二. 森の家1
モフモフ白蛇の名前はティグル。飼い主の男前はグレアムさん。この世界の名前はレアンディールで、ここはとある国の森の中。まずはそれだけ覚えれば良いと言われ、無愛想だけど親切なグレアムさんのお世話になる事になった。
帰れないなら仕方がない。帰りたい訳でもなし。グレアムさんに放り出されても右も左もわからない。なので私はお言葉に甘えて居候になる事にした。流れに身を任せる事は得意だ。
「チカ、来い」
庭で洗濯物を干していたら呼ばれた。
玄関に寄り掛かって仏頂面で手招きするグレアムさん。なんだか可愛い。
「お前も使えるように弄ってみた。やってみろ」
グレアムさんが視線で指し示したのは台所。私は彼の意図がわかってそこへ向かう。
グレアムさんは魔術師。レアンディールには魔法がある。魔法が使える人間にとっては家電以上に便利なものがこの家にはある。だけど、魔力なんて皆無な私には使えない。使えないと困るから、グレアムさんが手を加えてくれたみたい。
「俺の魔力を溜めておいた。空になったら言え」
コンロの火も魔法で付ける。だけど私仕様でスイッチ式にしてくれた。スイッチに触れれば溜めてあるグレアムさんの魔力をガス代わりにして火が付く。水道も同じ。水道は魔力を使って地下から組み上げているらしい。
「お手数おかけしてすみません」
頭を下げたら鼻を鳴らされた。グレアム語で「気にするな」という意味だと勝手に受け取っておく。眉間に皺を寄せたグレアムさんは仕事部屋へ引っ込んだ。私は彼の仕事部屋には立ち入り禁止。掃除は私の仕事だけど、弄られると困る場所のようだ。
掃除に洗濯、庭にある畑の世話と食事の支度が私に与えられた仕事。庭にある花壇のような場所は弄ってはいけない。薬草が植えられているのだと言っていた。
森の中の家にはグレアムさんと私とティグルだけ。余計な他人に会わなくて良い生活は、日本よりも居心地が良い。
*
一通りの仕事を終えた午後。夕飯の支度までの空き時間に私は、グレアムさんが貸してくれた本を読む。私がレアンディールの言葉を理解する事が出来るのはグレアムさんが私にそういう魔法をかけたから。最初に会った時、言葉が通じないから魔法をかけてくれたらしい。意識を失ったのは頭の中をグレアムさんに弄られたからだって事後報告された。まぁ、言葉が通じなかったんだから事後報告しか出来ないよな。
私は本でレアンディールについてのお勉強。ティグルは私の肉付きの良い胸元が気に入ったらしく、そこに潜り込んでお昼寝中。
「チカ」
呼ばれて振り向くと、グレアムさんが仕事部屋から出て来た所だった。歩み寄って来て、彼は私の隣に腰掛ける。ふわっと香るのは薬草の香り。魔術師は薬も作るんだって。
「お茶ですか?」
無言で彼の首が縦に振られた。
私は立ち上がる。けど、彼の視線が私の胸元に注がれている事に気が付いて止まる。
「ティグルは寒がりなんですか?」
名前を呼んだら、にゅるんとティグルがシャツの襟ぐりから顔を覗かせた。それを見たグレアムさんの眉間に皺が刻まれる。自分のペットが私みたいな女の胸元で暖を取っているのは不愉快のようだ。それはそうだ。撫でくり回したくとも私の温もりが残っていたら気持ちが悪くて出来ないのだろう。
「ごめんなさい」
謝ってからティグルを引っ張り出した。ティグルは不満そうだけど仕方がない。グレアムさんが何も言わないから、ティグルを彼の膝の上に乗せて私は台所へ向かう。だけど呼び止められた。
「お前はいつも謝ってばかりだな」
「……そうですか?」
灰色の瞳が不満そうに私へと向けられる。困ったから、私はへらりと笑って誤魔化す。
「その笑みも気色が悪い」
「それは……すみません」
困った。不快にさせてしまったようだ。だけど謝るとまた眉間の皺が深くなる。困った末に、私は目を伏せた。無言で台所へ向かい、お茶の支度をする。
ティグルはグレアムさんの肩の上。グレアムさんの灰色の瞳は、私の背中を睨んでいる。
お世話になっているのに不快にさせてばかり。不甲斐ない自分に、少しだけ涙が滲む。日本にいた時もそうだった。私は他人を不快にしてしまう。
目付きが気に入らないと怒られたから、笑顔を身に付けた。
口が悪いと言われたから、極力話さないようにした。
笑顔で取り繕って、耳障りの良い言葉ばかり吐くようにした。なんとなく、相手が言われたい言葉を察するのが上手くなった。
「チカ、ティグルは雄だ」
温かいお茶を入れたカップを手渡したらグレアムさんが真剣な顔でそう言った。灰色の瞳が私の胸元をチラリと見る。私は一瞬意味がわからなくて、だけれどグレアムさんの目線と彼の表情を見て、笑ってしまった。
「人間ではないですよ?」
「だが男だ」
変な事を気にするんだなと思ったらおかしくて、私は小さな笑いがおさまらない。
「……その笑みなら、良い」
ふっと、仏頂面が綻んだ。お茶を飲む彼の横顔を見て、私はなんだか恥ずかしくなる。
「グレアムさんも、今の表情が良いです」
照れをお茶と共に飲み込んで告げるとグレアムさんが変な顔をした。照れたのかもしれない。
その後は無言のまま、私達はお茶を飲んだ。
***
グレアムさんはよく、ふらりと森へ出掛ける。薬草採集に行っているらしい。まだ若いのに隠遁生活を送っている彼は人間嫌いなのかもしれない。それでも私の面倒を見る事を引き受けてくれた辺り、良い人なのだろう。いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せているけれど、あまり口数が多い人ではないけれど、彼といるのは居心地が良い。
ティグルはグレアムさんが連れて行ってしまったから一人きり。少し寂しい。そう思ってから、自分の感情に笑みが零れる。寂しいなんて感じるのは随分久しぶりだ。
洗濯も掃除も終わった。食事も温めたらすぐに食べられる。木々の隙間から暖かな陽が降り注ぐ玄関脇。私はそこに座って膝を抱えた。
森の中は静か。静かだけど、いろんな音がする。鳥の鳴き声。風の音。木から何かが落ちる音。
目を閉じて、私は耳を澄ませる。
彼の足音を待つ。
初めて留守番をした時、帰って来たグレアムさんにおかえりなさいと言ったら、彼は変な顔をした。多分照れた。だから私はまた、彼とティグルにおかえりなさいを言いたくて、待つ。
「チカ、寝ているのか?」
大きな手が肩に触れて、揺すられる。
眠ってしまった事に気が付いて、私は目を開けた。見上げると、肩にティグルを乗せたグレアムさんが私の前に膝を付いて不思議そうな顔をしている。
「おかえりなさい。グレアムさん、ティグル」
少し寝ボケて緩んだ顔で笑ったら、やっぱりグレアムさんは変な顔。ティグルは彼の腕を伝って私の方へ来て顔を擦り寄せてくる。その後でまた胸元に潜り込もうとしたけれど、グレアムさんの手に捕まってもがいていた。
「こんな所で寝るものではない」
「この前は構わないと言っていました」
よく晴れた日、外で昼寝をしたら気持ちが良さそうだと言った私に彼が言ったのだ。たまには外で昼寝も良いかもなと。それを思い出して首を傾げると、彼はまた変な顔になる。照れる要素はなかった。これはなんの表情なのだろうか。
「…………俺がいる時は良い。ここは滅多に人間は来ないが、全く来ない訳ではない」
なるほど。危ないからと心配してくれたんだ。
「私を襲うなんて、よっぽどの物好きだと思います」
笑って言う私を見て、グレアムさんの眉間に皺が寄った。
命の危険だったのかな。それだったら確かに、グレアムさんの家の前で殺される訳にはいかない。迷惑だ。
「……あなたが、いる時だけにします」
「そうしてくれ」
するりと大きな手に頬を撫でられた。
心臓が跳ねる。
びっくりして彼を見つめたらまた、グレアムさんの眉間の皺が深くなった。頬にあった手が滑って肩を伝い、私の二の腕が掴まれる。力強い手に引き上げられ、私は立ち上がらされる。突然の事によろけてしまったら、広い胸に受け止められた。薬草の香り。彼の匂い。
「腹が減った」
落とされた言葉で、我に返る。
「すぐ、用意します」
逃げるように私は家の中へ入った。
顔が火照る。涙が滲む。心臓が、早鐘を打つ。
与えられた事のない優しさは、まるで毒だ。