないと思うのだけれど、それだったらいいの?」

 彼は当惑の表情を見せた。見せながら、小さく頷いた。

「君は、医者を嫌いじゃないの?」アルトスが訊いてきた。あたしは、好きじゃないけれど、あなたみたいに毛嫌いはしないよ、と答えた。「だったら、君に、医者への報告を頼んでしまっていいのかな」

 彼の言葉に、あたしは少し驚いた。

「そんなに嫌いなの?」

 彼はまた、困ったような顔をしてから、小さく首肯した。

「君は平気なんだろ? 頼めないかな?」

 あたしが駄目だから、彼に押し付けようと思ったのに…。医院には、タリタが居る…。

「やっぱり…」あたしは彼の目を上目遣いに覗き込みながら、微笑みを作った。「あたしも、お医者様が嫌い」

 あたしの言葉に、彼も微笑した。

「どうしてって…」彼が言った。「訊いてはいけないかな?」

 あたしは満面に笑みを作りながら、大きく頷いた。

「うん、駄目」

「じゃあ、僕が医者を嫌う理由も話さない」

 彼は言い切った。あたし達は、暫く互いに牽制しあうように視線を飛ばしあった。けれど、お互いに口許が緩んでいるのが解った。やがて彼が笑い出したので、つられてあたしも笑ってしまった。

「解ったよ」アルトスが言った。「僕が行ってあげるよ」

「ほんとう?」あたしが言った。彼は首肯した。「そうだよね、男の子だもんね」

 彼は、苦笑いをした。けれど、なんだか得意そうだった。


 昼食を終えてから、あたし達はゆっくりした足取りで医院へと向かった。先日彼に医院を案内した時は、場所を覚えておこう、みたいな事を言っていたので、あんなに嫌ってみせるなんて、予想外だった。けれど、彼はこうしてあたしの為にも、医院に独りで報告しに行ってくれるのだ。

 医院の前に着くと、彼はあたしに、入口の近くで待っていてね、とだけ言って、扉を開いた。

 中年の看護婦が応対し、アルトスは薄暗い屋内へと消えていった。

 木製の扉が閉められてから、暫く落ち着かなかったけれど、医院の扉の前の、石積の階段に腰掛けて、呆然としている内に、アルトスは出てきた。思ったよりも早かった。

 あたしは立ち上がると、少し深刻そうな表情を作って彼の前に立った。

「…なんて言われたの?」

 彼は、予想に反して、微笑していた。

「金なら、届けられているってさ」彼は歩きながら言った。あたしはその隣を、彼の顔の方を向きながら、歩いた。「ファルナは盗まれてしまったかもしれないことを、既に伝えてあったらしい」

「お金は…?」

 彼は歩きながら、あたしの方を向いた。そして、微笑した。

「手数料一割で、町の自警の連中が届けてくれたんだってさ。本当に盗まれたのかな? 落ちていたらしいよ」

 彼の言葉を聞いて、あたしは少し安心した。ファルナは喜ぶだろう。

「手数料分は、誰が払うの?」

「そのくらいは値引いてくれるって」

 彼が答えた。それであたしは、よかった、と呟いた。

「どうして…」あたしが言った。「医院に届けるんだって、解ったのかな」

「中に手紙を入れてたんだろうね、きっと」彼が言った。「とにかく、巧くいっていてよかったよ。早くファルナに伝えてあげなくてはね」


 「樫の盾」に戻ると、やはりそこにはファルナとレネカが居て、ファルナはあたし達が帰って来るなり、酷く不安げな表情をした。それで、あたし達は微笑んであげた。事情を説明すると、ファルナは非常に安堵した。それから、何かお礼をしたい、みたいな事を言ってきたけれど、ファルナにはその義務がない事を諭し、収めた。代わりに、レネカが夕飯を御馳走してくれる事になった。


 明日には、ラッズが帰って来る…。この数日間、耐えられないかとも思ったけれど、アルトスの御蔭で随分安楽に過ごせた気がする。今日は、なかなかいい思い出になるかも。


今回のテーマ曲はコチラ↓↓↓

「わたしは今日からボクになる」

ニコニコ動画:http://www.nicovideo.jp/watch/sm27618098

youtube:https://youtu.be/aWE9aGwlOfE


※第5章は、9月2日(金)にアップ予定です

※↓↓↓に動画への直リンクあります


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【テーマ曲動画への直接リンク】
第1章:「ボク、オトコの娘」
ニコニコ動画
youtube

第2章:「乳房の迷宮」
ニコニコ動画
youtube

第3章:「林檎の追憶、偽りの彫像」
ニコニコ動画
youtube

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ