三十七. 鳥が舞う空3
診察する際に私は、グレアムさんからもらった便利魔具の一つを使っている。口元を覆うマスクで、魔法でウィルスをシャットアウトするらしい。日本に売っていたマスクよりも便利な物だ。非売品だから大事に使っている。
私が出来るのは症状に合った薬を出す事だけだから、神殿に所属している医者達とはよく連絡を取り合っている。連絡は文書だったり本部や支部に備え付けられている通信用魔具を使ったり、イグネイシャス経由で連絡が来たりもする。あちらから呼ばれる事もあれば、私ではどうしようも無い場合に医者を呼ぶ事もある。
孤児院の次に訪れたのは、医療設備のある神殿の支部。ギリリアンの隣国で、小さな町にある場所だ。こうやって移動し始めた最初の頃、国境をこんなに安易に越えて問題がないのかが気になった。イグネイシャスに確認してみたら、各国と繋がりを持つ神殿だからこそ許されている行為だそうだ。神殿の神官以外がやれば捕まる事もあるらしい。ちなみに私は、今は神殿に仮所属となっている為許可が出ているようだ。
「チカさん。待っていました」
転移の間で私を待ち構えていたのは医者であるブラムさん。黒髪黒眼に褐色の肌、ちょっと飛び出たお腹がチャームポイントの男性だ。
「緊急ですか?」
「いえ、そこまで深刻ではないのですが薬が欲しいんです。診て頂けますか?」
国が違えば使う言葉も違う。だけど私は、グレアムさんに魔法をかけられている。どうやらギリリアンの言葉だけではなく他の国の言葉も自動翻訳されるようだ。便利で凄いけれど完璧とはいかないようで、難しい言葉だったり長い間話をしているとギリリアン語以外では疲れてしまう。頭がショートしそうな感覚になるのだ。イグネイシャスはというと、自分の力で各国の言葉が話せるらしい。
「先程運ばれて来た女性なのですが、今日はチカさんが来ると聞いていたので待っていました」
「どこにいます? どんな状態ですか?」
こんな時、イグネイシャスは私の荷物持ちに徹する。ギリリアン本部では結構偉い人のはずだから申し訳ないけれど、助かっている。
私の作る薬は、効果は高いが作り置く事は出来ない。減りが早い物や塗り薬に関してはストックを作って持ち歩いているが、作ってから時間が経つと効能が変わる物もあってデリケートなのだ。患者を見て、薬を作って飲ませる。移動する度にそれを繰り返し、ギリリアン本部へ戻った頃には日がとっぷり暮れていた。
「魔力、大丈夫ですか?」
「転移の陣があると楽ですからまだ全然余裕があります。チカは? 疲れたでしょう」
「うん。でも……嫌じゃない疲れ」
「良かったら部屋まで運びましょうか?」
「暴れるのが面倒なのでやめて下さい」
「それは残念だ」
柔らかな笑みを零したイグネイシャスは、私を解放してくれる。だけど私は離れた彼をじっと見上げた。視線に気が付いて、イグネイシャスが首を傾げる。
「……私は、グレアムさんを愛してる」
「知っています。彼の側にいるチカは本当に幸せそうでした。でも今は、いつも何処か悲しそうですね」
イグネイシャスが向けて来る慈しみの眼差し。私は逃げるように俯き、歩き出す。イグネイシャスの足音もついて来た。
あまり優しい眼差しを向けないで欲しい。グレアムさんに会いたくて会いたくて……涙が溢れそうになるから。
「ねぇチカ」
「なんですか?」
「私を、恨んでいますか?」
「……何故?」
心底わからなくて、足を止めた。振り向き見上げたイグネイシャスの氷色の瞳は、不安そうに揺れている。
「私が、貴女から愛する人を引き離したからです」
馬鹿な人だ。それをずっと気に病んでいたのだろうか。
「……イグが何かしなくとも、私達はこうなったんだと思います。あの時の私はあまりにも無力で、彼なしには生きられなかった。彼は彼で、私の気持ちが雛の刷り込みのようなものではないのかと疑っていた」
その疑いは、いくら気持ちを込めた言葉でもあの時の私には拭い去れなかったのだ。森の家にカーラットさんが訪れた時点でこの未来は確定してしまったような気がする。いや、その前からグレアムさんは、私を独り立ちさせるつもりだったのだと思う。だからこそ、薬と言葉の知識を与えてくれた。
「……チカ。私は貴女を、愛しています」
魔法の柔らかな灯りに照らされた廊下。どこまでも声が響いてしまうのではないだろうかと思える程静かな場所で、囁かれた言葉。
「ありがとう。でもごめんなさい。私は、グレアムさんの心がたとえ何処を向こうと、彼だけを愛してる」
「そう言われると思っていました。でも好きです。愛しています。側にいたい。……気持ちを返して欲しいとは言いません。ただ側にいる事だけは、許してもらえませんか?」
「嫌ですと、言われて諦められるのなら諦めて下さい」
「チカは冷たいですね。でもそんな所も好きです」
「……物好きな男ですね」
私はイグネイシャスに背を向け歩き出す。今度はイグネイシャスはついて来なかった。だけどまた、彼は私の名前を呼ぶ。
「転移、本当は密着する必要なんてありません。初めは嫌がらせでしたが……貴女をこの腕に抱きたくて、嘘を吐き続けました。本当は体の一部に触れていれば良いだけです。ゲルダや他の皆には頼んで話を合わせてもらいました」
「そうですか。……私は、馬鹿ですね」
「すみませんでした……」
しょんぼりと俯くイグネイシャスを置いて、私は自分の部屋へ戻った。心がどんより重たい。人に好きと言ってもらえたのはリリスが初めて。二番目がイグネイシャスか……
「……リリス、元気かな? フィオン様と上手くやってるのかな…………」
椅子にどさりと座り込み、私はティグルを抱き締める。ここにいると、あの日々も日本での日々も夢だったみたい。どんどん全てが、遠くなる。ティグルの存在は私の大事な思い出の証拠みたいなものだ。
暗い部屋の中、胸元で暖かな光が溢れ出す。私は急いで石を取り出し両手で包んだ。繋がりの許可の言葉を吐けば、聞こえて来るのは愛する人の声。
「……チカ?」
躊躇いがちに、私を呼ぶ声が好き。
「はい。グレアムさん、こんばんは」
「今日は、どうだった?」
不器用で、だけどとても優しいあなたが、大好き。
私の話を、彼はほとんど無言で聞く。声が聞きたいのに、私ばかりが話している。
「チカ」
「はい、なんでしょう?」
長い沈黙の後でやっと聞けた声。ねぇ私は、いつになったら再びあなたに会えますか? いつになったら、あなたのもとへ帰っても良いですか?
「…………実験の成果は十分にわかった。お前に独り立ちの許可を与える。これまでの報酬は送っておく。弟子としてではなく、一人前の薬師として神殿と契約して構わない。お前は、完全に自由だ」
「あの、それは帰って」
「俺に弟子はいらん。お前も不要だ。好きに生きろ」
働かない頭で理解出来たのは、暖かな光が失われ部屋が闇に包まれた事だった。
***
どんな時でも朝は来る。お腹も減る。そんな事は昔、嫌という程思い知った。私はいつもと同じ朝を迎え、少しだけ違う行動を取った。朝が早いここではきっと起きていると思ったから、用事を済ませに行くのだ。他よりも立派な扉の前に立ち、私は扉を叩く。誰何の声が聞こえて名乗るとすぐに入室の許可が与えられた。
「おはよう、チカちゃん。ここに来るなんて珍しいな?」
ビヴァリーさんの執務室。イグネイシャスもそこにいて、不思議そうな表情で私を見ている。
「昨夜賢者様から連絡がありまして、その件でお話したい事があります。今、大丈夫でしょうか?」
「いいよ。なんだい?」
椅子を勧められ、私は座る。ビヴァリーさんはまだ聞いていないんだろうか。いつもと同じ表情だ。
「薬師として独り立ちの許可をもらいました。こちらにはまだ連絡は来ていませんか?」
「あぁ、それね! 来てる来てる」
軽い人だ。重たい心が、少しだけ軽くなる気がする。イグネイシャスが笑顔で固まっている所を見ると、どうやら彼は聞いていなかったようだ。
「賢者様の弟子宛の依頼だったから、独り立ちとなると君を使う料金が変わる。こちらとしても相談したかったんだ。君は今後、どうするつもりなの?」
「突然の事だったのでまだ決めていないんです。もしここを離れるとしても患者さん達に挨拶をしたいですし、定期的に薬を送っている方もいます。出来ればもうしばらく私を使ってもらいたいのですが……」
「お、本当? すっごい助かる。金額はどうしようか?」
ビヴァリーさんと報酬の相談をしてから、私は部屋を出た。少し行った所で慌ただしく追い掛けて来た足音の主に呼び止められる。
「チカ。どうして帰らないのですか?」
そうだよね。私も、この仕事が終わったら帰れるのだと思っていた。それが叶わないにしてもまた会うチャンスはもらえると思っていた。会って、話せると思っていた。まさか声だけで……もらった通信用の魔具を壊されてしまうなんて思ってもみなかった。
「……イグ、今は話せない」
「何故?」
「…………知ってる? 弱った女って、近くの温もりに縋り付くんだよ。醜いっ、なんて……醜い……」
そんな女は大嫌い。そうしてしまいそうな自分を殺してしまいたい。
生きる術を手に入れて、生きたい理由を、失った。
「追い掛けて来たら、あなたなんて大嫌い」
歯を食い縛り、私は走る。近くの温もり、ティグルを抱き締める。ティグルはどうするの? ティグルも、私の側からいなくなるの?
――あぁ。また私は……独りきり。