三十四. 檻の外側7
久し振りに別々のベッドで眠った日の朝。旅立ちは、とても静かだった。私の荷物は既に用意されていてそれを渡された。誰にも挨拶する事も出来ず、まるで追い出されるように転移で城の外へと連れ出された。日本から持って来た荷物は邪魔になるからと、グレアムさんが預かってくれるらしい。それならこれは永遠の別れではないのだと、希望が持てる。
「通信はこの魔具で出来る。失くすな」
グレアムさんがくれたのは首飾り。細く長い銀色の鎖の先に、片手で包める大きさの透明な石が付いている。どうやらグレアムさん手作りの、魔法で作った道具らしい。
「……もし魔力が無くなったら、どう補充をすれば?」
「どこの町でも、魔具の魔力を補充してくれる場所がある。そこで依頼すれば良い」
魔力の無い人はそこで魔具に魔力を補充して生活しているようだ。他にも手作りの魔法の道具とお金を渡されて、私はグレアムさんとお別れをする。
「ティグル、どうしたの?」
当然のように私の二の腕に巻き付いているけれど、ティグルはグレアムさんの使い魔だ。グレアムさんへ返そうとしたらやんわりと手を握られ、止められる。
「ティグルはお前を守る。側に」
「でも……」
「……俺の代わりだ」
私は唇を噛んで、頷いた。
「チカ。世界を見て、自分の未来を選べ」
「はい……」
頬を包まれ、灰色の瞳を見上げる。彼の感情は隠されてしまっていて、見えない。
「行って来い」
「……いってきます」
口付けはもらえなかった。
私はグレアムさんに背を向け、歩き出す。
この世界――レアンディールで、私は自分で自分を守る。自分で生きる為の術を見つける。それが、グレアムさんが望んだ事だ。二の腕に巻き付いていたティグルが擦り寄って来て、頬を舐められた。私はティグルの柔らかな毛を撫で、笑う事にする。
「ティグル、一緒に来てくれてありがとう」
「キュウッ」
可愛らしい相棒と共に私が向かうのは街の外れ。そこに神殿の人が迎えに来ているのだとグレアムさんが言っていた。
森の家での日々は穏やかで優しくて、城での日々は明るく幸せだった。友人も出来た。愛する人も出来た。可愛い女の子とも知り合った。皆に別れを告げる事は出来なかったが、また会えるだろうか。リリスは、泣くのかな。私の為に泣いてくれる人がいるのは、胸の奥がくすぐったい。グレアムさんの気持ちも聞けず仕舞いだったけれど、今生の別れじゃない。きっとまた会える。通信用の魔具で、報告の為に毎日声は聞ける。弟子として、実験体としての繋がりもある。ゼロじゃないもの。
「…………イグアナ」
街外れにいたのは、ゆったりした白い長衣を纏った神官様。長衣には金糸で刺繍がされていて、同色のマントを羽織っている。高い位置で一本に結わえられた腰まで届く白金の髪を持つ彼に、その服装はぴったりしっくり似合っている。
「イグと呼んで下さい、チカ」
にっこり氷が溶けた笑顔。
そうか。そうだよね。リリスの為に城にいたんだから、諦めたなら彼が一緒の方が手っ取り早いよね。だけどそれなら、どうしてこんな街外れで待ち合わせなんだろう。
「……神官様、私は何処にドナドナされるんですか?」
「どな……?」
「いえ。知らない人が来るのだと思っていたので、驚きました」
「他の人間に任せる気はありませんからね。チカ、貴女はこれから神官だらけの場所へ行くのです。その呼び方では皆が振り向きますよ」
一理ある。悔しいけれど、彼の名前を覚える時が来たようだ。
「イグネ……イグネイ……」
困った。思い出せない。
「イグネイシャスです」
「う、わっ」
笑顔で歩み寄って来た神官様に抱き上げられ、馬の背へ持ち上げられた。一頭しかいないという事は、相乗りですか。
「貴女は馬に乗れないと聞きました。転移はあの時は特別だったので、今回はこれで行きます」
私の背後で馬に跨り、神官様は私の腹に片腕を回して体を固定してくれる。不本意だがこの方法しかないなら仕方が無い。彼が魔力の使い過ぎで死んでも困る。
「何処へ行くんですか?」
「ギリリアンでの神殿の本部です。そこを拠点にして各地へ行きます」
「そうですか。これからどうぞ宜しくお願いします」
「こちらこそ。新しい鳥籠へ参りますよ」
ん?
「鳥籠?」
「どうしました?」
「いえ、鳥籠と仰いましたよね?」
「そんな事、言いましたか?」
「言いました。鳥籠ってなんですか?」
「安心して下さい。賢者様のように閉じ込めたりはしませんから」
やけに楽しそうな声が頭上から降って来る。いざとなればグレアムさんに助けを求めよう。悪意を感知すればティグルも助けてくれる。旅立ちから漂う不穏な空気に、私は深い溜息を吐いた。
*
太陽が中点を過ぎて傾き出した頃、目的の町へ着いた。
神殿のギリリアン本部は、王都とは違う町にあるとイグネイシャスが言っていた。神殿の本部や支部が王都にある事を嫌う国は多いらしい。確かに、力あるもの同士が側にいれば様々な衝突が起こってしまう可能性がある。でも離れ過ぎては交渉事で困るから、一日で行き来出来る距離にあるらしい。
私達が跨っている馬には翼が付いていない。有翼種の馬は高価だから、神殿は所有しない。馬に使う金があるのなら他に使うとイグネイシャスが当たり前のように告げた言葉を聞いて、なんだか意外に思った。もっと私利私欲に塗れた場所なのではないかと思っていたからだ。人の為に働くなんて簡単な事ではないもの。
「チカ、どうぞ」
ひらりと馬から飛び降りたイグネイシャスに両手を伸ばされ、私は眉間に皺を寄せる。
「……自分で降ります」
結構高い。けどいけると自分に言い聞かせ、降りようと馬にぶら下がる体勢になったら背後から脇に手が差し込まれて体が浮いた。軽々と。この世界の男は力持ちだ。
「悔しそうな顔も良いですね」
にっこり楽しそうに笑われて、余計に悔しい。
「……抱き締める必要は無いですよね? 放して下さい」
地面に足がついたのに、イグネイシャスの両腕がするりと腹に回され抱き込まれた。これはセクハラだ。暴れても、腕が離れない。
「貴女は抱き心地がいいです」
耳元に頬擦りされた。
「神官のくせに煩悩の塊ですかあなたは!」
渾身の頭突き。からの振り向いて脳天チョップ。私の後頭部と手がかなり痛かったのだが、イグネイシャスが平然としているのが腹立たしい。
「神は人間らしい人間がお好きです。ご案内します」
私の荷物を奪ってイグネイシャスが歩き出す。シャツの胸元にいるティグルの存在を手で確かめて、私は大きく息を吸ってから足を踏み出した。
町は、王都程ではないが活気があった。その町の端、木々に囲まれた場所に白い建物があって、それが神殿のギリリアン本部なのだそうだ。石造りの上品な、小さな城のような建物だ。入り口の大扉を潜るとそこは役所の受付のような場所で、イグネイシャスと同じ服を着た人や一般の人がたくさんいて書類を書いたり真剣な表情で話をしたりしている。
「ここは、神殿への救援申請をする場所です。国の手が回らない案件が舞い込んで来ます」
「例えばどんな?」
「かなりいろんな事ですね。橋が壊れたやら、田舎の親に連絡が付かなくなったから見に行ってくれ、だとか」
「便利屋さんですか?」
「そのようなものです」
小さく笑うイグネイシャスは、受付の奥にある簡素な扉を開けて私を中へ促した。扉を一つ潜っただけで、とても静かになる。
「この奥で我々は生活しています。貴女の部屋も用意してありますよ」
すれ違うのは神官ばかり。皆一様に、興味や期待の入り混じった視線を私へ向けて来る。居心地がとても悪い。
「チカの話は皆知っています。賢者様の弟子なんて言ってしまえば珍獣ですからね。皆興味津々なのですよ」
森に引きこもった賢者様。彼への仕事の依頼は難しく、かなり高額なのだそうだ。だから弟子である私の存在は都合が良かった。実績もない。実践経験もほとんど無い。だけど知識は与えられていて、魔術師と同じ薬を作れる。
「賢者様の説得は骨が折れましたが、頷いてもらえて良かった」
「……あなたは、人の痛い所を突くのが上手そうですね」
こちらを振り向いて浮かべられた綺麗な笑みが嫌味ったらしい。
到着を告げられ招かれた部屋は、想像していたよりも広かった。一部屋にベッドと仕事机があり、薬を作る為の道具も一通り揃っているようだ。炊事場はないが、トイレと浴室はある。
「鳥を解き放ち、外を知った鳥が何を選ぶのかを見てみては如何ですかと申し上げました」
私が部屋の中を見て回っていたら、イグネイシャスが静かに告げた。彼の氷色の瞳は真っ直ぐ、私を観察するように見ている。
「それは……彼がきっと、不安に思っていた事ですね」
私はイグネイシャスから視線を逸らし、床を見た。レアンディールでグレアムさんの隣にいる事しか知らない私には、完全にその不安を拭い去る事など出来なかったのだ。鳥籠から放たれた鳥は、何処へ向かうのだろうか。
「……チカ。私の所為で寝込んだと聞きました。すみませんでした」
視界にイグネイシャスの足先が入って来た。近付いた声には、微かな後悔が滲んでいる。
「行くと、決めたのは私です。……記憶が欠如しているが故の、私の不注意が原因です」
顔を上げて笑みを見せると、イグネイシャスもゆるりと笑みを浮かべた。
「貴女の考え方は、嫌いではありません」
「それはどうも」
「他の場所も案内します。その後は食堂で食事にしましょう」
「わかりました」
荷物を置いて部屋を出た。鍵を受け取り、施錠する。今日からここが、私の生活の場となる。
イグネイシャスの案内で、中庭や洗濯する為の水場を見て回る。図書室もあって本がたくさんあったけれど、薬学関連の本はほとんどないそうだ。
「……そういえば、ここの長が貴女に会いたがっていたのでした」
食堂へ向かう途中の廊下でぽつりと言葉が零されて、私はイグネイシャスの横顔を見上げた。笑顔が常の彼には珍しく、とても嫌そうに顔が歪んでいる。その視線を辿ってみると、坊主頭で色黒の四十代くらいの男性がにこにこしながら近付いて来る所だった。
「どーも。君が噂の賢者様のお弟子殿かな?」
「はい。チカと申します」
失礼のないように名乗ったら、イグネイシャスの背に隠された。
「ビヴァリー様に近付くと、孕みます」
何を言っているんだ、イグネイシャスは。私は内心呆れたが笑みを保つ。
「聖女様を口説きに行ったくせに違う女連れて来るっていうから何事かと思ったら……なるほどな。惚れたか?」
おい、否定しろよイグネイシャス。無言の背中を睨み、私はイグネイシャスの服を摘まんで引く事にした。
「紹介して頂けると、助かります」
「…………私の師匠で、ここの長のビヴァリーです。女には見境無いのでなるべく近付かない事をお勧めします」
「そうですか。わかりました」
「了承するなってチカちゃん。冷たいねぇ」
神殿の人は意外と女たらしなのかもしれない。なんだか怖い場所へ来てしまった。
「何処までお役に立てるかはわかりませんが、賢者様の顔に泥を塗らないよう精一杯務めさせて頂きます。よろしくお願いします」
淡く微笑み、頭を下げる。顔を上げたら興味津々の様子で観察されていた。賢者様の弟子は、やはり珍獣扱いのようだ。
「来てくれて助かる。君の仕事はこいつが補佐する事になっている。困った事があればなんでも言ってくれ」
「お気遣い、感謝致します」
ビヴァリーさんは唐突に、イグネイシャスの首をガシリと腕でロックして捕まえた。何やらひそひそ内緒話をしている。そして、辺りにブリザードが吹いた。
「しょうもない事ばかり言ってないで働け馬鹿師匠っ」
極寒の眼差しに崩れた言葉遣い。師弟というのは色々なんだなと、私は心の中で呟いた。