十六. 柔らかな檻10
部屋の前には、汚れ物を入れた籠に代わって綺麗に洗濯された服の入った籠が置かれていた。王様の部屋で回収された服も入っていた事に安堵して、私は部屋へ入る。寝室への扉を開けるとグレアムさんがソファで本を読んでいた。私の方を振り向いた彼の眉間には皺が寄っている。
「……遅かったな」
「すみません。待ち伏せに捕まっていました」
「待ち伏せ?」
怪訝そうに目を細めた彼に、私はディードくんからの土産を手渡した。
「あなたのファンからです。それと、王様に会いました」
「ファン?」
私はディードくんの話をしながら食材の籠を炊事場の入り口へ置き、洋服の入った籠を持って支度部屋へと向かう。グレアムさんはソファから立ち上がり、私の後をついて来た。
「女へ贈る用の包みに見えるが?」
なんの変哲もない紙袋からグレアムさんが取り出して掲げたのは、可愛らしい赤いリボンで装飾された包みだった。私はそれを見て首を傾げる。
「王都で有名な菓子店の物だと言っていました。贈り物用だからではないですか?」
「……なんと言って渡された」
「賢者様は甘い物は好きかと聞かれ、私も一緒に食べても構わないと言われました」
グレアムさんは何やら考え込んでしまった。
「……ディード、だな? カーラットの部下の」
「はい、そうです。森の家からここまで一緒に来た若者です。よっぽどグレアムさんに心酔しているらしく、よく話し掛けられます」
「………そうか。わかった」
服を片付け終わった私は炊事場へ向かう。グレアムさんはまだついて来る。まるで雛鳥のようで可愛らしく、私の頬が緩んでしまう。
「お前はこの菓子は食うな。食べたいなら、俺が同じ物を買う」
なんだかよくわからないけれど、私は了承の言葉を返す。
「もし甘い物がお好きなら、これからは焼き菓子でもご用意しておきましょうか?」
「いや、あまり好きではない」
疲れていて、今だけ食べたい気分なのかもしれない。
朝食の支度に取り掛かる私の後ろで、ドサリとゴミ箱に物を捨てた音がした。振り向きゴミ箱の中身を見て、私はゆっくり目を瞬かせる。
「……落としましたか?」
「捨てた」
「勿体無いですね」
「そうだな。だから無闇に他人から物をもらうな」
「では、これからはお断りするようにします」
「そうしろ。毒が入っているかもしれん」
「……お城とは、恐ろしい場所なのですね」
食べ物を粗末にするのは好きではないが、私がもらった物ではない。もらった人がそれをどうしようと、その人の勝手だ。
気を取り直して朝食の支度に戻ると、グレアムさんが背中にくっ付いて来た。
「チカ……」
「はい」
「……アービングにはなんと返事をした?」
「お断りしました。ですが、あなたが行けと仰るのなら私は行きます」
無言で、グレアムさんは鼻先を私の耳元に擦り寄せる。私は、甘えてくる彼の頭に頬を寄せた。
「あなたがアービングさんの力になりたいと思うのなら、私は喜んでそれに協力します。ですから遠慮なさらず仰って下さい」
答えはなかったけれど、ぎゅうっと力を込めて抱き締められる。私はグレアムさんに包まれたまま、食事の用意をした。
*
いつも通りの静かな食事を終えて片付けも終えた後で、私は着替えを命じられた。お出掛けだと言うから服に合わせて化粧も直す。口紅も少し明るめの色に変えた。
「……出掛けるのはやめるか」
「それでも構いませんが、似合わなかったでしょうか?」
まじまじと眺められ、眉間に深い皺を刻んだグレアムさんの言葉で不安になる。支度部屋から出る前に全身鏡で何度も確認した。自分では大丈夫だと思ったのだけれど、何処かおかしかっただろうか。自分の服装を見下ろしていたら、近付いて来たグレアムさんに腰を抱かれた。腰にあるのとは反対の手で鎖骨部分のレースを撫でられる。未だグレアムさんが付けた印は消えていないから、鎖骨から首元までを繊細なレースで覆われた服を選んだ。色は上品な紫。裾の長いシンプルなワンピースで、派手さはない。髪は全て上げて纏めてみた。
「俺だけのものとして閉じ込めておきたい程、綺麗だ」
「お、大袈裟です……」
グレアムさんの言葉と視線だけで、体が甘く痺れてしまう。
頑張ってみて、何度も確認して、本当に良かった。
「そんな表情を浮かべられると堪らなくなるな」
鎖骨を撫でていた手が滑るようにのぼって私の耳を撫でた。それとは反対の耳は、グレアムさんの唇に挟まれる。柔く食まれて、擽られて、煽られる熱の影響で微かに息が上がり目も潤んでしまう。
「……ダメだ。行こう」
悩ましげな溜息を吐き、グレアムさんは私の耳を解放した。
森の中を歩く時のように手を引かれて部屋の外へ出る。何処に行くのかは聞いていない。だけど、一緒にいられるのなら何処でも構わない。ティグルはグレアムさんの肩の上。手を引かれて歩き、連れて来られた場所には馬がいた。もしかしてと思ってグレアムさんを見上げると、照れたのを隠すようにわざと渋い顔をしている。
「飛びますか?」
「……飛ぶ」
「そうですか」
約束を覚えていてくれたんだ。嬉しくて顔がゆるゆるに緩んでしまう。ニコニコしている私を抱き上げ、グレアムさんが馬に乗せてくれた。今回はスカートだから、お姫様のように横座りだ。
「掴まっていろ」
私はグレアムさんの広い胸へ縋り付くようにして身を預ける。グレアムさんが馬の腹を蹴ると、私達の足元で大きく翼を広げ羽ばたいた。
「凄い。本当に飛びました」
「翼があるのだから、飛ぶだろう」
「私の世界の馬は飛びませんし、翼もありません」
「それは残念だな」
喉の奥で低く楽しそうに笑ったグレアムさんが口の中で小さく呪文を唱えると私達の周りだけ風がやんで、景色をゆっくり楽しめるようになった。
馬はゆったり、空を駆ける。
飛行機に乗った事はあるけれど、こんなに優雅ではなかった。ヘリコプターだってきっと音が凄くて、この空の散歩のように静かではないだろう。
「……とても、素敵です」
私の口からうっとりとした溜息が漏れる。
「気に入ったか?」
「はい。とても」
頷いた私の額にグレアムさんが唇を押し付けた。見上げた彼は、柔らかな表情を浮かべている。
周りには飛んでいる馬は他にいない。理由を聞いてみたら、翼のある馬は高価なのだと教えてれた。長い時間飛ぶ事が出来ないから、空を飛ぶ為に使うのはたまの娯楽の時だけ。扱いに慣れた者じゃないと飛ぶ為にはほとんど使わないんだそうだ。
「せっかく立派な翼があるのにね」
手を伸ばしてそっと鬣を撫でたら馬が返事をした。気分が高揚していて、私は小さな声を立てて笑う。
「……アービングとカーラットに言われた。息抜きをさせてやれと」
「私の事、ですか?」
見上げた先で、グレアムさんは苦く笑って頷いた。
「俺は女の扱いはわからん。どうしたらお前が喜ぶかも、よく知らん」
ぶっきらぼうな彼の言葉に、私の胸は熱くなる。
「……あなたとする、他愛の無い会話。お側にいられる事。抱き締めてもらえる事。今ある全てが、私にはとても愛おしくて、勿体無い程の幸福です」
感情のままに、私は微笑みを浮かべた。彼の胸から感じる体温。心臓の音。全てが愛おしくて、私に安らぎを与えてくれる。
「俺はお前に、与えられてばかりだ」
「それは私の台詞です。あなたは多くのものを、私に与えて下さっています」
グレアムさんの顔が泣きそうに見えて、私は手を伸ばして彼の頬に触れる。そうしたら片腕で抱き寄せられ、私は応えるように彼の背中へ両手を回した。
隙間なく身を寄せ合った私達は、その後は無言で優雅な空の散歩を楽しんだ。