三十五. 鳥が舞う空1
目の回るような忙しさに、寂しさを感じている暇もない。というよりも、寂しさなんて感じないよう私は仕事にのめり込んだ。
中庭に私専用の薬草園を作る許可をもらい、空いた時間はそこで薬草の世話をする。そこだけでは材料を賄えないから外に行って薬草を探して歩く。一人で抜け出そうとするとイグネイシャスが目敏く気が付き、必ず着いて来るのが煩わしい。
「イグは他にも仕事があるんじゃないですか?」
イグネイシャスの名前が長くて面倒なので、本人がしきりににそう呼べと五月蝿いのもあって私は、彼の名を短く呼ぶようになった。
「ありますが、他の時間で終わらせます。ティグルは悪意には敏感ですが好意は見守るようなので心配です」
「意味がわからない。それは何か問題が?」
「大ありです。だから私に付け込まれたのですよ」
「…………どういう意味?」
「賢いくせにお馬鹿な貴女は可愛らしいですね、という意味です」
師匠が女たらしだからか、イグネイシャスは息を吸うように女を褒める男らしい。城の中では冷酷腹黒男だと思っていたが、あれは敵地の中にいたからなのかもしれない。イグネイシャスは王族や貴族がとても嫌いみたい。
まぁ罵られているだけのような気もするが、面倒なので気にするのはよそう。
「今日はどちらに?」
「滝まで足を伸ばすつもりでしたが……イグが来るなら近場でやめようかな」
「好きな場所へ行って下さって構わないんですよ。私は貴女の荷物持ちと護衛です」
「補佐官殿をあまり連れ回すと、他の人に迷惑でしょう?」
イグネイシャスは、ギリリアン本部長の補佐官をしているらしい。補佐官は他にも数人いるらしいが、若いのに役職に就いていて実は忙しい人のようだ。彼の部下がよく私の所に泣き付いて来る。でもそんなにしょっちゅう、イグネイシャスは私に張り付いている訳でもないんだけどな。
「この前もゲルダが愚痴を言いに来ましたよ。面倒なので働いて下さい」
「彼女は私を嫌っているだけです。黙って話を聞いてくれる貴女を利用しているだけなので、耳を傾けるのをやめた方が良いと言っているでしょう?」
「……追い返すのも面倒なんですよね」
私は短く息を吐く。ゲルダはイグネイシャスの部下の女性。前に仕事で一緒になった事があって、いつの間にか茶飲み友達にされてしまった。彼女がいつもイグネイシャスに怒っているのはきっと、年下の上司が気に入らないからなのだと思う。ゲルダはイグネイシャスの三つ上だと言っていた。
「チカが気にするのなら時間の短縮をしますか。滝の側に生える草が欲しい、とかではないですか?」
「そうですが、転移は嫌いです」
「行く道だけなら大丈夫でしょう? 帰り道を歩けば、酔いも覚めます」
にこにこ笑って両手を広げられる。イグネイシャスは歩くのが嫌いなのか、何かと転移を使おうとする。嫌ならついて来なければ良いのにと、いつも思う。
「ほら早く。ゲルダに見つかると面倒です」
「……面倒になるのはあなたの所為ですけどね」
渋々一歩近付くと、イグネイシャスに腕を掴まれ引き寄せられた。ぎゅうっと抱き込まれてすぐ、浮遊感に襲われる。一瞬くらりとしたら空気が変わって涼しくなった。マイナスイオンだ。
「目眩は平気ですか?」
「……大丈夫。ありがとう」
イグネイシャスの胸に右手をついて体を離す。転移は便利だけど密着しないといけないのが面倒で、浮遊感も未だ好きになれない。グレアムさんの時にあまり目眩がしなかったのは、きっと彼が上手だったからだ。
「足下気を付けて下さいね。チカは鈍臭いんですから」
「私の鈍臭さは自分が一番良くわかっています」
適当に返事をして、私はのんびり滝壺周辺を歩く。水辺に目を凝らして目的の物を探した。水飛沫が冷たい。滝の周りの岩は苔生していて、気を付けないと滑って転ぶ。私の二の腕に巻き付いていたティグルは濡れるのが嫌なのか、シャツの胸元へ潜り込んで隠れてしまった。
滝の側に屈んで水面を覗き込み、私はしばし悩む。手を伸ばしたら届くかな。
「……どれを採るんです?」
身を乗り出した所で肩を掴まれ止められた。ちらり見上げたイグネイシャスは穏やかに微笑んでいる。最近、彼が妙に優しい時がある。
「あの、小さな白い花が咲いているやつです。出来れば根ごと欲しい」
「わかりました」
イグネイシャスがぐっと身を乗り出したら余裕で手が届いた。腕が長いと便利だな。
「どうぞ」
「ありがとう」
袋の口を開き、中に入れてもらった。
「あとどのくらいそれが必要ですか?」
「これはもう十分。後は帰り道で何かないか見たいです」
「なら、行きますか」
手の汚れを払いながら立ち上がったイグネイシャスは、私の前に左手を差し出して来る。どれだけ鈍臭いと思われているのだろうか。私はその手を無視して立ち上がった。手なんか借りずとも一人で立てるし歩ける。ムッとしながら歩いた所為か、私は足を滑らせた。
「…………チカって、本当に可愛い人ですね」
笑いながら言わないで欲しい。流石に恥ずかしくて悔しくて、返す言葉が見つからない。イグネイシャスが抱きとめてくれなかったら私は転んで痛い思いをしたのだろう。しかも岩場だ。少し怖かった。
「……ありがとうございます」
「意地を張らず、頼れば良いじゃないですか」
「人を頼って生きて来なかったもので」
「そうですか。……足場がしっかりするまでです。目の前で怪我をしないかハラハラして見ている身にもなって下さい」
「……面目無い」
悔しいが、ここで手を振り払えば先程と同じ事になり兼ねない。私は素直に彼に支えられて体勢を整え、差し出された手を取る事にした。…………悔しいが、歩き易くなった。しかも手を引いてもらっていると、薬草を探すのに視線を彷徨わせても躓かない。カーラットさんが友人は手を繋ぐものだと言っていたし、イグネイシャスも当然のような顔をしている。だからこれは普通の事なのだろう。イグネイシャスは、今では私の一番の友人かもしれない。
「……イグ待って。あれ、見て来ます」
立ち止まってくれたイグネイシャスから離れて、私は目に付いた草を確認しに行く。だけど残念、ハズレだ。よく似ているけれどこれは使えない。
「なんの材料を探しているのですか?」
戻ったらまた手を取られた。歩きながら聞かれて、私は素直に答える。
「避妊薬です」
「チカが、使うんですか?」
「前は使っていましたが今は必要ないです。神官の女性からの依頼で」
「使ってたんですか?」
何故そこに食い付くんだろう。
「はい。だから効果は保証しますし、副作用も弱いものだから大丈夫ですよ」
「……賢者様と、ですよね?」
「他に誰がいるんです?」
耳が赤い。恥ずかしいなら追求しなければ良いのに。
「神官でもそういう事をするんですね。私、神に仕えているから禁止されたりしているのかと思っていました」
「何故? 神官でも欲はあります」
「神様って、穢れを嫌うイメージです」
「穢れ、ですか。貴女にとってその行為は穢らわしい事なのですか?」
なんでそうなるんだろう。育った世界が違う故の価値観の違いで、たまに私には理解出来ない事が出て来るのが困る。落ち人だと隠しているから説明もややこしい。
「んー? よくわかりませんが、過ちの子を作らないようにするのは大事だと思います」
「過ちの子?」
「望まれない子供が生まれるのは、悲劇だと思います」
「なるほど。それは身に染みています」
「私も」
苦く笑い合って、私達はのんびり森の中を進んだ。
*
本部に戻ると、イグネイシャスは仕事へ戻って行った。私も自分の部屋に戻る。
自室で薬草の下処理をしていたら、扉が叩かれた。
「先生聞いて!」
そう言って飛び込んで来たのは、白金の髪をひっつめて纏めた丸眼鏡の女性。
「……ゲルダ。あなたの上司は仕事に戻ったはずですが?」
「うん! だから来たの」
意味がわからない。追求するのも面倒で、私は黙ってお茶の支度をする。
「イグネイシャス様ったら酷いの。あまりチカの手を煩わせないように、ですって」
ゲルダがしたモノマネが似ていて不覚にも笑ってしまった。私は興奮を鎮める効果のあるお茶を淹れ、ゲルダの前に置く。
「一番煩わせてるのはお前だってーのっ」
一理ある。でもゲルダも十分煩わしい。
「みんなもさぁ、あの冷血漢が女の尻を追い掛けるのを見るのが面白いとか言って、先生が外出しようとするとイグネイシャス様に連絡が行くネットワークが出来てるんだよ。うっざいよねぇ」
ずずずっとお茶を啜ってゲルダは笑うが、それは私には笑えない話だ。だからあの人はいつも私の外出に気が付くのか。何か術でも掛けられているのかと疑っていたけれど、それも監視の一種だと思う。逃げたりなんてしないのに。逃げたって行く場所もない。
「それは笑えない事態です。やめてもらいたい」
「えー。でも先生とイグネイシャス様ってそういう仲なんでしょ?」
「……何故そうなるんです?」
「だってよく抱き合ってるって聞くよ?」
「は? 転移の時だけですが?」
「転移って…………あー……先生、魔力なくて魔法も詳しくないんだっけ?」
「はい。それが何か?」
「い、やー……いやいやいやっ。なんでもなーい。転移って抱き合わないといけないもんねぇ?」
「そう聞いています。私は魔力が皆無だから、密着していなければ運べないと」
「そっかぁ……ぶっ……ぐっ、ふふふ…………いやぁ本当、私転移って苦手でぇ…………仕事戻るね!」
やけに良い笑顔を見せたと思ったら、ゲルダは来た時同様嵐のように去って行った。騒々しい女性だ。静かになった室内で、ティグルを撫でながら私はゆっくりお茶を飲む。飲み終わり、茶器を片付けてから仕事に戻った。
依頼された薬を作り終え、それを持って部屋を出る。昨日訪問した町へ送ってくれるよう配送専門の部署に依頼すると、魔法で送られる。訪問した日の内に担当の神官に詳しい説明をしてあるし、細かな注意事項を書いた紙も薬に添付する。受け取った側でその説明の通り、患者に飲ませてもらうのだ。今回は食あたりの腹痛だった為に難しい事はない。後日、経過を確認しに行って問題が無ければこの件は終わりだ。
「先生、いつもご苦労様です」
仕事の内容からか、いつしか私は先生などと呼ばれるようになっていた。
「こちらこそ、いつもありがとうございます。……咳は、良くなりましたか?」
「はい、おかげさまで」
「そう。良かったです」
次に私が向かったのは神官の私室。神官達から個人的な依頼を受ける事もある。これも私の仕事の一つ。だけど有料だ。
「ジェニ。チカです」
私が叩いた扉から顔を出したのは、避妊薬を依頼して来た女性神官。薬を作る為に詳しい話を聞いたが、要は彼女はまだ子供を望んでいないらしい。だけどパートナーはいる。
私は薬の詳しい説明をして、薬と交換で代金を受け取った。
「……先生は、何も言わないんですね」
私に何か言葉を望まれても困る。依頼を受ける前に詳しく説明もして何度も確認はしたが、彼女はそれでも薬が欲しいと言ったのだ。
「…………私にも愛する人はいます。望まれるのが嬉しくて、そういう行為もしました。でも……私もそれを飲んでいたから、何も言えません」
グレアムさんには言っていない。でもきっと、彼は勘付いていたと思う。私達は、そういう話をしなかった。
「そうですか。……先生、薬をありがとう」
「いえ。それでは」
なんだか少しだけ重たい気持ちになって、私はひやりとする廊下へと出た。