二十九. 檻の外側2
ティグルは私の両肩でうまい具合に体を伸ばし、のんびりまったり眠っている。私は何故だか氷のような美形と向かい合って酒を飲む。
「酔い潰れても連れ帰りませんよ」
「攫って来ておいて最低です。ですがあなたの助けは不要です」
ジョッキへ注がれたビールに似た飲み物を呷るイグアナ。意外にも、庶民的な空気に彼は溶け込んでいた。
「あなたの顔からすると、もっと上品な酒をお好みかと思っていました」
「私は元々孤児ですし、金はそんなに持っていません」
「そうですか、ご馳走様です」
「……弟子のくせに賢者様の財布を持っていないなど使えない」
チッと舌打ちしている彼は、どうやら私の財布を当てにしていたらしい。だけど残念ながら、私はお金を持たされていない。だからここはイグアナさんの奢り。リリスと街歩きする時には小遣いをもらったが、買う物もない為使わないでそのままグレアムさんへ返した。
「というか貴女、私の名を覚えていないでしょう?」
「あら、名前を呼ばれたいとは存じ上げませんでした。あなたこそ、私の名前はご存知なんですか?」
呼ばれる時は、お弟子殿か貴女。別に呼ばれたい訳じゃないからどうでも良いが、売り言葉に買い言葉というやつだ。
「チカ、でしょう?」
「呼び捨てですか? 私の方があなたよりも年上です」
「それは失礼。チカ、もっと飲みなさい」
こいつ、嫌がらせで憂さ晴らししていやがる。まぁ別にどうでも良いけど。奢りの酒は美味い。
「それで? 私の名は?」
「神官様で良いじゃないですか」
「駄目です」
「イグアナさんと、心の中では呼んでいます」
「いぐあな?」
イグアナ、レアンディールにはいないのかもしれない。
「こういう動物です」
テーブルの上に溜まった水滴で絵を描いてみる。
「わかる訳がないでしょう。そもそも絵にすらなっていません」
「どうぞお気になさらず」
「意外と酔っているんですか? まぁ良いです。イグネイシャスです」
「あー……無理です。覚えられません」
「覚える気がないだけでしょう。わかりました。イグとお呼び下さい」
「どうして私があなたを愛称で呼ばなければならないんです。お断りします」
神官様は意外と面倒臭い。しかも酔っても無表情だ。あの笑顔は、頑張ってたんだなぁ……
「それはそうと、貴女も親に捨てられたんですか?」
ジョッキを空にした私の為に、神官様は酒を頼んでくれる。意外と気が利く。
「も、とは?」
「私は孤児だと言ったでしょう。貴女もそうなのかと思ったんです」
「何故です?」
「勘です」
なんだそれは。私と同じでこの人も顔色が変わらないし表情も変わらないけれど、意外と酔っているのかもしれない。
頼んだ酒が届き、お互い無言でジョッキを傾ける。
「…………記憶は曖昧ですが……そうですね。捨てられたのだと思います」
ジョッキの三分の一程を一息で飲んで、私は細く長く息を吐いた。曖昧な表現にしたのは記憶喪失設定だから。でも確かに私は、いらない存在だった。
「……ち」
「チカ」
お迎えだ。ティグルは護衛というよりも私専用のGPSなんだと思う事にしよう。振り向いた先には、眉間に皺を寄せて呆れた様子のグレアムさんが立っている。
「……お前は、攫われる時はいつも酒が原因だな」
「すみません」
呼ぶように伸ばされた彼の右手。迷わず、椅子から立ち上がって歩み寄る。優しい温もりに身を寄せた私は、振り返って神官様へと視線を向けた。
「彼の息抜きに付き合っていました。少し、疲れているようだったので」
「このような場所でお会い出来るなんて光栄で御座います、賢者様。ですが何故ここに?」
氷の作り笑いが復活した。にっこり微笑む神官様に対して、グレアムさんは不機嫌な表情を浮かべている。
「……迎えだ。チカが世話になった。だが勝手に城の外へ連れ出すな」
「お弟子殿が許可無しに外出出来ないとは存じ上げず、失礼致しました。悪意に敏感な神獣が張り付いている為問題無いのかと」
悪意……どういう事だろう。ティグルは悪意に敏感で、それを察知して攻撃するって事かな。でもカーラットさんはやけにティグルを怖がっていた。神官様はあまり気にしていない様子だったけど……部屋から出る事が格段に増えたし、詳しく聞いておいた方が良いのかもしれない。
「弟子が世話になった」
グレアムさんは懐から財布を取り出すと紙幣を数枚神官様に押し付けた。遠慮がちに、だけどがっちり受け取った神官様の瞳がキラリと光ったような気がする。ラッキーとか思っていそう。そしてきっと……おつりは自分の懐に入れるのだろうな。
「神官様、あなたはまだ帰らないんですか?」
「えぇ。今聖女様に会う気にはなれませんし、もうしばらく飲んで行きます」
「そうですか。まぁ……頑張って」
「付き合って頂いてありがとうございました」
軽く手を振って挨拶して、神官様とは別れた。
店を出た私は、グレアムさんにがちりと腰を掴まれて歩く。
「勝手に城の外へ出てすみませんでした」
「…………お前は無防備だな」
「返す言葉も御座いません」
気を付けるよう言われていた相手に城の外へと連れ出され、しかも呑気に酒を飲んでいたのだ。叱られるのは当然だろうと思ってしおらしくまつ毛を伏せれば、深い溜息が聞こえた。
「……ティグルは悪意に反応する。しかし、神に仕える神官相手だと鈍くなる」
「反応した所を見た事が無いのですが、ティグルが悪意に反応するとどうなるんですか?」
「悪意の大きさによって異なる。小さな悪意には噛み付くだけだが、大きくなれば発動する力も強くなる」
という事は、神官様には私への悪意が無かったから護衛としてのティグルの力は発動しなかった訳か。それと、カーラットさんはどうやら、ティグルがグレアムさんのもとへ来たばかりの頃に警戒されて噛まれる事が多かったらしい。それ故ティグルの存在がトラウマになっているのだと、帰る道すがらグレアムさんが教えてくれた。ティグルはGPSで、私が接する相手の悪意計測器でもあるようだ。悪意が強い相手と私が接すれば自分の判断で守ってくれる。グレアムさんが言うには、ティグルはとても賢い子みたい。
「なんだ。疑ってごめんね、ティグル」
護衛としてのティグルの存在を一瞬でも疑ってしまった事に対して、私は謝罪しつつティグルの頭を撫でる。ティグルは、気にするなとでも言うように可愛らしく鳴いてくれた。
魔法で作る炎に照らされた大通りは、まだまだ人通りが多い。店先の椅子に座って酒を飲む人、足早に家路を急ぐ人、のんびり恋人と寄り添い合って歩く人と様々だ。ふと、私とグレアムさんも恋人同士に見えるのかが気になった。私の腰には彼の手があって、ピタリと身を寄せ合っている。私は彼に想いを言葉で伝えたが、私は彼の想いを知らない。
「……どうした?」
見上げて目が合えば、とろりと綻ぶ彼の表情。私が部屋にいなければ、グレアムさんは必ず迎えに来てくれる。こうして腕に抱いてくれる。「私を愛してくれますか」なんて贅沢過ぎる問いを、私は吐けない。今は寄り添い、抱いてくれる。口付けてくれる。微笑み掛けてくれる。彼の心がどうであろうと、私は永遠を彼に誓う。彼が私を、望んでくれたから。
「…………神官様は、孤児だそうです」
温もりへ擦り寄り、私はどうでも良い話題を口にする。
「神殿は孤児の保護もしている。その中で才能が見出されれば、神官になれる」
神官様の授業でもその話を聞いた。神殿はあちこちの国へ人を派遣して、布教という名の奉仕活動をしている。孤児に読み書きを教えたりなど、困っている人に手を差し伸べる団体なのだそうだ。私の世界にもそういった団体はあった。
「孤児が職や寝床を手に入れる手っ取り早い方法は神官になる事だ。魔力を持つ者なら、受け入れられる」
「……何故、魔力を持つ者限定なんですか?」
「神託を聞くには大きな魔力がいる。それと修行もな。各地へ派遣される為自分の身を守る必要もあるから、神官になると戦う術も叩き込まれる」
「なんでも出来るようになるんですね」
「そうだな。だから神官は人気の職種でもある。だが修行に耐えられず逃げ出す者も多い」
「……あの神官様は、自分で居場所を手に入れた人なんですね」
親に捨てられ、辛い修行に耐えて、今の場所にいる人なんだ。
「……あいつが気になるのか?」
問われ、私は考える。
「気になるというか……生まれ持った境遇が私と似ていたのかなと思っただけです。まぁあの人の方が、比べては失礼な程に過酷そうですが」
吐息だけで笑った私を、灰色の瞳がじっと見つめていた。なんだろうと首を傾げれば、腰を抱く手に力が込められ更に体が密着する。
「お前の話を聞いていると、お前の元いた世界はアンバランスな場所に感じる」
「アンバランス、ですか?」
目を瞬き意味を問う私の視線の先で、グレアムさんはゆっくりと頷いた。
「警戒心が足りないから平和な世界なのかと思えば、暗い影も感じる」
瞳を覗き込まれ、そっと髪を撫でられ私は、静かな笑み浮かべる。
「治安は良い国だったと思います。他国との戦争も長い事していなかったですし、国民は守られていました」
世界はどうかはわからないけれど、少なくとも私のいた国は、平和と呼べる場所だったと思う。
「ただ私が誰にも必要とされず、誰も必要としない所為で孤独だっただけです。世界ではなく、個人の問題です」
「……今もお前は、孤独のままか?」
「そう見えますか? ……私には今、グレアムさんがいます。ティグルもいて、友人も出来ました」
背伸びをして彼の唇を掠め取る。溢れる気持ちを笑顔で表す私を瞳に映し、グレアムさんの頬がほんのり赤く染まった。私は彼の気持ちを行動や表情から推測する事しか出来ないけれど、それでも構わない。
「あなたの腕の中で眠り、あなたの腕の中で目覚める。私にとってそれは、この上ない幸せです」
そうかと呟いたグレアムさんは、私を抱き締めてワープを使ったみたいだ。気付いた時にはグレアムさんの部屋の中。唐突に激しく深い口付けが落とされ、私達は縺れるようにしてベッドへ倒れ込む。甘く笑うグレアムさんは嬉しそうで、それを見たら私も嬉しくなる。
「チカ」
「はい」
「抱いても構わないか?」
「構いません。私はあなたのもの。あなただけのもの」
想いを伝える為に私は両手で彼の頬を包み、灰色の瞳を見つめて了承の返事をした。それを受け、グレアムさんはとろりと目元を蕩かせ私の服をはだけさせると熱心に所有印を付け始める。目に付くのか、彼は落ち人の証に唇や舌を這わせるのも好きだ。私は、彼の長い髪に指を絡めるのが好き。
彼の重みと重なる素肌。私は幸福に身をとろかせながら彼の熱を受け入れた。