第2章 乳房の迷宮
六月十七日
前日は夜が遅かったのと、忙しく動き回った疲れもあって、仕事のあるぎりぎりの時間迄寝ていようと思っていたのだが、この日も、僕は部屋の扉を激しく叩く音で目を覚ましてしまった。ルザート、と呼ぶ声が扉越しに聞こえてきたので、そこに居るのがサスティだと解った。僕は、ちょっと待ってくれよ、と言ってから、両手で自分の髪を適当に少し梳り、扉を開いてやった。
サスティが居た。慌てている割に、口許が緩んでいるのは何故だろうか…?
「大変たいへん!」
彼女の口調は、なんとなくわざとらしかった。
「どうしたの?」
「起こしちゃって、ごめんね。でも、たいへんなの」
僕は故意に煩がる様にしてみせた。
「だから、なんだよ」
「あのねえ」彼女は右手を僕の肩に置くと、少し俯き、笑い顔を左手で隠すようにして、数回、くすくす、と背中を振るわせた。「来ちゃったの!」
来たって…?
「何が?」
彼女は顔を上げた。
「昨日の人! ほら! 貴方と接吻した…」
僕は、本当に驚いてしまったが、出来るだけ表情に出さないようにして、片手を自分の額にあてると、ああ、とだけ小さく叫んだ。
「ラッズってやつか…」
「あのね」彼女が、まだ興奮したままの口調で言った。「昨日、あの人って、わたしたちの片付けを手伝ってくれたでしょ? その時に、多分わざとだと思うんだけれど、上着を忘れていったのね」
はあ…。
「で、それを今日、取りに来たってわけ?」
僕の問いに、彼女は大きく頷いた。
「兵役から帰ってきた他の人たちは、もう今日で帰省しちゃったり町に出て行ったりするのが殆どなんだけれど、彼はまだやり残しがあるからって、隣町に暫く居るみたい」
「でも…」僕が言った。「それが、何で大変な事なんだい? ただ上着をとりに来ただけなんだろ?」
僕の言葉に、彼女は、鈍いね、と言った。
「ラセラに会いに来たに決まってるじゃない」
なんだって?
「あれは、もう昨日で終わった事なんだよ…」
「貴方にはそうでも」彼女は少し悪戯っぽく言った。「あの人やわたしたちにとってはそうではないの」
悪ふざけが過ぎてる…。
僕は、観念したように溜息を一つ、大きくついた。
「で…」僕は自分の長い金紅色の前髪の隙間から、上目遣いに、故意に恨めしそうにして、彼女を見た。彼女は全く動じた様子をみせずに、ただ口許を緩めていた。「僕はどうすればいいんだ?」
彼女は頷いた。
「あの人、さっき『樫の盾』に来たときに、今日はラセラはいないんですか、って訊いてきたの」
「何て答えたの?」
「昼頃には顔を出すと思うから、後でもう一度来てください、って」
まったく…なんてことするんだよ…。
「今から行くべき? 今日、鍛冶の仕事があるんだよなあ…」
「うん。今から来て。仕事の方は、ファルナがなんとかしてくれると思う」
色々と心配があったが、起きしなという事もあり、僕は彼女に言われる儘にし、どうせすぐに着替えるのだから、と、今日もよれよれの服の儘、「樫の盾」に向かった。
勘定台では、レネカが薄笑みを零していた。女って、良くわからない生き物だ、と、心底思った。
然し、まあ、ラッズと接吻したのは僕にも責任があるのだから、或る程度は仕方あるまい…。
僕はサスティについて階段を上ると、レネカの部屋へと入った。今日はサスティ一人だけだったが、彼女は何時もよりも女の子っぽい色合いの服をえらんだ。レネカの洋服箪笥にあるのは、殆どが大人の女性に見せるものだったが、そういう服も数着はあった。レネカが着ると、また違って見えるのだろう。
素膚でも充分すぎる位女の子に見える、とサスティは言ったが、年頃の娘が全く化粧をしないのも可笑しいというので、薄らと白粉を入れ、紅を引いた。また言葉遣いに気をつけなくてはならないのだと思うと、少し気が重かった。思えば、この二日間、女装をしている時間の方が長かった。
ラセラが完成すると、今度は僕が先頭になり、階段を下りた。すると、食堂には既にラッズが居り、早い昼食をとっている所だった。
彼は僕に気付くなり微笑むと、やあ、と声をかけて来た。僕は一瞬狼狽えたが、レネカの方に視線を向けると、彼女は頷いたので、ゆっくりと歩をすすめると、女性らしい仕草に気をつけながら、ラッズの向かいの席に座った。サスティは、何故かついてこなかった。どうやら、階段の陰の所で僕等の会話を盗み聞きする心算らしい。まあいい。
「…どうしたの?」
パンを千切るラッズに向かって、僕が言った。
「ちょっとね…」彼は、千切ったパンを口に運び入れながら、言った。「君に頼みがあって」
僕に頼み…?
彼の言葉に、僕は少し驚いた。純粋にラセラを目的にしてやってきたのだと思っていたからだ。
「頼みって?」
「うん」彼は躊躇った様に視線を泳がすと、最後に僕に合わせてきた。「まあ、後で話すよ。食事を終えたら、少しだけ散歩に付き合ってくれるかな」
僕はまたレネカの方を見た。彼女は仕草で以って、さあ、と知らない風にしたので、僕はラッズに向きなおり、いいよ、と言ってやった。
「少し歩くよ」
彼が言った。
「目的地があるんだ」
僕の言葉に、彼は頷いた。
「隣町まで。そこに、僕が兵役前に働いていた工房があるんだけれど…」
「工房?」
彼は首肯しながら、ああ、と答えた。
「後で付いてくれば解るよ」
僕は少しだけ不安になりながら、彼が食事を終えるのを待った。
レネカに一応断ってから、僕等は並んで「樫の盾」を出た。
空には大きな入道雲が沢山浮かんでいたが、これ以上ないくらいに青い空に全身を見せる太陽の光はやはり刺す様で、僕等は少し汗をかきながら、ゆっくりと歩いて行った。
暫く僕等は何も話さずに歩いていたが、国道に差し掛かると、僕が彼に話しかけた。
「工房って言っていたよね」彼は頷いた。「何の工房なの?」
僕は出来るだけ彼が親しめるような声で、話してやった。彼は微笑した。
「それは、町に着いたら解るよ」
そうだった。隣町なのだった。そこには、タリタが居る。彼女は何時まで入院なのだろうか? そういえば、母親は向こうで付きっ切りなんだよな。彼女とラセラは面識がある。まあ、会うことはないだろうが…。
「頼みっていうのは?」
僕が訊いた。
「それも、工房に着いたら解るよ。ただ、僕は昨日君を初めてみて、頼めるのは君しかいない、と、確信したんだ」
何だか気障な科白だと思ったが、凛々しいこの少年に、否、青年か、に言われると、不思議と全然悪い気がしなかった。
やがて僕等は町に入った。町、と言っても大きな町ではなく、僕が幼少期を過ごした町と同じくらいの落ち着いた静かな雰囲気を持った町だった。タリタを連れてきた時はそうではなかったが、今は市が立っている様子で、町の広場の方からは雑踏が微かに聞こえてくる様だった。
ラッズは僕よりも半歩前を歩く事で、僕を誘導してくれた。道を挟む建物は皆二階建て以上で、太陽との位置関係によっては、陰になって暗い所もあった。あんまり歩かない内に彼は大通りから真暗な横丁に入り、やがて、二階建ての古びた白い建物の中に入った。
木製の扉は開け放しにしてあり、其処から見える内部は、随分と混雑していた。砕けた大理石や花崗岩の大小の破片が白い壁の廊下に転がっており、その白い石造りの壁にも、所々鑿で削ったような変な瑕があった。
彼は僕の手を取ると、気をつけてね、と言いながら、ゆっくりと奥へと誘導してくれた。採光の仕組みが上手くいっているのか、一階にもかかわらず、日光が取りいれられており、それが白い壁に反射して、可也明るかった。そこは細長い廊下で、右側に二つ程、木製の開け放たれた扉があり、中を覗く事が出来た。彼は立ち止まらなかったが、僕はそれぞれの中を少しだけ覗く事が出来た。見ると、どちらの部屋も、廊下と同じように石の破片が転がっていた。箪笥や机や、生活するための用品が幾らも見られたが、どれも使える様な様子ではなかった。ただ、転がっているのは石だけだったし、日光の反射が美しかったので、廃屋には違いなかったが、汚いという雰囲気は全く無かった。
僕はラッズに手をとられたまま、二階へと上がっていった。僕はこの頃には、ここが何の工房であるか位の見当はついた。
階段も石造りで、一段々々の角がとれて、まるで風解してしまったかの様になっていたが、何故か二階への扉だけはきちんと閉められており、古びた感じがなかった。僕がそのことをラッズに訊くと、彼は、昨日の内に、少しだけ使える様にしておいたんだ、と、嬉しそうに答えてくれた。
彼は二階の扉を開けた。
そこは、大きな部屋だった。一階には廊下と部屋が二つあったが、二階には、階段から直接繋がった扉の向こうの、この部屋一つしかない様だった。天井は両流れの石造りで、そこに大きな硝子張りの採光窓が二つ程取り付けられていた。壁はやはり真白で、採光窓からの光を幾重にも反射させ、部屋の中にある物は全て、幻想的に輪郭をぼかしていた。壁に取り付けられた窓は全て開け放してあり、風通しが良かったので、光量の割には涼しかった。
僕は少し驚きながら、彼の前に立ち、先に中に入った。床には相変わらず石の破片が転がっていたが、彼が掃除したのか、全て壁際に寄せられており、堆く山を作っていた。御蔭で部屋の中心あたりの床は平面になっており、そこには、どうやって運んできたのか、人の大きさ程の四角く切り出された大理石が鎮座していた。
僕は両手を腰の後ろに廻し、ゆっくりと中を見渡した。それから微笑するとラッズの方を向いた。
「貴方って…」僕が言った。「石工さん?」
彼は笑うと、そうだよ、解っちゃったね、と答えた。
彼は部屋の中心へと歩むと、大理石に手を掛けた。
「一年以上前の話だけれどね…」彼は大理石の上の方に目を遣りながら、語り始めた。「僕は十六だった。そのときはここはまだこんな風になってなくて、ちゃんと工房として機能してたんだ。親方が居てね…。僕を十歳の頃から指導してくれた」彼は僕の方に視線を投げてきた。真剣な眼差しだった。「親方は、まあ死んじゃったんだけれど…」彼は少し遠い所に視点を置いた様だった。「俺さ、親方に、やっと一人前だって認めてもらえる様になってさ、それで、仕事を一つ任されたんだ。十六の頃の話ね」彼は念を押すように言った。「それで、俺、女神像を彫る事になったんだ。仕事の依頼が、この町の教会からだったものだから。それで、親方は俺に大理石を一つ与えてくれた」彼は、目の前の大理石を幾度か叩いた。「これさ」
僕は、彼の話はなんだか突拍子もない様な気がした。
「それじゃあ…」僕は呟く様に、口紅の唇から声を漏らした。「一年以上も、その石は此処にあったっていうこと…?」
彼は険しい眼差しを僕にぶつけると、勇ましく頷いた。
「少し角が取れてしまっているけれどね。二日前に首府から帰ってきて、ちょっと驚いたよ。元々廃屋にしてしまうつもりで出て行ったのに、この石は健在だったものだから…」
「話を続けて」
僕の言葉に、彼は頷いた。
「それで、この石を貰って、彫る事になったんだ」
「親方は…」僕が言った。「何時亡くなったの…?」
「丁度その頃」彼が言った。「元々歳だったしね」
「落ち込まなかった…?」
彼は少しだけ首を捻ると、何やら考える様な仕草を見せ、それからかぶりを振った。
「あんまりだったね。でも、励みにはなったよ。親方が託してくれた、最初で最後の仕事だった訳だから」
でも、大理石には全く彫った跡がない…。
「どうして…」僕は出来るだけ彼の気に障らない様に、彼の目を見詰めて、落ち着いた風に言った。「彫らなかったの?」
彼は苦笑した。
「彫れなかったんだ」
「親方さんが亡くなってしまったから…?」
彼はかぶりを振った。それからまた大理石の天辺を見上げると、遠い目をして見せた。
「何時の間にか一年半も経ってしまったんだ…」自分に言い聞かせる様だった。「彫ろうとは思ったんだけれどね」彼は言って、僕の方を見た。「見本となる人がいなかったんだ。否、ちょっと違う…」彼は自分に向かってするかのように、かぶりを大きく振った。「いたんだ」
「よく話してみせて」
僕が言った。彼は少し躊躇うような素振りを見せてから、首肯した。
「僕が十六の頃にね」彼は僕から視線をそらした。「好い人がいたんだ。同い年の」
僕は、出来るだけ詮索しないように、その人が見本だったの、と訊いた。
「の、予定だったんだ。その娘とは一年位の付き合いだったんだけれど…」
「…別れちゃったの…?」
彼は頷いた。
「兵役前に女神像を作って、勿論教会に納めるんだけれど、それを彼女に捧げてやろうと思ったんだ。けれどもね、兵役って、一年間もあるだろ? 彼女だって、一年間も会えないのは寂しいと思ったんだろうけど…」彼は微笑した。「頼む頃にはもう他の男と並んで歩いていたよ」
彼の言葉に、僕は出来るだけ悲しんだ表情をしてみせた。どういう言葉をかけてやればいいか解らなかった。少しだけ、不憫に思った。
彼は、一つだけ咳払いをした。
「まあ、その頃には親方もいなかったしね。僕も十七になる少し前だったし…。或る意味、丁度よかったかな、って思った」彼は石から手を離すと、僕の方に体を向けた。「教会は無論僕が兵役に行ってしまうのを知っていた。司祭様が善い人でね、僕が兵役から帰ってくるまで女神像の完成を待つ、って言ってくれたんだ。で、僕はそれだけを望みにして、まあ、兵役の一年を過ごしてきたって訳。今、僕は十八…」彼は笑った。「なんだか、あの頃から二歳しか違わないのに、凄く昔の事だった様な気がしているよ…」
彼は薄く笑むと、僕の方にゆっくりと歩み寄ってきた。
「それじゃあ…」僕は囁く様に言った。「女神像は、これから造るの…?」
彼は首肯した。
「もう解っただろう? 僕が君に、何を頼みたかったのか」
僕は彼の輝く瞳を見詰めながら、ゆっくりと頷いた。それで、彼は笑った。
「あたしが…」僕が確認するように言った。「見本…?」
彼は大きく頷いた。
「引き受けてくれると嬉しいな。勿論、それなりのお礼はする心算だし」
僕はいきなりの決断を迫られて、少し戸惑った。
すると、彼は何処から摘んできたのか、大理石の傍に置いてあった新鮮な赤い花、名前は解らないが、を取り上げると、適当な長さに茎を折り、僕の結わった金紅色の髪に挿した。
「よく似合ってる…」
彼は言うと、僕の全身をじろじろと眺めてきた。僕は恥ずかしくなって、頬を染めたに違いない。
「…ありがとう」
僕は無理に笑って、そう言った。
「もし…」彼が言った。「君が、僕が昔の好い人に君を重ねているのだと思ったら、済まない。自分でも解らないけれど、そうかもしれない。その花は、時々その娘が髪に挿してたんだ…」言って、彼は僕の髪を少しだけ撫ぜた。「完成には、一ヶ月以上かかる…」僕は彼の目を見上げた。「でも、見本になってくれると嬉しいな…。昨日君を初めて見て、見本にするならこの娘しかない、って…思ったんだ」
「でも…」僕が小さく言った。「あたしなんかじゃ…」
「大丈夫だよ」彼が言った。「恥ずかしがる事なんてない。君は、女神なんかよりも綺麗だから」
気障な言葉だとは思った。けれど、僕は彼の言動に酔ってしまった。彼はもう一度、お願いだ、と言ってきた。
「…うん…」
承諾してしまった…。なんてこった!
彼は大きく笑むと、僕を軽く抱きしめてきた。それから、有難う、と言った。
とりあえず、道具の準備があるとかで、今日は作業をしないとの事だった。それで、僕等は二人並んで、町の中を色々と歩いた。彼は人込みを嫌いだと言ったが、折角市が立っていたので、そこに立ち寄る事にした。昔見たような装飾品の露店があり、彼はそこで、記念に、と言って、綺麗な真珠色の小さな巻貝の耳飾を買って、僕の耳に付けてくれた。
彼は、僕が実は男だと知ったら、どんな顔をするんだろう…。
彼は、結局「樫の盾」まで僕を送ってくれた。そして、明日も昼頃に迎えに来る、と言った。僕はなんだかいい気分だった。
夕方、レネカの部屋で僕の化粧を始末しながら、サスティとファルナが今日あった事を色々と訊いてきた。僕が、彼の女神像の見本になるのだ、と話してやると、予想通り、二人とも声をたてて笑った。僕にとっては全然笑い事ではなかったのだが…。
「それじゃあ…」ファルナが言った。「女神像が出来上がるまでは、毎日女装ね」
僕は、微笑むサスティを見た。
「サスティ」彼女は、なあに、と返してきた。「どうしてくれるんだよ」
「あら」彼女は明るく言った。「貴方にだって、責任はあるのよ。それに、これは遊びなんだから。女神像が出来上がるまでの。えへへ」
「でも、彼は不憫だよ。僕を、昔の彼女と重ねているんだよ。実は男だなんて事が解ったら…」
「騙される方にも、責任はあるわ…」ファルナが少し真剣な面持ちで言った。「勿論、騙す方にも、だけれどね」
「僕はなんだか、嫌な予感がするよ…」
「大丈夫よ」サスティが言った。「もしも、って時は、わたしが助けてあげるから」
言われて、僕は余計に心配になってしまった。
六月十八日
朝。気分が重かった。而も、外は雨だった。遠くの黒雲の為に灰色に見える硝子窓に当たる雨垂れが、更に雰囲気を暗くした。仕事はファルナが説得して、暫くの無給休暇を貰ってくれたが、どの道雨では上手く鉄が焼けまい。あんまり休むと、首にされるだろう。町で皿洗いの仕事でも見つけた方が、ラセラには合っているかもしれない。でも、こんな生活を一ヶ月以上も続ける事は不可能だ…。やはり、断ってしまうべきなんだろう。
僕は雨天用のローブを羽織ると、雨の中、「樫の盾」へと向かった。気分は乗らなかったが、ラッズはこんな日でもやってくるだろうと思った。
着くと、サスティはまだだった。ファルナも居なく、レネカだけが暇そうにスープの鍋を掻き回していた。
僕はサスティがやってくるまで、レネカと話をした。レネカは、こんな日にも迎えに来るのかしらね、と言った。
「恐らくは、来ると思いますよ」僕が答えた。「本当に、厭なんですけれどね」
「でも、貴方が承諾したんでしょう? 女神像の完成までは付き合ってあげなくちゃね」
彼女の言葉に、僕は苦笑をして頷いた。
「昨日は、なんだか雰囲気に酔わされたんですよ」僕が言うと、レネカは笑った。「ラッズの巧妙な話術にね」
「引っかかった貴方も傑作だわ」
僕は故意に、怒ったような表情をしてみせた。
「でも、なんとか断る方法はないですかね。今からでも」
「本当に厭なの?」
笑ったまま、彼女が訊いて来た。
「そりゃあ、厭ですよ。僕は男なんですよ」
彼女はそれで、一つ堰をした。
「それならば、口ではっきりと言うべきね。今ならきっと彼も傷つかないだろうし。彼だって、断られる時はそうして欲しいだろうし」
僕は小さく、そんなものですかね、と返した。と丁度その時、ローブを羽織ったサスティが入ってきた。小走りに来たらしく、僕等に向かって、お早う、と挨拶をすると、少しだけ肩で息をし、ローブを脱ぎ、雨粒を出来るだけ掃ってから、器用に畳み始めた。
「ねえ、サスティ」僕が言うと、彼女は、なあに、と返してきた。「僕、やっぱり断る事にするよ。気が乗らないんだもの」
サスティは少し驚いた様な目で、僕の方を見た。それから直ぐに、それじゃあ、仕方ないね、と残念そうに言った。
「でも、今日の分は女の子の恰好しないとね。来るんでしょう? 彼」
僕は頷いた。流石に、実は男でした、なんて落ちを突きつけるのはきついだろう。
それで、また二階のレネカの部屋に二人で篭ると、サスティは僕に女装を施してくれた。
完成すると、彼女は僕をまじまじと見て来、惜しいなあ、と漏らした。
「でも、どうやらお遊びは今日でお仕舞いみたいね」
彼女の言葉に、僕はゆっくりと頷いた。僕は、女装は恐らくこれで最後だと思ったので、暗い部屋の壁に掛かった鏡に映る自分を丁寧にみまわした。確かに、結構な美人かもしれない。
「ところで…」僕がサスティに向かって言った。「どうやって断るのが一番いいんだろう?」
僕の問いに、彼女は首を少しだけ傾げ、ううん、と声を漏らした。
その時、レネカが下から声を張り上げて呼びかけて来るのが聞こえた。
しまった! もうラッズが来てしまったのだ。予定より早いじゃないか。
サスティが大声で、はあい、とレネカに返事をすると、僕に向かって、どうするの、と慌てて訊いて来た。僕は、どうしようかなんて、まだ決めてないよ、と答える事しかできなかった。すると、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。レネカはラッズを引き止めておいてくれなかったのか?
「どうしよう、どうしよう」
僕がサスティに、地声の儘小さく言った。
「ちょっと待って、って扉の向こうに言うのは、可笑しいよね。何をしているんだろう、って思われたらいけないし…。取り合えず、今日は我慢してついて行ってあげたら?」
僕は大きくかぶりを振った。
「そういう訳には行かないよ。ついていったら、益々断りにくくなってしまう」
僕の声に、サスティは、しぃ、と言った。僕は慌てて自分の口に手を当てた。
扉の向こうから、ラセラ、と呼ぶ声が聞こえた。それから、扉を数回叩く音もした。
「はあい」
扉に向かって言ったのは、サスティだった。
「馬鹿! 君が返事してどうするんだよ」
「どの道わたしはここにいるんだから、いいでしょ」
彼女は少しだけ苛立った様に言った。
開けるのか?
まあいいのか。どんな断り方をしようと、断るには違いない。
僕は扉の方に歩を進めた。瞬間、サスティに両手で体を押さえられてしまった。そしてその儘レネカの寝台に寝かされると、リンネルの布団を被せられた。
「何をするんだよ!」
「しっ」彼女は口の前に、立てた人差し指を当てると、言った。「今日は取り合えず、風邪をひいてるって事にしよ!」
何だって…? また彼女は事をややこしくする心算なのか?
僕は仕方なく、風邪で発熱して眠っている様にした。また彼を騙すのか…。
僕の準備が万全だと判断すると、サスティが慌てて扉を開いた。
そこには、ラッズが一人だけで居た。それで、サスティを見るなり、お早う、と言った。僕は目を閉じているので解らないが、僕に視線を移したのだろう、サスティに、ラセラはどうしたのか、と、声を低くして訊いていた。彼女は、どうやら風邪をひいてしまった様で、準備だけはしていたのだけれど、でもやっぱり体調が優れないので、寝ているの、と答えた。それから、そっとしてやってね、とも。ラッズは彼女の言葉に、それは大変だ、と答えた。そして僕の寝台の傍まで寄ってきたのだろう、足音が近づいてきた。それから額の所に暖かい物が迫ってきたかと思うと、ラッズの手が置かれた。
「確かに、少し熱があるみたいだ…」
それは多分、ラッズが雨に打たれてきたから、自分の体温が低い所為だろう。
「ごめんなさいね」
サスティが、謝ってみせた。その言葉にラッズは、いやいや、と言った。
「そうか。じゃあ、折角だけれど、今日は無理みだいだね」彼は僕の額から手を離した。「それじゃあ」サスティに向かって言った。「彼女が起きたら、昼過ぎに見舞いに来る、と伝えておいてくれるかな」
彼は言った。僕は、それは困る、と思ったが、サスティは、解りました、と答えてしまった。まったく…彼女は、故意にこういう展開を導いているんじゃないのか…?
彼はそのまま暫く僕の方を向いている様だったが、やがてサスティに、じゃあ後で、と告げると、部屋から出て行った。一階で、レネカとなにやら話しているのが薄らと聞こえたが、詳しい内容は聞き取れなかった。レネカも上手く取り繕ってくれていれば問題はないのだが…。
僕はゆっくりと目を開けた。そこには、口許を緩めたサスティが居た。僕は布団を鼻の所まで被ると、故意に恨めしそうな目で彼女を睨んでやり、どうしてくれるんだよ、と言った。彼女は少しだけ表情を暗くし、悪い事をしたと思ったらしい、ごめんなさい、と謝ってきた。
「なんだか、余計悪くしちゃったみたい…」彼女が言った。「わたしにも、責任ができちゃった」
否、それはもっと以前からあったぞ。まあいいが。
「兎に角、昼からまた来るんだろう? 今日は一日中この儘かあ。外は雨だからいいけどさ。仕事だって、どうせ中止だろうし」
僕の言葉に、サスティは少しだけ安堵の表情を見せた。いつもはしゃいでばかりのサスティがこんな表情を見せるのは稀だった。僕は、はしゃいでいる彼女の方が可愛いと思った。
昼まで、僕は本当に寝台の上で寝た儘だった。もっと歩き回りたかったが、何時ラッズが来るとも知れなかった。けれども、サスティが寝台の僕の頭の横の所に椅子を持ってきて、僕の話相手をしてくれたり本を読んだりしていたので、あまり退屈ではなかった。
ラッズがやってきたのは、教会の塔の鐘が四回鳴ってからすぐだった。僕は起きている事になっていたので、午前よりも緊張した。サスティもなんだか慌しく椅子の位置を変えたりすると、扉の方に寄っていった。まだ階段を上る足音がするだけで、サスティはそれに耳をすましていたようだったが、やがて扉が叩かれた。
サスティは一瞬、吃驚したような素振りを見せたが、すぐに扉を開けた。僕は目を開けていたので、其方を見ることが可能だった。そこには、手に一輪の赤い花、昨日僕の髪に挿したのと同じ物、と、一個の林檎を持ったラッズが立っていた。僕はなんだか申し訳ないような気がしていたが、目が合うと、彼は微笑んでくれたので、僕も微笑み返した。
サスティはラッズから花を受け取ると、レネカの寝台の横に置かれた小さな物入れの上に立てられた空の花瓶を取り上げ、部屋を出て行ってしまった。
ラッズは僕のすぐ横までくると、少し心配そうに僕の顔を見下ろして来た。僕は何だか恥ずかしくなって、多分頬を染めただろうが、薄く笑んでやった。彼はそのまま僕の額に手をやると、まだ少し熱があるみたいだね、と言った。それは可笑しいと思ったが、なんだか嬉しく感じた。いやいや、まさか。また、彼の雰囲気に酔わされているのか…? 気をつけなければ。
彼は林檎を軽く上に投げ、掴みなおすと、先刻までサスティの座っていた椅子を再び僕の顔の横まで持って来、座った。そして、何処から取り出したのか、小さな果物ナイフを僕にちらりと見せ、器用に林檎の皮を剥き始めた。石工だと、やっぱりこういう作業も得意なのだろうか?
「今日…」僕が呟く様に言った。「行けなくて、ごめんなさいね…」
彼は笑った。
「いいよ、いいよ。君の体の方が大切だ」
その言葉に、僕は笑んだ。
「林檎の剥き方、上手ね」
僕が言った。
「生業だからね」
彼は本当に要領よく林檎を剥き終えると、食べ易い様に八等分した。そしてその一つを手で摘むと、僕の口に運んでくれた。僕は微笑しながら、彼の手から林檎を食べた。一口で食べられる大きさだとは思ったが、ラセラが一口で食べたら彼は驚いてしまうだろうと思い、三回に分けて食べた。そうして、僕は二切れだけを食した。もう充分、というと、彼はもっと食べた方がいい、と心配してくれた。が、本当に充分だと言う事を察すると、彼は残りを全て自分で食べて見せた。
サスティが、花瓶に花を生けた物を持って入ってきた。彼女は元の位置に花瓶を置くと、ラッズに挨拶をして、邪魔するのは野暮だから、と、部屋を出て行ってしまった。彼女の事だから、恐らく扉の向こうで盗み聞きでもする心算なのだろう。
「本当は、君の髪に飾ろうと思って持ってきたんだけれどね」彼が扉の方を見ながら言った。「生けられたんじゃ、諦めなくてはいけないな」
「でも、綺麗な花…」僕は彼の目を見て微笑してやった。「有難う」
彼は、どうってことないよ、と返してきた
「もう、眠る?」彼が言った。「身体は怠くない?」
僕は、またリンネルの布団を目の下の所まで持ち上げると、軽くかぶりを振った。
「先刻まで、眠っていたもの」
彼は、そうだったね、と言った。
「それじゃあ、少しだけお話の相手をして、帰ろうかな」
僕は小さく頷いてやった。
「石彫りのお話をしてくれる?」
僕が言った。特に目的はない話題だったが、彼が一番語り易いと思ったのだ。
彼は頷いた。
「うん、それについては、彫る前に少しだけ君にも知って貰いたいと思っていた事があるよ」
意外な言葉だった。
「見本も、彫刻に就いての知識が必要なの?」
僕の言葉に、彼は少しだけ首を傾いでみせると、向き直り、そうだね、と言った。
「僕が石を彫る時に、どんな事を考えながら作業するのか、っていう話」
「彫っている時に、考え事をするの?」
彼は微笑した。
「考え事って程じゃないよ。ただ、石を彫っている時、石工の目標は、ただ形を作る事だけじゃないんだ」彼は小さく咳払いをした。「先ずね、石工は、彫る物を決めたら、彫る石を見詰めるんだ。そうすると、その石の中に、彫る物の形が見えてくる。解るかな?」僕は首肯した。「つまり、石工は見本を真似て石を彫り、形作るという訳ではないんだね。彫る前の石の中に、そのものの形が見えてしまっているのだから。すると、彫る時に考える事は、石を削って見本を真似て、完成させよう、というだけでは済まなくなる」
「他の事を考えるの?」
彼はかぶりを振った。
「同じ事に対して、違う考え方をするんだ」彼は僕に鋭い視線を向けてきた。「強いて言うなら、彫られる前の石の中に埋められてしまった見本を、周りの石を削り落とす事で助け出してやる、って事。よく言われる事だけれどね」僕は、訊いた事がなかった。「つまりね」彼は続けた。「今回の女神像の製作に於いて、僕は、石の中に埋もれてしまった君を助け出そうとしているんだ」
僕を助け出す…。
「あたしを助け出す…?」
彼は頷いた。
「僕は、君を助け出すんだ」
彼は真面目な面持ちに口許だけを少し緩めて、誇らしげに言った。
言われた瞬間、何故だか、胸が、どき、としてしまった。
「だから、君は見本であるけれど、君の目の前で石を彫り続ける僕は、石の中にしか君を見ていないかもしれない、って事を解っていて欲しいな」
僕は彼の優しげな眼差しに、リンネルからはみ出した瞳と眉だけで笑んで見せた。すると、彼は満足げに微笑を浮かべ、数度、頷いた。
それから少しだけ僕等は別の取り止めのない話をすると、彼は、無理するのはよくない、と言って、暇を告げた。
別れ際、彼は、早く元気になってね、と言い、僕の額に軽く接吻をして言った。僕は、少しだけ頬を染めたと思う。
いけない。彼の雰囲気に酔わされては…。
六月十九日
目が覚めた時、寝台際の窓から射す陽は、南中する少し手前頃だった。僕はラセラのまま…。そうだ…昨日、あのままレネカの寝台で寝たのだ。それで、レネカは客室の寝台で寝ている。なんだか、芝居にしては手がこんできたな。
僕は寝台から上体を起こすと、床に足を着け、立ち上がった。この間の特訓の御蔭で、この恰好にも随分と慣れてしまった。あんまりいい気分ではない。本当に風邪をひいてしまったように、身体が怠い気もする。
服が皺だらけだったので、替えなくてはならなかった。自分でも着られるとは思うが、どの様な服が相応なのかが解らない。一階にサスティが来ているといいのだが…。
僕は取り合えず部屋を出ようと思い、一回だけ大きく伸びをすると、結われた儘の髪を適当に少し手櫛で梳り、扉に向かって歩いた。
不図、寝台の頭の所の、花瓶の置いてある物入れが、周辺視野の随分端の方に入った。花以外に、なにやら光る物が見えたのだ。
振り返って近寄ってみると、そこには大きめの真鍮の器があった。そしてその中には水が並々と張られており、赤と黄色がかった白との二色で模様のつけられた球体が浸されていた。
僕は、訝りながら、左手でその球体を摘み上げてみた。
それは、林檎だった。林檎ではあったが、細工が施されていた。表面に彫刻刀があてられ、文字と絵が刻まれていたのだ。文字は、こうかかれていた。「私の幸せ、それは貴女の健康と愛」。絵は、装飾リボンと、髪の肩まである女の子の影絵だった。随分と丁寧に彫られており、とても林檎とは思えない状態だった。
「ラッズが来たんだ…」
僕は思わず呟いてしまった。午前中に不覚をとられてしまったらしい。寝顔を見られたのは、ぞっとしないが、悪い気分ではないと思った。
それにしても、なんと律儀な少年なのだろうか。
真鍮の液体は、どうやら塩水の様だった。このままにしておけば暫くは保存が効くだろうが…。
僕は結局、林檎を取り出して窓辺に置いた。直射日光を浴びるし、空気にも触れるので、すぐに変色してしまうだろうとは思ったが、こうして陽にさらした方が、この林檎には相応しいと思えたのだ。真鍮の中では長持ちしても、林檎の彫刻は美しく見えない。
不意に、昨日ラッズが話していた言葉を思い出した。この林檎の場合、「助け出す」という表現は当てはまらないな。でも、余分な物を取り去った、となら言えるか…。
僕はそのまま暫く林檎を眺めていたが、やがて真鍮の器だけを持って、部屋を出て一階の食堂へ入った。そこにはレネカとファルナが居た。
「本当にそのままで寝たのね」
ファルナが微笑しながら言った。僕は、レネカに無言で真鍮を渡しながら、頷いた。
「この恰好で眠ったのは初めてだよ」
僕の言葉にファルナは、その恰好で男の声は、気持ち悪いわね、と言った。
「朝…」レネカが言った。「あの子が来て、置いて行ったのよ」レネカは真鍮の塩水を調理場の流しに捨てた。「お礼を言っておかなくちゃね」
僕は頷いた。
それから、ファルナに、服を選んで欲しい事を告げた。
「どうして? 今日は、ラセラでいる必要はないんじゃないの?」
「折角来てくれたんだから、今度はこっちから出向いてやろうと思うんだ。とりあえず、林檎のお礼と、風邪はもう良くなった、って事を伝えないと」
「断るんじゃなかったのかしら?」
レネカが言った。
僕は頷いた。
「けれども、今は機会ではないですよ。もう少し様子をみないと…」
場合によっては、女神像の完成するまで付き合う覚悟もあった。
ファルナはそれで、了解してくれた。着替えながら思ったのだが、どうやら僕とラッズの間柄を楽しんでいるのは、サスティだけではないらしい。皆は、僕に女装を続けさせたいのだろうか? 女の人の考える事は良くわからない。
着替え終えてから薄く化粧をして貰い、一階で軽く食事をとると、僕は隣町に向かって国道を進んだ。林檎のお礼になるものを何か持って行きたかったが、ラッズの事だから、返って気を使わせてしまうと思い、やめることにした。取り敢えず僕が顔を出せば、彼は喜んでくれる筈だ。
一度しか彼の工房には行った事がなかったが、行き道は解っていた。タリタの居る医院からは、少し離れている。
一階の瓦礫の廊下に向かって一言声を掛けるべきか悩んだが、ラッズは恐らく二階に居るだろうという予想は出来ていたので、そのまま二階への階段を上がり、木製の扉を叩く事にした。
返事が飛んでくるかと思ったが、それはなく、暫く沈黙が続いた。それで、も一度叩いてみようと思い、拳骨を作った。途端、扉が勢いよく開いた。そこには、満面の笑みのラッズが居た。
彼は、一瞬言葉に詰まった様に視線をそらした。
「もう、大丈夫なの?」
彼の言葉に、僕は薄く笑んでやると、うん、と言いながら首肯した。それで彼も、も一度笑った。
それから彼は工房の中に入れてくれた。相変わらずの白く広い部屋に、天井の採光窓からの光が反射して幻想的だった。ただ前回来た時と違うのは、壁に寄せられていた瓦礫の山が多少片付いている事と、部屋の一角に古びた木製の机が置かれている事だ。古い苔が木の木目にそって埋められる様になってしまい少し緑がかったその机の上には、何かを書いた紙が数枚と、インク壺と羽筆が置かれていた。つい今まで、何かを作業していた形跡がある。机の上に横たえられた羽筆の先に吸われた黒いインクが全く乾いていなく、壁や床からの環境光を反射して黒光りしている。
「何をしていたの?」
僕は部屋の其処此処に視線を泳がせながら、先に部屋の中に入り、腰の後ろで両手を組み片足で半回転し、スカートと今日は結わえていない降ろしたままの金紅色の髪とで滑らかな回転軌道を描きながら、ラッズの方を向き、訊いた。
「君が元気になるまでに、彫る女神像の形を決めようと思ってね」彼が机に向かいながら言った。「幾らか案を描いていたんだ」彼は机の上の紙を一枚取り上げると、僕に見せてきた。「羊皮紙だよ。勿体無いとは思ったけれど、親方が大量に残していったものだから、使ってしまったよ」
彼の差し出した紙には、黒インクで書かれた人の素描が六通り程描かれていた。
「この中から選ぶの?」
僕が訊くと、彼は頷いた。
「どれがいいと思う?」
言われても、僕には解らなかった。彼自身の中では大まかな構図は完成されているのか、素描はそれぞれ小さな違いしかなかった。どうやら彼は、女神が手に持っている豊穣を表す林檎の位置について、迷っている様だった。六つの絵はそれぞれ、両手で掲げる様に林檎を持っていたり、片手で同じように持っていたり、胸に抱き寄せる様に持っていたり、片手で腰の高さで持っていたりした。どれが良いか、と訊かれて、取り敢えず僕は一番女性らしいのが教会には似つかわしいだろうと思い、胸に抱き寄せている物を選んだ。僕が、これがいい、と言うと、彼は、俺もこれがいいと思ってた、と答えた。
「今から彫るの?」
僕が訊いた。彼はかぶりを振った。
「見本をするのは、ただ立っているだけに見えて、結構疲れるんだ。だから、病み上がりの君にそんな事をさせる訳にはいかないな」彼は言うと、少し考える様に手を持ち上げると、拳骨から突き出した親指で顎を押さえた。「彫るのは明後日からにしよう」
「明日は?」
僕が間髪を容れずに訊くと、彼は少し驚いた様に僕の目を見てきた。実のところ、僕自身も驚いていた。自分がここでそんな事を訊く理由が、よく考えると見当たらないからだ。ただ、明日一日ラッズと会わないでいるのはあまりよくない様な気がしていた。これは、どういった感情なのだろうか? よく解らない。僕は、彫刻に関係なく、ラッズに会う事に何の必要性を感じているのだろうか? 本当に掴みきれない感情ではあるが、落ち着いてから否定しなくてはならない気がした。が、取り敢えず今は自分の気持ちに従うしかない。もう言ってしまったのだから。
「明日?」ラッズが訊き返してきた。「明日は別にいいよ。休んでいてくれればいいよ」
「ラッズは、『樫の盾』に来るの?」
彼は少し微笑すると、不思議な物を見るような素振りを見せた。
「どうしたの?」
彼に言われて、僕は少しだけ我に返った様になり、少しだけ間を置くと、うつむき、小さく数度かぶりを振った。
「なんでもない…」
僕は囁くように言った。
「風邪がなおったばかりで」彼は微笑したまま言った。「身体の調子が悪いのかな?」
言われて僕は、ううん、と否定した。
「身体はもう大丈夫なの。熱も下がっているし」
彼はやはり訝っている様子で、少し俯いたままの僕の周りをゆっくりと歩き回るのが周辺視野に入った。敢えてそっちには視線を動かさなかったが。
「元気なら」彼が急に言った。「少し外を歩こうか。今日は市が出ていないから静かだけれど」
僕は顔を上げ彼の方を見た。彼は薄笑みをこぼしていた。僕は、大きく頷いた。
彼は、工房に鍵を掛けなかった。というより、鍵がどうやら存在しないようだった。話によると、もう随分前に壊れてしまい、扉から取り外してしまったのだそうだ。
日は少し傾いていたが、まだ空は充分に青かった。初夏の黄昏時は、まだまだ遠かった。
僕等は並んで、紫色の陰の落ちた横丁を抜けると、大通りに出た。人通りは少なく、露店も見られなかった。吹き抜ける風が僕の髪を大きく靡かせ、気持ちよかった。少し歩く内に、なんとなく気分が落ち着いてきた。僕は隣を僕の歩調に合わせて歩くラッズの方を横目に見た。彼は、危うい雰囲気を持っている人物だと思った。まるで毒でも盛られた様に、どうやら僕は彼の前では、ラセラの恰好であれば、本当にラセラになってしまう様だった。僕は、自分に言い聞かせなければならなかった。ラッズの雰囲気に酔わされては駄目だ…。自分は、ルザートという名前の少年なのだ…。
彼と歩いている内に何故か不意に、自分が今日はこの前貰った貝の耳飾をしていない事が気になり始めた。彼は、折角彼がくれた耳飾を僕がしていない事を気にはしていないだろうか?
「ねえ…」歩きながら僕が話しかけた。「あたしが見本をするとき…」
「なんだい?」
僕が途中で言葉を詰まらせると、彼は言った。
「見本をするとき、この前貰った耳飾はつけている方がいいのかな…?」
僕の言葉に、彼は一瞬だけ僕の耳に視点を合わせると、微笑した。
「そうだね…。実際の女神は耳飾なんてしていないけれど…。それもいいかもね」
彼は言ってから、前を向いた。
「つけていた方がいいって事?」
僕は彼の横顔に話しかけた。すると、彼は、そうだね、と言いながら、頷いた。僕は、やっぱり耳飾をつけて来ればよかった、と思った。
歩いている内に、やがて見覚えのある通りに出た。否、村に住むようになってからも幾度となく町には足を運んだので、知っている通りが幾つかあるのは当然の事なのだ。が、そこはつい最近見たばかりの通りだった。それは、タリタの入院している医院のある通りだったのだ。人通りは数えられるくらいしかない。タリタの姿はない。彼女はまだ、ラセラの存在を知らない。彼女の母親は知っているが、それがルザートだと言う事を知らない。そういえば、母親にラセラの恰好でタリタの事を報告した時、僕は「タリタの友人の」と言ってしまった様な気がする。否、サスティの友人と言っただろうか。どの道、母親は娘のタリタにラセラの話をするだろうが、タリタはラセラの事を知らない…。やがては話す事になるのだろうが、少し不安だ。
僕等は何事もなく、医院の前を通り過ぎた。窓から中が見えるかと思ったが、太陽光があまりに強いため、明かりをつけない中は真暗にしか見えなかった。中からは僕等の姿が見えたかもしれない。
そのまま通りを行くと、段々道が狭くなっていき、立ち並ぶ軒の数も減ってきた。村の様に家畜を柵の中で飼っている家までが現れるようになり、そして最後には道は途絶えて草原になってしまった。かなり広い草原だが、彼方には森が見えた。空がこれ以上ないくらいに広く見え、入道雲がその半分くらいを埋めていた。
僕等は立ち止まった。これ以上、進みようがなかったからだ。
僕は、自分よりも背の高いラッズの方をむいた。彼も、僕の方を向いた。
「どうしよう…」
僕が言った。すると彼は視線を森の方に飛ばした。
「あの森の中にね、綺麗な湖があってね」彼が言った。「あの赤い花…」彼は僕の方を見た。「君の髪に挿してあげたやつね。あの花が、沢山咲いているんだ」
「花…」僕が呟く様に言った。「あたしにくれた花は、そこで採っているの?」
彼はかぶりを振った。
「そういう訳ではないんだけれどね。一度だけ、昔の好い人と行った事があるんだ」彼の言葉を聴いて、何故だか少し厭な気分になった。「小さな御堂があってね、見捨てられた女神像が未だにそこに立っている筈だよ」
「女神像? これから造るような?」
彼は頷いた。
「それでさ」彼は少し躊躇う様に言葉を切った。「君がもう元気だと言うのなら、明日、そこへ行ってみないか?」
珍しく、僕にはこの展開が予想出来なかった。それで、少し驚いた。が、なんだか誘われた事が嬉しかった。自分では、また彼の雰囲気に酔わされているのではないかと疑いながら、大きく笑んでやると、彼と顔を見合わせ、首肯した。彼も微笑んだ。
朝早くに僕が彼の工房を訪れる事になった。それで僕は、弁当を拵えて行く、と約束してしまった。無論、僕には料理なんか出来ない。
彼と別れての帰りしな、しまったな、と思った。
それで仕方なく、サスティとレネカに経緯を説明すると、弁当を簡単に作ってもらう事にした。彼女達に頼みながら、僕は、本当はラッズにこれ以上会うのは良くないのではないだろうか、と思った。幾度となく感じた事ではあるが、彼には不思議な雰囲気がある。そして、僕は、自分がその力により、段々と心地のよい侵食を受けている事を認識している。それは、ラッズ自身による侵食ではない。ラセラが、ルザートを侵している。最近すっとラセラの恰好で居る所為かもしれない。兎に角、ルザートでいる事の感覚がない…。
夜、僕にはルザートの恰好に戻る勇気がなかった。少年に戻った時に、自分がルザートの性質を忘れてしまっているかもしれないのが怖かったからだ。無論、ルザートに一度戻ってしまえば、数日で完全に勘を取り戻せる自信はあった。が、明日はラッズと森に出かける約束をしてしまっているのだ。このままルザートに戻ると、同時にラセラをも崩し兼ねない。
それで、僕は自分の部屋に戻ったが、着替えはしなかった。化粧だけを落とし、そのまま寝台に入った。
なかなか寝付かれなかった。どうやら自分は明日の事を楽しみにしているらしいのだが、それを否定するべきなのかどうかで先ず迷った。どの道明日は行かなくてはならないのだから、と思えば幾らかは気が休まったが、自分の今の恰好を意識すればするほど、ラセラとルザートとの線引きは難しくなって行き、そしてルザートの一部がラセラによって置き換えられて行くのが解った。もう、自分をルザートだと断定する要素は充分ではなかった。今までラセラを支配してきたルザートは、もう自分自身の事でさえ詳らかに説明できなくなってしまっている。明日の事をラセラは楽しみにしているのに、それを否定すべきルザートが、まるで火酒に潰されたかの様に、自分自身の事を判断できていない。そうして、この二者は互いに分離をし、見詰めあい、格闘し、そして侵食を始めたのだ。
然し、これはなんとも奇妙ではないだろうか? 僕はつい一週間前までは普通にルザートだった。そして、数日前に突然ラセラが現れた。この時点までは、明らかに物理的にも心理的にも、僕は継続している。僕は生まれたときからずっとルザートで、随分過去の記憶もあり、今の記憶もある。ずっと同じ肉体で育まれて来、昔からある黒子が今も同じ場所にある。僕はなんら変わりのない、一個の人間である。なのに、どうして今は自分を確定出来ないでいるのだろうか? 物理的にも心理的にも継続を保持しているのに、自分がつい一週間前までとは同一の人物であると断言できないのは、何故だろうか? 僕は今、ラセラに侵食されつつあるが、否、ここで「僕」というのも今では可笑しいが、兎に角ルザートはラセラに侵食されつつあるが、それでもラセラはルザートと同じだけの記憶や経験を持っている筈だ。それなのに、ラセラとルザートとは同一人物ではないのは何故だろうか?
水晶が、ダイヤモンドよりも輝いてしまうのは、どうしてだろうか?
僕は、明日でラセラとルザートとの決着がつく様な予感がした。
今回のテーマ曲はコチラ↓↓↓
「乳房の迷宮」
ニコニコ動画:http://www.nicovideo.jp/watch/sm27694063
youtube:https://youtu.be/ANzFXHqs3Sc
※第3章は、8月19日(金)にアップ予定です
※↓↓↓に動画への直リンクあります




