牢獄の森1
ご要望にお答えしてグレアム視点のお話。彼はあの時何を思っていたのか。
森に篭って一人きり。どれほどの歳月が流れたのか、そんな事はもうわからない。気にもしない。どうでも良い。朝も昼も夜もない。起きたい時に起きて、寝たい時に眠る。食事すら面倒だが、腹は減る。
「……そんな恨みがましい顔をするな」
俺が作った物を食わせると、ティグルは不満だという思念を送って来る。俺の側にはこいつだけ。親よりも兄弟よりも近しい俺の使い魔。ティグルという名は俺が付けた。幼い頃互いの孤独に惹かれ、俺達は契約した。普通は神獣を使い魔などにはしない――というよりも出来ないが、俺には出来てしまった。出来てしまったが故に、周りは俺を更に恐れた。
実家はギリリアンの貴族。魔力もそこそこの人間が産まれる家柄だが俺が生まれ持った魔力は、そこそこどころではなかった。
立つのが普通よりも早かった。言葉を覚えるのも、文字を覚えるのも、知識の吸収も、普通の子供では有り得ない速さで俺は自分の物にしていった。初めの頃は神童などと呼ばれ、大人達は喜んだ。だが大人というものは、可愛げの無い子供は嫌いらしい。良いように利用しようと近付いて来る人間が煩わしく、親すら俺の能力で金儲けを考えている事がわかり、俺は全てを拒絶した。能力が絶大でも感情面では子供。敵を排除する為に魔法を使い、俺は己の所為で孤独となった。
いつの頃からか賢者などと呼ばれるようになり、煩わしい仕事が舞い込んで来るようになったが……全てが煩わしい。他人のおべっかが嫌いだ。俺を金儲けの道具としか見ていない。取り入る事ばかり考えている人間共が不快で不快で堪らない。俺は魔術師と名乗り、森に篭って薬を作る仕事だけを受けるようにした。その仕事に使う薬草を採りに入った森の中で俺は、一人の女を拾った。
「ティグル、何処へ行く」
珍しくティグルが俺の側を離れ、俺以外の人間に擦り寄っている。大樹の根元に体を横たえていたのは、肉付きが良い以外特徴の無い平凡な女。魔力も感じない。なのにティグルは嬉しそうに、女へと擦り寄っている。
「……迷い込んだのか?」
俺の問いに、ティグルは首を傾げた。この森には結界を張っている。普通の人間が迷い込めるはずがない。
「……おい、起きろ。お前はなんだ」
瞼を持ち上げた女は眠そうで、聞いた事のない言葉で話した。それで理解した。この女は、落ち人だ。
「言葉はわからんだろうが今から術をかける。脳を弄る為気分は悪くなるだろうが、死にはしない」
頑なに眠ろうとしてティグルを離そうとしない女に苛立ったが、落ち人なら何か面白い能力を持っているかもしれない。使える可能性のある存在を森の動物の餌にしてしまうのは惜しい。俺は意思疎通をはかる為に術をかけ、女を連れ帰った。ずしりと重たかったが、魔法を使わずとも持てない事はない。
俺の家で目を覚ました女はチカと名乗った。チカは淡々と、全てを黙って受け入れる女だった。面倒を見る代わりにと押し付けた雑事を黙々とこなす。無駄口を叩かない。落ち人であるなら何か能力は無いのかと、調べる為の実験にも文句も言わずに付き合ってくれた。
チカが来てから数日が経ち、俺は薬草を採る為に森へと入った。そして、帰ると出迎えられた。
「……おかえり、なさい」
遠慮がちな言葉。俺の姿を見てほっと緩んだ表情。あぁこの女は、俺しか頼れるものがないのだ。この女の世界は今、俺が全てだ。理解した俺の胸に、仄暗い喜びが芽生えた。
拾ったのはどうやら原石だったらしく、チカは日増しに美しくなっていく。荒れた肌に髪、唇、手指。痛々しさが目に付いて、俺はチカの為に様々な物を作り、使わせた。自分の手で原石を磨き輝かせるのは面白い。元いた世界では不摂生をしていたらしく、その所為で付いていた肉も段々と落ちて行く。
気付けば俺は、チカへと劣情を抱くようになっていた。こんな感情は初めてだ。女は煩わしいもの。気色の悪いものだと思っていた。それなのに……チカには触れたいと、思う。俺無しでは右も左もわからない。全幅の信頼を寄せて来るチカ。一人にすれば不安そうに顔が曇り、だが俺を見ると安堵する。嬉しそうに近寄って来て、おずおずと俺に微笑み掛けて来る。チカが一人の留守番を寂しそうにしたから俺は、共に森へと連れて行くようにした。他人が側を歩く事など慣れていない。特に女など扱いがわからない。置いて行きたい訳ではないのに、気付くと俺はチカを引き離してしまうようだ。困り顔で一生懸命ついて来るチカ。その様を無性に、愛しいと思った。
「チカ……」
手に触れ、引き寄せた。腕の中へ閉じ込めた。この女に触れたい。触れていたいと願った。
言葉足らずな俺の言った事に傷付き落ち込むチカ。傷付けたい訳ではない。だが、俺の所為で泣きそうになっている女の顔を見たかった。触れた頬は思いの外柔らかで、温かい。見つめた先、チカの眉根が寄って肌が朱色に染まっていく。潤んだ焦げ茶の瞳は扇情的で、堪らない気持ちになった。吸い寄せられる。甘い甘い、唇に。触れた唇はシンファの蜜よりも甘く、柔らかな熱に、思考が蕩けた。女に、他人にこのように触れるなど初めてだ。だが本能的に、俺はチカの唇を味わった。背を撫で下ろせば腕の中の体が震える。堪らない。堪らない痺れが体中を駆け巡り、より深く貪る為に抱き寄せる。舐めて、絡めて、吸い付いた。焦げ茶の瞳は俺を捕らえたまま。俺の劣情を煽り続ける。このままこの女を組み敷いて、全てを手に入れてしまえたらどんなに素晴らしいだろう。無意識に、喉が鳴った。
「…………すまない」
上がった息。色付いた唇。濡れた睫毛。本能ではめちゃくちゃにしたいと望む。だが、優しく包み込みたいとも思う。相反する感情は、経験の無い、知らないもの。俺はそれを持て余したまま、黙って目を伏せるチカの手を引いて歩いた。
チカは、何も言わなかった。何も聞かなかった。俺の行為をただ黙って受け入れる。一度知った温もりを、俺は何度も求めてしまう。困った顔で謝られると、口を塞ぎたくなる。困ったように寄せられる眉は嫌いだ。寄せられた眉を見ると、違う理由で困らせたくなる。切なさで染めたくなる。俺は、美しくも甘い毒薬を口にしてしまったのかもしれない。
「変、でしょうか……? サイズが合わなくなったから、やはり似合わないですか?」
ある夜チカは、恥ずかしげに頬を染め元の世界で着ていた服を纏って俺の前へ姿を現した。その姿を見て俺は、くらくらと目眩に似た感覚を覚えた。
触れたい、触れたい、口付けたい。
なんとか平静を装って会話をするものの、頭の中はぐらぐらと揺れている。化粧をしたチカは、更に美しさが増していた。体の線がわかるシャツ。スカートから伸びる脚は、愛らしい膝小僧が見えている。そこに口付けたい。触れたい。俺の中の何かがもう限界で、どう制御すれば良いのかわからず困り果てる。名を呼べば、目の前で蕩ける女の顔。ふつりと、何かは切れた。俺の右手はいとも容易く柔らかな腿へ触れる。首筋から漂う花の香り。俺が好みで付けた香りだ。香りを深く吸い込んで、噛み付くように口付けた。左手で触れた双丘は柔らかで、直に触れたくて邪魔なシャツのボタンを外す。目の前に現れた膨らみ。初めて目にする、落ち人の印。俺はそこに、唇を這わせた。鼻を擽る甘い香りが強くなる。
「グレアムさん……」
呼ばれ見上げた先のチカの頬は色付き、半開きの唇からは悩ましげな吐息が漏れる。寄せられた眉は切なげで、潤んだ瞳が俺の全てを絡め取った。俺はこの時、チカという女に完全に囚われたのだと思う。だが、チカの唇が震えたと同時、突然の訪問者に邪魔をされた。
「おいグレアム。俺だ、開けろ」
声の主は昔馴染み。俺が信頼している数少ない人間の一人だが、そいつをこんなにも疎ましく思った事はない。離れる事が名残惜しく、露わになった肌へ舌を這わせた。頭上からは狼狽えた声が降って来る。初めて聞く、感情が揺れたチカの声。益々カーラットが憎らしくなりながら俺は、欲望のままにチカ触れた。
「いつもの服に着替えて来い。化粧も落として。……他の男には見せたくない」
俺だけのものにして閉じ込めたい。他の男に見せたくない。生まれて初めて胸に湧いた、醜い独占欲。




