二十三. 柔らかな檻17
今朝は少し特別な朝。早起きをして、グレアムさんが薬草園を案内してくれた。摘み取りの許可は王様とグレアムさんがくれたから、いくつか摘んで籠に入れる。籠は左手に下げ、私の右手はグレアムさんの大きな手に包まれる。
久しぶりの薬草の香り。
グレアムさんの声で語られる薬学の知識。
ゆったりした幸せな時間。
「チカ」
「はい」
「楽しいのか?」
「はい!」
「そうか……」
にこにこしている私を見て、グレアムさんがふっと柔らかな笑みを見せてくれる。
「おいで」
そっと腰を抱き寄せられ、私は招かれるままにグレアムさんの胸元に擦り寄った。繋いでいた手は離れてしまったけれど、距離がぐんと近くなる。私は、空いた右手でグレアムさんの腰のシャツを軽く握った。化粧をしていなければ胸元に頬ずりをしたい気分だ。
「グレアムさん?」
彼の顔を見たくて見上げたら、いつもはすぐに気付いてくれて目が合うのに、合わなかった。柔らかな表情は消えて、彼は目を冷たく細め何処かを見ている。森で危ない動物がいた時と同じ表情。だけどここは森じゃない。城の庭にある危険はなんだろうと首を傾げつつグレアムさんの視線を辿ったら、見覚えのある背中が見えた。
「……チカ」
「はい」
「行こう。腹が減った」
「朝食は、すぐ出来る物にしますね」
厨房へ向かう途中の道。見えた背中は多分ディードくん。折角今日はグレアムさん本人がいるのにタイミングの悪い人だ。急いでいたようだから、きっと仕事なのだろう。
厨房で食材を受け取ってから、待っていてくれたグレアムさんのもとへ駆け戻るとまた腰を抱かれた。ドキドキして、すごくすごく嬉しい。
「……今日もお仕事はありますか?」
「断った」
「そうなんですか」
それなら今日は一緒にいられるのだろうか。いられるのなら、とても嬉しい。
「チカは、何をしたい?」
「グレアムさんといたいです」
「そうか。いや、だが……行きたい場所はないのか?」
「薬草園に一緒に行きたかったですが、もう行ってしまいましたね」
「そうだな」
グレアムさんの腕の中、私はこれ以上ないくらい幸せな気持ちで歩く。食材の籠はグレアムさんが持ってくれていて、部屋の前にあった洗濯物の籠も持ってくれた。私が鍵を開けて、一緒に部屋へ入る。部屋に入るとグレアムさんはソファへ向かい、肩に乗せたティグルと一緒に動き回る私を目で追っていた。何か言いたそうだ。朝食の支度をしながら考えて、私は先程の会話を思い出す。そしたら胸一杯に幸福が広がり笑みが零れた。
「私は、グレアムさんにゆっくり休んでもらいたいです。あなたが好きな事をしているのを見ていたい」
朝食を終えてお茶を飲みながら告げてみる。
ゆっくり目を瞬いた後で、グレアムさんがじわりと苦笑を浮かべた。
「俺は、お前に息抜きをさせたい」
「グレアムさんといる事が、私の息抜きになります。グレアムさんは何処かに出掛けたいですか?」
「………思い付かん」
「側にいたい。私の望みはそれだけです」
結局私達は、森の家でやっていたのと同じ時間の過ごし方をする事にした。朝採った薬草を、グレアムさんに教えて貰いながらそれぞれに合った方法で煎じたり乾燥の準備をしたりする。それが終わる頃には私は昼食の支度。昼食の後は、バルコニーに出て並んで座り本を読む。時折、グレアムさんに髪や頬を撫でられる。抱き寄せられて、触れるだけのキスをする。満たされた気持ちで少し眠たくなり、グレアムさんに擦り寄って甘えると笑い掛けてもらえる。こんな時間が、私には愛しい。
「……聖女の件が落ち着くまでは、森へは帰れそうにない」
私の髪を梳きながら、グレアムさんが淡々と告げた。
「リリスは、何に巻き込まれているんですか?」
聞きたくて、怖くて聞けなかった事。私が聞くべきではない事かもしれないけれど気になった。
「……聖女の力の事は、話したか?」
「少し聞きました。癒しの力があるんですよね?」
癒しの力。リリスにしか、使えない力。レアンディールには魔法はあるけれど、怪我や病気は私のいた世界と同じように治す。魔術師が調合する薬は漢方のような物で、人間が持つ本来の治癒力を手助けする物。だけどリリスは、病気も怪我も、不思議な力で治せてしまうらしい。
「神殿は、その力の恩恵を万人に等しく与えるべきだと主張している。アービングはそれに反対している」
「……何故ですか?」
「癒しの力は術者の命を使う。万人になど分け与えたら、聖女は死ぬだろうな」
「……だから、聖女様なんですね。リリスはその事は?」
「まだ伝えていない。無闇に使うなとだけ」
「そうですか。………私、たまにあの子の様子を見に行ってはいけないでしょうか?」
「駄目だと俺が言えば、お前は行かないのだろうな」
「はい。諦めます」
互いに視線は絡めないまま。私はグレアムさんの腕の中、ゆっくり何度も髪を撫でられている。グレアムさんは暫しの沈黙の後でふっと息を吐くと、私の髪に口付けた。
「お前の望むようにしろ。だがティグルは必ず側に。神官には気を付けろ」
「はい。ありがとうございます」
あの子の運命を左右する力は私にはないけれど、少しでも安心して過ごせるよう気を配る事なら出来ると思う。何か力になりたい。だって私は、もしかしたらあの子の安らぎを奪ったのかもしれないから。
「……そういえば、アービングに意味がどうのと言っていたあれはなんだ?」
それはきっと、リリスに会った後でお茶の葉を取りに向かう途中での話だ。グレアムさんを見上げ、彼の手に指を絡めながら私は口を開く。
「なんとなく、王様自身が意味を探しているように感じました。彼は、私に何かを重ねていたような気がしたんです」
王様が何の意味を探したいのかまではわからない。だけどそれは本人にしか見つけられないもの。
グレアムさんは無言で私の髪を撫で、私も無言で目を閉じた。
本のページを捲る音。
グレアムさんの心臓の音。
膝の上で眠るティグルの可愛い寝言。
一人じゃない静けさに包まれ、私はグレアムさんの腕の中で微睡んだ。