十四. 柔らかな檻8
昨日持ち切れなかったゴミをゴミ捨て場に持って行ってから厨房で食材を貰った。朝食は何を作ろうかと考えつつも、また厄介な事に巻き込まれたりしないようにと早足で歩く。だけれど私の願いも虚しく、聞き覚えのある声に名前を呼ばれてしまった。
「チカさん! き、奇遇ですね!」
「……おはようございます、ディードさん」
奇遇という言葉が疑わしい。くりくりお目々を激しく彷徨わせた真っ赤な顔のディードくんの声は震えていたし、彼は言葉を噛んだ。憧れの賢者様の話を聞きたくて待っていたのだろうか。
「な、なんだか今日は更にお美しいです。女性は服装で全く雰囲気が変わりますね!」
「あの時はサイズの合わない男物の服でしたからね。化粧もしていませんでしたし。……今日はお休みですか?」
ディードくんは制服を着ていない。腰に剣は差しているけれど、私服姿だ。
「今日は非番なんです。チカさんは……?」
「私はこれから朝食の支度があります。良い天気で良かったですね。素敵な休日をお過ごし下さい」
にっこり微笑んで頭を下げる。話を切り上げて歩き出したのに、ディードくんはついて来る。
「あの、籠をお持ちします。重たそうです」
「お心遣いありがとうございます。ですが私の仕事ですので自分で持ちます」
「そ、そうですか……あのっ」
なんだい面倒臭いな。なんて考えてる事は悟らせないよう微笑みキープで振り返る。
「チカさんの仕事の区切りが付いてからで結構ですので、お茶でも、しませんか?」
「……いつ区切りが付くかわからない仕事ですので、申し訳ありません」
「なら! お休みの時はいががでしょうっ?」
「まだこちらに着いたばかりですので、なんとも申し上げられません」
「そうですか……。お引き止めして、すみませんでした」
「いいえ。折角お誘い下さったのにごめんなさい」
しょんぼり項垂れたディードくんはまるで尻尾と耳が垂れた犬みたいだ。そんなにグレアムさんが好きなのか。でも騎士にも守秘義務とかあるでしょう。賢者様とか呼ばれる人の話をペラペラ話せる訳がない。
昨日といい今日といい、グレアムさん以外と会話する機会があるのは勘弁して欲しい。顔が疲れる。
*
鍵を開けてそっと部屋へと滑り込む。しっかり施錠してから寝室に向かい、ベッドを覗き込めばグレアムさんがすやすや眠っている。寝顔可愛い。癒される。
極力物音を立てないように食事の支度をして、完成してもグレアムさんが目を覚まさないから私はお茶だけ飲んだ。胸元にいたティグルを出して、グレアムさんのベッドへ寝かせてから仕事部屋の掃除の続きに取り掛かる。ゴミはほぼ捨てたから、本棚の埃や蜘蛛の巣を払って机や床を磨く。今日一日掛ければ、乱雑だけれど汚れはない仕事部屋が完成しそうだ。
「チカ。何処にいる」
寝室へ続く扉が開きグレアムさんに呼ばれた。丁度机の陰に隠れる位置で床を磨いていたから返事をして立ち上がる。私の姿を見たグレアムさんは、ほっとしたように息を吐いた。
「姿が見えないからまた攫われたかと思った」
「お城はそんなに危険な場所ですか?」
「そうだな。だから部屋を出る時には必ずティグルを連れて行ってくれ」
「わかりました。でも今日はもう出ません」
埃の付いたエプロンと髪や口元を覆っていた布を取り去り、服に付いた埃を叩いてからグレアムさんに歩み寄る。彼はじっと私の顔を見て、不機嫌そうに眉を顰めた。
「この部屋にいるのなら紅はいらないだろう」
「紅だけ塗らないのは変です」
「俺しか見ない」
「だからこそですよ、グレアムさん」
ふふっと笑って私は炊事場に入り手を洗う。ティグルを肩に乗せたグレアムさんも付いて来て、動き回る私をじっと見ているみたいだ。
「何か欲しいですか? 温めるだけなのですぐに食べられますよ」
鍋を掻き混ぜながら振り返る。炊事場の入り口で、グレアムさんは腕を組んでじっとしている。こうしている時の彼は、何かを言いたいけれど言いあぐねている時だと経験上の勘が囁いた。急かせば飲み込んでしまうかもしれない。だから私は食事の支度を整えながらただ待つ。
「……掃除が終われば、他の服も着るか?」
やっと彼が口を開いたのは、テーブルに食事を並べ終え互いが席についてからだった。
「はい。素敵なお洋服ばかりです。どれを着ようか目移りしてしまいます」
「……楽しみだ」
柔らかく笑ったグレアムさんを目にして、私の心臓がとくんと跳ねる。彼と過ごす時間はどうしてこんなにも、甘く幸せなんだろう。こんな幸福を私は今まで知らなかった。
生まれたから生きて来た。
死ねないから、生きていた。
目的も見つからず、楽しみも見つからず、早く時が過ぎて終わってしまえと願っていた。だけど今は、この時間が少しでも長く続けば良いと願っている。昨夜王様が言っていたこの世界に来た意味がもしあるのなら、私はグレアムさんに出会う為に来たのだと思いたい。
「チカ? どうした?」
驚いた様子で問われ、私は首を傾げる。
グレアムさんが焦ったように立ち上がり、私の横で膝を付いた。大きな彼の手に頬を包まれ瞬きと共に零れ落ちたのは、涙だ。涙は次々と零れてグレアムさんの手を濡らしてしまう。
「具合でも悪いのか? 何かあったか?」
「いえ……なんでしょう。泣くなんて、久しぶりです」
グレアムさんが指先で拭ってくれるけれど、涙は止まらない。悲しい訳じゃない。悲しくても辛くても、ここ数年は涙すら流れなかった。
「あなたと過ごす時間が幸せ過ぎて、泣けてしまいました」
泣きながら笑ったら、グレアムさんの顔が真っ赤に染まった。激しく狼狽えて、私に触れていないほうの手の甲で口元を隠す。灰色の瞳がうろうろと彷徨って、彷徨って、私を捕らえる。
「……そんな事を言われたのは、生まれて初めてだ」
「生まれて初めて、こんな事を言いました」
愛しくて、幸せで、笑顔が自然に溢れたら、ゆっくり近付いて来たグレアムさんの唇が私の唇へ重なった。そっと優しく、温もりを分け合うような口付け。
「……紅が、移ってしまいました」
「お前のなら構わない」
移ってしまった色を舐めとるように、グレアムさんは自分の唇を舐めた。その様があまりにも艶めかしくて、今度は私の方が赤面してしまう。
「俺のものだという証には、気付いたか?」
長い指先に胸元を叩かれ、私の顔は更に真っ赤に染まる。壊れてしまいそうな心臓の音を確かめさせるように、私はその手を取り胸元へと押し付けた。
「とても、嬉しかったです」
「そ、そうか」
口端を上げて意地悪な表情をしていたはずのグレアムさんは、見えている所全てを赤く染めて照れ始めた。可愛いと感想を零したら拗ねてしまったけれど、すぐに機嫌を直して笑ってくれた。
何処と無く甘く幸せな余韻に包まれて、私達は静かに、朝食とも昼食ともつかない食事を再開したのだった。