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「明久、今日の検査もう終わり?」
「春子も終わりか?」
「―― うん。でも、最近、検査項目が多いような気がするのよね。今日もいつもより時間掛かった」
「そうか。あれから、一カ月だもんな……」
―― そう。僕が彼女 岡崎 春子と出会ってから今日で丁度一カ月が経った。この一カ月、春子とは近づき、遠くなったりしながら名前で呼び合う仲となった。だけど、僕たちの病院生活に特別変わってはいない。僕たちの余命が残り二カ月。僕たちの命は、いつ落ちるかも分からない橋の上を渡っていた。でも最近、僕は思う。僕は彼女と出会わなかったら、僕はこの橋さへ渡っていなかったと…
「まぁ…… そうよね。体に何かしらの異常は出て来たかもね。でも、明久。私は死なないよ」
「そうだな。僕もそう思うよ」
この一カ月、彼女はずっと前を向いて一日、一日を生きて来た。病気で苦しんでいるときも、きつい検査の時も、決して弱音を吐かず病気と闘ってきた。彼女は強い。僕は傍でずっと彼女を見て来て、そう確信した。
「ありがとう…… 明久はやさしいね」
唐突だった。唐突だったから、僕は思わずえ? と聞き返した。
「なんでもないよー! じゃーちょっと行ってくるね」
彼女がニヒヒと僕に顔一杯にまで広がる笑顔を見せて、僕の追及から逃げるようにどこかに駆けていった。僕はその笑顔を見て今日も生きていると実感しそして、ありがとうと僕も笑顔で答えたくなる。
「いってらっしゃい」
もう、彼女には聞こえいかもしれないが、僕は彼女を見送った。
彼女が病室を出ていった数分後、また病室のドアが開いた。純白な白のナース服に身を包んだ看護師の木下が病室に入って来た。
「あれ、春子さんは?」
「どこかに、行っちゃいましたよ」
「ハァーまた…… あの娘は、勝手に出歩いて。明久君も少しは注意してよ」
木下は怒りながらも「仕方ないなー」と、子供の成長を見守る親のようにどこかうれし気に春子のベッドを綺麗に整えている。
「明久君、体の調子はどう?」
「特に変わりはないですかね。ん、どうかしたのですか?」
木下が手を止め、どこかをじっと見つめている。
「その写真……」
「あぁ…… これですか」
木下が見ていたのは僕の横にある物置の上に置かれた一つの写真立てだった。
「僕のお母さんがついこの前、持ってきたのですよ。僕のお守りらしいです」
「懐かしいわね」
木下はその写真立てを手に取ると、手でやさしく一枚の写真をなぞった。写真には、僕とお母さんそして、木下が写っていた。みんな笑顔で僕を取り囲み、僕の手には一輪のマリーゴールドが咲いていた。
「まだ、この写真があったんだ。あれから、もう随分経ったよね。明久君が初めて、外に触れたときの記念写真。普通なら、花束なのだけど、この時は急遽だったから一輪の花しか準備できなかったのよね」
「そうでしたね。木下さんが必死に探し回って見つけてきた一輪の花。花屋さんならたくさんあるのに、自然の花でないとだめ! っとか言ってさ」
「それで、帰ってきたら私のナース服を泥だらけ。この時の上司だった人に、『看護師が不清潔でどうするの!』 ってこっぴどく怒られたわ」
「木下さんも、まだ若かったんだね」
「明久君、私は今も若いわよ。目の病気かしら、打っとく?」
木下が僕の前で注射を打つ真似を見せてくる。
「いや、大丈夫です。木下さん、目がマジだよ。ごめんなさい。この病院一お綺麗な看護師さんに見られて僕は幸せです」
ウフフと気味悪い笑い声と共に、木下はどうにか手を収めたが、次は本当に打たれそうだ。
「子供ながらまだ、この時のことはよく覚えています。初めての肌に感じた風がぶつかる感覚、車の排気ガスに混じった、都会の匂い。そして、初めて足を地に着いたときのごつごつとした感触。全てが、病院とは反対なのに、どこか心地良かった」
僕は窓の外を見た。今日はこの写真の時と同じ晴天。いつも一度は見る光景なのに、今日はどこか懐かしい。あれから、僕は外に出ていない。窓一つで区切らているだけなのに、今となっては随分遠い世界になってしまった。
「大丈夫よ。あなたはきっとまた外に出られる。そしたら、もう一度、みんなで写真を撮りましょ」
木下がやさしく僕の肩に手を置いてきた。
「その時は、花束ですよ」
僕の冗談混じた言葉に木下がなぜか驚いた表情を見せたが、すぐに木下は笑い「えぇ、必ず!」とガッツポーズを見せ、木下は病室から出て行った。
病室のドアが閉まると同時に訪れた、一人の時間。以前は普通だった時間が、今は退屈に感じる。チラッとドアを見るが、春子が帰って来る気配はない。ハァ、とため息をつく。春子が出て行ってから、どれぐらい経っただろうか。病室に飾られた時計は夕方の四時をぎを指していた。
「今日は春子遅いな…… う、うーん。少し話過ぎた。休むか」
次起きたとき、春子がまた笑顔でおはようと迎えてくれるだろう。そして、僕はおはようと返す。そんな当たり前となった日常を僕は信じて眠りについた。