十九. 柔らかな檻13
部屋に入った途端、背後からグレアムさんに抱きすくめられて驚いた。肩口に顔を埋めて擦り寄って来る。甘えん坊の猫みたい。
「……チカ、手を洗え。清めろ」
グレアムさんの両腕に力が込められ、そのまま私の体は持ち上げられる。炊事場まで運ばれて、無言のグレアムさんに手を洗われた。
なんだろうこれは……私、汚い物に触ったかな?
「……アービングの野郎、ベタベタと……フィオンには特に会わせたくなかった」
あぁなるほどね。ヤキモチだ。
喜びで、私の胸が高鳴った。思わずとろりと微笑んで、濡れたままの手をグレアムさんの目の前に差し出す。
「清めるのなら、あなたが清めて下さい……」
言葉に熱を込めて囁くと、グレアムさんの顔が真っ赤に染まった。彼が動いてくれないから、私は手を伸ばして指先で彼の唇を撫でる。彼の薄い唇は、水で冷やされた私の手には熱く感じた。柔らかさを確かめるように触れて、灰色の瞳を覗き込みながら体も寄せる。少しの隙間から指を差し込んでみれば中も熱い。
すぐにグレアムさんの目元が甘く蕩け、私の望み通り、彼は自分の唇で私の両手を清めてくれた。
*
紅を直さなくてはならなくなり少し時間は掛かったが、私はティグルを肩に乗せ、約束のお茶を持って廊下を歩く。付き添いはカーラットさん。グレアムさんは駄々っ子の末に他の仕事へと向かった。賢者様が王都に戻るといろんな仕事が舞い込んで来るらしい。これでは森に引きこもりたくなるのも仕方がないと思う。
「……私なんかの為にお時間を取らせてしまいすみません」
カーラットさんもお仕事があるだろうに、付いて来てくれるのが申し訳なくて頭を下げる。
「陛下は今執務の時間。俺の主な仕事はあいつの護衛だ。今は他の奴が側に控えてるから問題ねぇよ」
カーラットさんはにかっと人好きのする笑みを浮かべた。なんだかんだで、私はカーラットさんを嫌いではないと思い始めている。意外と我儘な王様と我が道を行くグレアムさん。二人の間で上手く纏めているのはこの人みたいだ。苦労人な気がする。
「……お嬢さんさ、人をじっと見る癖があるよな。それ、やめた方が良いぜ?」
「すみません。無意識です」
頭頂部を鷲掴みにされ、グリンと前を向かされた。危うく首を痛める所だ。
「私、そんなに人をじっと見ていますか?」
気になって聞いてみる。基本他人には興味がないから、人の顔なんて見ないと思うんだ。
「あー……なんだ。たまぁにあからさまに観察してる時があるよな?」
「……言われてみれば、そうかもしれません」
「でも興味が無くなるとすぐにふいっと視線を逸らす」
「そんな事をしている覚えがあります」
「あんた、わかりにくいようでわかり易いよな」
「そうですか?」
「あぁ。見てるとおもしれぇ」
くつくつ笑うカーラットさん。あなたも大概、人の事をよく見ているようですね。
「王様といつも一緒にいるからですかね」
「あ? 何がだ?」
「何を考えているかわからないとはよく言われますが、わかり易いと言われたのは初めてです」
ふっと微笑むと、カーラットさんがぽかんと口を開けた。
「なんだ、グレアム意外に対しても笑えるんだな」
「私はいつも笑っています」
「笑みの種類が違うだろうよ」
「……バレていましたか」
「そりゃな。毎日アービングといるんだ。慣れてる」
「気付いてくれる人が側にいるのなら、陛下も気持ちが楽でしょうね」
笑顔で心の内を隠すのが上手くなると、たまに自分でも自分の事がよくわからなくなる。虚しくなる。だけどわかってくれる人が側にいるのなら、それはとても、ありがたい事だ。
「…………あんたってさぁ……良い女だよな」
「は?」
驚いて見上げた先のカーラットさんの顔は、本気だ。どうした、目がおかしくなったんじゃないですか?
「これも言われ慣れてねぇんだ?」
「無いですね」
「あんたの世界の男どもは勿体無い事してんな」
「……そんな事はないと思います。あちらでは、私は見た目の努力を疎かにしていましたし、他人とは極力関わりませんでしたから」
早く死にたくて、健康なんて気にしなかった。何をするにも億劫で、肌も髪もぼろぼろ。背筋は曲がって、いつも下を向いて歩いていた。
「もし、今私が良い女に見えるのならそれは、グレアムさんのお陰です」
彼に綺麗だと言われたい。愛されたい。私に手を伸ばして欲しい。私は、私の望みの為に努力をする。
「やぁっぱ良い女だ。あいつも、良い拾い物をしたな」
「……彼もそう、思ってくれるでしょうか?」
「思ってるだろ。あいつも、変わった」
「……それが良い変化なら私は、とても嬉しい」
カーラットさんが優しく笑ってくれて、私も自然と笑みを返した。
他人と関わるのがずっと億劫だった。だけど今、カーラットさんや王様と話すのは、嫌いじゃないかもしれない。
「私も、カーラットさんのような友人が欲しかったです」
「なら今度また、酒でも飲むか?」
「良いですね。実は前回、グレアムさんが来てからは楽しかったです。……少しだけ」
彼ら三人はほとんど難しい話をしていた。だけど時折空気の緩む瞬間があって、仲が良さそうな様子を見ているのは楽しかったのだ。
今向かっているのは億劫で面倒臭い場所だったけれど、そこに着くまでの道程は意外にも、穏やかだった。
「チカさん!」
厳重警備の一室に入ると大歓迎された。飛び付いて来た天使に手を引かれ、ぐいぐい中へと招かれる。なんだか懐かれた気がする。
「……聖女様、掴まれていたらお茶を淹れられません」
「リリスです! そう呼んでくれたら放します! あと敬語も嫌です!」
天使は甘え上手みたい。
私は苦笑を浮かべ、彼女の望みを叶える事にした。
「リリス、手を放して? お茶を飲みましょう」
「はい!」
敬語じゃないのは少し苦手だ。若干混ざってしまったのは許してくれたみたい。
にこにこ笑うリリスは本当に天使。
「さっきも気になってたんですけど、この子はなんですか?」
きょとんとした顔でリリスが指差したのは、私の腕に体を巻き付けているティグルだ。ティグルは何故か嫌そうにリリスから身を離している。
「ティグルって言います」
「賢者様の使い魔で我が国の神獣です。賢者様とお弟子殿にしか懐いていないので、迂闊に手を出すと食い千切られますよ」
へー、知らなかった。カーラットさんの説明に内心でコメントして、私はしらっと微笑む。ティグルって凄い子なんだねと心の中で呟きながらティグルの頭を撫でた。リリスは怖くなったのか、ティグルから一気に距離を取っている。しかし……カーラットさんがついて来てくれたのは私のフォローの為か。まだまだ知らない事が沢山だからな。ボロを出さないよう早々に退出しよう。
テキパキとお茶の支度をしてリリスに飲ませる。この国で飲まれている普通のお茶と淹れ方は同じだけど、効果的な飲むタイミングを王弟二号にも伝えておく。どうやらこの部屋では彼がお茶の係みたいだからだ。肌のケアについては、リリスが今使っている肌ケアグッズを確認して簡単なアドバイスだけをしておく。若いんだから、健康的な生活をしていればすぐに治るでしょう。