二十五. 柔らかな檻19
泣き腫らした顔のリリスをソファへ座らせ、私はお茶の支度をする。カーラットさんは見守りに徹する為か、前回同様廊下側の扉横に立っていた。
「リリスの世界にはあるかな? 花の蜜。甘いのは好き?」
私の世界では蜂蜜と呼ばれているんだよ、とは続けられないが、リリスが頷いたから私はお茶に蜜を垂らしてミルクを淹れる。ミルクティーもどき。もどきなのは私が紅茶を思い出しながらブレンドした茶葉で作ったから。こちらで紅茶と呼ばれる物は、色は確かに紅茶だが酸味が強くて香りにかなり癖がある。同じ呼び名でも違う物だったから自分で作った。
「悲しい気分の時にね、私はこれを飲むと落ち着くの」
少しだけ、悲しみが和らぐ気がする。昔はよく飲んでいた。
「……甘い」
両手でカップを包んで一口飲むとリリスが呟いた。そしてまた、パタパタ涙を零す。まだ数回しか会っていないけど、私はこの子の泣き顔ばかりを見ている気がする。胸の奥が、じくりと痛んだ。
「…………外に、行きたい?」
こくりと、リリスは頷く。
「私、チカさんにまた会いたくて、お願いしたんです。でもダメだって。それなら外を散歩したいって言ってもダメって。ダメばかり。……私の安全の為って言われたけれど、なんで私、守られてるのかもよくわからないっ」
私はハンカチを取り出してリリスの隣に移動した。私が差し出したハンカチを受け取り、リリスは顔を埋める。私が勝手に神殿の事やリリスの力の事を話すのはグレアムさんに禁じられている。神殿と王宮の間である問題に関わるらしい。だから私は、リリスに選択の自由を与える事は出来ない。
「落ち人の話は、誰かから聞いた?」
私の問い掛けに、鼻を啜りながらリリスは頷いた。
「滅多に現れないし特別な力があるから悪い人に狙われ易いって言われました。でも、お城の中でも危ないの?」
「……私も城には初めて来たからわからない。私にリリスを守る力があったら、外に連れ出してあげられるのにな」
私は閉じ込められても苦にならない。でもリリスは違う。
「イグネイシャスは外に連れて行ってくれようとしたけど、スウィジンさんはダメって言うの。それで二人が喧嘩を始めて……喧嘩ももううんざり!」
だんっと勢い良くカップがテーブルに置かれた。よほど腹に据えかねていたらしい。王弟の二人と腹黒神官への不満が、リリスの口から次から次へと溢れ出して来る。
「最初の頃なんてお風呂にまでついて来ようとしたんですよ? 有り得ないでしょう!」
王弟二号は笑顔で当然のようについて行ったらしい。ふにゃんふにゃん笑顔で歯の浮くような事を平気で言う彼は、以外とすけべなのかもしれない。
「スウィジンさんが止めてくれなかったら私が殴ってましたっ」
王弟一号にはその辺の常識はあるという事か。だけど彼も彼で問題有りのようで……
「スウィジンさんは乱暴者で、すぐ怒ってイグネイシャスに噛み付くの。イグネイシャスもイグネイシャスで笑顔でそれに応戦するし。それにね、いつもにこにこ笑って優しいけど……イグネイシャスはなんだか瞳が冷たい気がする。フィオンくんとスウィジンさんだって私に良くしてくれてるけど、二人はよく……困ってる」
「……困ってる?」
「言葉が通じない時は通じないから困っていたみたいですけど……通じるようになってからも、たまに困った顔になるんです。なんだか疲れているみたい。私の面倒なんて、見てるからかな。イグネイシャスも二人には冷たいし…………」
王弟の二人が何に困っているのかは知らないが、どうやらリリスは困った顔を見ると心が痛むらしい。だけど自分も好きで落ちて来た訳ではないし、どうしたら良いのかがわからないようだ。
「……神殿に行けばイグネイシャスがお仕事をくれるって言うの。ここに閉じ籠っているよりは私も良いと思うけど……フィオンくんとスウィジンさんはそれにも反対するの」
王弟の二人は禁止ばかり。腹黒神官は甘い言葉をくれる。でも甘い言葉は、きっと毒だ。
「神官様の言うお仕事って?」
「お祈りするの。みんなの怪我や病気が治りますようにって。私、傷が治せるんです!」
元の世界ではそんな事は出来なかった。こちらに落ちて、神様が与えてくれたみたいだと言ってリリスははしゃいでいる。
禁止ばかりは王弟の二の舞になる。さて、どうしたものか。
「…………私もよく、師匠に禁止ばかりをされる」
「賢者様が? 例えばどんな事ですか?」
「城に来たばかりの頃は、部屋から出るな、誰にも会うなだったかな」
「えー、酷い! どうしてそんな事を言うんですか?」
身を乗り出してリリスが憤慨している。私は苦笑を浮かべ、リリスの頭を撫でた。
「あの方は、とても不器用だから」
「でもチカさん、今はこうして私と話しています」
「うん。でもきっと、彼は私を外に出したくなかった。それは、私を守ろうとしてくれたからだと思う。怖いもの、嫌なものを見せないで、包み込んで、守ってくれようとしたんだと思うの」
お城は怖い場所だとグレアムさんは言っていた。確かに今、私はこうして変な陰謀に首を突っ込みかけている。それに、私が他人と関わる事が苦手だとグレアムさんは知っていた。だからこその命令だったんじゃないかと、私は考える。
グレアムさんの事を考えながら微笑んで告げたら何故か、リリスが赤面した。
「えぇっと、あの……賢者様とチカさんって……」
「何?」
「師弟愛ってやつですか?」
師弟愛……私は偽の弟子だから、どうなんだろうか。
「よく、わからない」
目を瞬いて首を傾げる。ぶふっと噴き出す音が聞こえ、私とリリスは同時にそちらへ目を向けた。カーラットさんが肩を震わせ笑っている。
「師弟愛……いいね。純粋な感じだ」
拳を口にあてて押し殺そうとしてはいるが、やけに楽しそうな笑い声が隙間から漏れている。何がそんなに可笑しかったんだろう。
「チカはあいつを美化し過ぎじゃねぇか?」
「何故です?」
「男が女を閉じ込めるのは、独占欲だ」
「誰が、誰を独占するんです?」
「グレアムが、チカをだ。他に何がある」
「私に独占する価値があるとは思えません」
「ほら。そんなんだから、閉じ込めたくなる」
眉間に皺が寄ってしまう。独占欲……グレアムさんが、私を? 独占したいの? そんな。それって、なんだか……
「チカさんって可愛いです!」
リリスに押し倒された。ぎゅうぎゅう抱き締められるけれど、余裕が無くて構っていられない。
「真っ赤! 照れてるんですか? らぶらぶなんですか?」
「ら、らぶらぶって……」
なんということだ。もしカーラットさんの言う通りなら、嬉し過ぎて死んでしまいそう。全身がカッカと熱くて困ってしまう。
「そ、そうではなくて……私は、リリスも同じように大切に守られているのだと言いたくて…………」
カーラットさんの所為で脱線してしまった話をなんとか戻そうとするけれど、リリスが大騒ぎではしゃいでいて話にならない。彼女が楽しそうで元気になったのは良いけれど、収拾の付け方がわからなくて途方に暮れる。
「まぁ、リリスの事に関してチカが言っている事は合ってる。それと、解決方法を俺は知っている」
リリスに押し倒され揉みくちゃにされた状態で、私はカーラットさんを見る。私の体の上で、首を傾げながらリリスもカーラットさんへ視線を向けた。私達の視線の先にいるカーラットさんはいたずらを思い付いた少年のような――というには大人の強かさが多分に滲んだ笑みを浮かべ、私を見ている。
「チカがグレアムにねだれば良い。リリスと出掛けたいから連れてって、てな」
***
薄暗くした部屋の中。私はソファで膝を抱えていた。ガウンを体に巻き付け、ティグルを腕に抱えて彼の帰りを待つ。心臓がバクバクしてる。就職の為に受けた面接ですらここまで緊張はしなかった。
遠くで扉が開く音がして、私はピクリと体を揺らす。いつもなら嬉しくて飛び出すけれど、緊張し過ぎて動けない。
「…………チカ?」
寝室の扉が開けられて、グレアムさんが不思議そうに呟いた。多分、私が動かない所為だ。
どうしよう。駆け寄りたいけど、覚悟が、まだ……
「眠ったのか?」
静かな声がすぐ側から降って来る。そっと髪に触れられ、体がビクリと揺れてしまった。
「……おかえり、なさい」
顔を上げて掠れた声で告げると、グレアムさんが穏やかな笑みを浮かべる。それを見たら、先程まで胸の内で暴れていた緊張がすっと溶けた。
「何か、あったのか?」
隣に座ったグレアムさんに身を寄せるとすぐ、心配そうに問われてしまった。何かは確かに、あった。
「あの……叶えて欲しい事があって」
「珍しいな。なんだ?」
私の髪を梳く優しい手付き。甘さの滲む声。
「……リリスと、出掛けたい、です」
無言。
恐る恐る見上げたグレアムさんの顔は、眉間に深い皺が刻まれてとっても不機嫌になっている。
私はガウンの合わせ目を緩め、ゆっくり肩から落とす。恥ずかし過ぎて、まつ毛を伏せた。
「対価があれば、叶えてくださいますか……?」
ガウンの下は、勇気があったら着ると約束した胸元が大きく開いた寝間着。王様の部屋で用意されていた物よりもエロティックで、でもグレアムさんが私の為に用意してくれた服。
「……カーラットの入れ知恵だな?」
私の姿を見て目を丸くした後で、グレアムさんは疲れたような声で呟き溜息を吐いた。ソファの背凭れへ背中を預け、片手で顔を覆ってしまう。
「…………だが、効果的だな」
隙間から覗いた口角が上がり、彼の唇が笑みを形作ったのを見たと認識した時にはもう、私の体は捕まり淡い色の瞳が目の前にあった。啄むような口付けとともに、大きな掌で頬を包まれる。
「俺が聖女を連れ出す。その意味をわかった上で願うのか?」
灰色の瞳が真っ直ぐ私を覗き込んだ。彼の親指が私の下唇を撫でて、答えを促す。
「……はい。あなたがリリスの、聖女の、庇護者となる」
「俺がそれを断り続けている事も、聞いたか?」
「はい……」
思わず目を逸らしてしまった。だけどそれは許されない。柔く唇を食まれ、促される。俺の目を見ろと、彼は無言で命じた。
「何故お前が、聖女をそこまで気に掛ける? たかが一人、力を搾取され死ぬだけだ。世の中にはそんな事は溢れている。神殿も、もしかしたらそこまで冷酷ではない可能性もある」
わかっている。たかが一人。私だって、他人なんてどうでも良い。他人が何に巻き込まれようが、それによって命を落とそうが、知った事ではない。でも――――
「あの子があなたの所に落ちていたらと、考えてしまうんです」
私が、私という異物が、あの子を弾き出してしまったのではないかと考えてしまう。だってグレアムさんの元へ最初から落ちていたら、あの子は守られていた。
「……何故、そんな事を考える?」
彼の瞳は私の心を覗こうとするみたいに、私の瞳を見つめる。言葉を紡げなくなって、私は下唇を噛む。だけどグレアムさんは許してくれない。唇と舌先で私の壁を、解く。
「チカ……言わないと、願いは叶えられない」
熱を呼び覚ます前に唇は離れ、また問い掛けられる。宥めるように背中を撫でられ、頬にも彼の手の温もり。灰色の瞳の中、映る私は泣きそうに顔を歪めた。
「……私は、無力です。なんの価値も無い。それなのに、あなたは私を守ってくれる。でもリリスは他者が欲しがる力を持っている。あなたならリリスを守れると聞いたら余計に……思いました」
私はここでも、いらない人間。
「私が、あの子が落ちるべき場所から弾き出してしまったんだとしたら? 守られる必要もない私なんかが守られて、どうしてあの子が泣いているんでしょう? 私がいなかったら、もしかしたら」
深い口付けに、私の言葉は飲み込まれた。私の言葉を飲み込んだ薄い唇が、今度は目尻に溜まっていた涙を拭い取る。
「……そんな事を、考えていたのか」
「…………はい」
「俺は、落ちていたのがお前で良かったと思っているのに、お前は何処に行きたかった?」
「私は……私だって、あなたの元に落ちて良かったです。でも……」
「想像するだけ無駄な事。そんな事に、心を痛めていたのか」
優しく目を細め、彼は私を抱き締めた。髪を撫でられ、背中を撫でられ、私の体からは力が抜けて行く。
「……良いだろう。お前が心を痛めるのなら、俺はそれを取り除く。望みを叶える。代わりに」
抱き上げられ運ばれた先は、グレアムさんの大きなベッド。まるで大切な物のように私をベッドへ下ろし、彼は私に覆い被さった。
「お前の全てを俺に寄越せ。お前は生涯俺だけの物だと誓え。何処にも行くな。俺の側にいろ」
「……はい。私は……私の全ては、あなただけの物です」
重なった唇は荒々しくて、でも優しくて、甘くて、熱い。呼び覚まされた熱は体の芯をとろかせ、絡まる指先が幸福な痺れを広げて行く。愛しい男の腕の中、空が白み始めるまで私は、彼の全身で甘やかされた。