十二. 柔らかな檻6
薬草の香りだ。グレアムさんの香りだ。グレアムさんだ!
「こ……怖かったですっ」
ぽろりと言葉が零れてしまった。体に馴染んだ温もりと香りに包まれて、一気に安堵が広がる。思わず涙が滲んで、私はグレアムさんの胸に顔を押し付けた。広い背中へ手を回して、思い切り抱き付く。
「部屋にいないから心配した。何もされていないか?」
「お酒を飲んでお話しただけです。でも何を何処まで話して良いのかわからなくて……」
「人攫いが出るような物騒な場所になっているとは思わなかった。すまなかった。もう大丈夫だ」
「はいっ」
下手したらもう二度と会えないんじゃないかとか考えていたから余計に泣きそうになってしまう。目をぎゅっと閉じて涙は堪えたけれど、こっそり啜った鼻の音で気付かれてしまった。グレアムさんが顔を覗き込もうとするのを、私は腕に力を込めて拒否する。泣き顔なんてみっともないものを見られたくないし、今はまだこのままぴたりとくっついていたい。
「チカ、泣いているのか?」
「……泣いてません」
「なら顔を上げろ」
「化粧をしていないので嫌です」
「そんなもの、森の家ではいつもしていなかった」
そういえばそうだった。
グレアムさんがあまりにも優しい声を出すものだから、体から力が抜けた。彼の手が頬に触れて、顔を上げさせられる。
「お手を煩わせてしまってすみません。怒っていますか?」
「お前には、怒っていない」
良かった。柔らかく笑ってる。グレアムさんは嘘が苦手な人だから、この表情と言葉は本当だと思う。甘えるように身を寄せたら、髪を撫でてくれた。
「ぐ、グレアム……お嬢さんの服を見てみろ。グッと来るだろう?」
「グレアムも飲もう。さぁさぁ座って」
カーラットさんは何かに怯えていて、王様はにこにこ嬉しそうに笑ってる。グレアムさんは眉間に皺を寄せて不機嫌そうになったけれど、私を連れて二人の待つテーブルへと向かった。けれど何故か、私は自然な動作でグレアムさんの膝の上に座らされた。あまりにも自然で強引で、拒否する間もなかった。
「……あの、放して下さい」
「心配を掛けて悪かったと思っているのだろう? なら動くな」
「……はい」
どうしよう、強引なグレアムさんにキュンとしてしまった。安心したら酔いも回って来て体も怠い。酔いの所為にして身を預けてしまおう。彼の服を両手で握り逞しい胸に頭を預ける。体から力を抜けば褒めるように額へ口付けが落とされた。
「へぇ! カーラットの言う通りだね」
「だろう? 王都までの道中何度も、こいつは本当にグレアムかって疑ったぜ」
カーラットさんはニヤニヤ。王様はにこにこ。和やかな雰囲気だけれど、まだ私は帰れないのだろうか。
「グレアムさん、どうして私がここにいると分かったんですか?」
王様かカーラットさんが何か知らせたのかなって思ったんだけど、何故かグレアムさんが目を逸らす。
「お嬢さん、なんにも知らずにそれを連れてんのか?」
「それ……?」
カーラットさんが指差したのは、今はグレアムさんの肩にいるティグルだった。お風呂に入って毛がサラサラのモフモフで、ティグルもグレアムさんに会えて嬉しそうに甘えてる。ティグルがなんなのだろうと私が首を傾げると、カーラットさんと王様が急に真剣な表情になってグレアムさんを見た。
「ねぇグレアム。弟子のわりにチカは知らない事が多いみたいだね?」
「だがお前が掃除を許すって事は知識は与えてんだろう? なんにもわかんねぇ奴があの部屋の掃除を出来る訳がない」
関係ないと思っていた事柄が意外と重要だったみたいだ。やはり私は部屋に引きこもっているべきだったのだなと思い落ち込む。だけどグレアムさんは、私の不安を取り除くように目を細めて頭を撫でてくれた。
「……チカは落ち人だ。森で拾った」
落ち人だけれどなんの力も、魔力すらない事をグレアムさんが話すと二人はとってもガッカリしたみたいだ。無能な自分が居た堪れない。
「しかしあれだね。こんなに近い距離、近い期間で落ち人が二人。神殿が知ったらややこしくなりそうだ」
王様が難しい表情を浮かべて顎を摩っている。
「あぁ。だからチカには落ち人だという事は隠すように言った。部屋からも極力出さない。他人ともあまり話すなと」
「なるほどな。お嬢さんが頑なに隠そうとしてたのはそれだったのか」
カーラットさんが得心がいったという風に呟いたけれど、私には全くなんにもわからない。でも口を挟むべきではないと思うから空気に徹する事にした。
「グレアム、本当に彼女には何も力はないの? ティグルは懐いているみたいだけど」
王様の瞳が私へ向けられた。
「色々試してはみたが普通の人間のようだ。ティグルが懐いている理由は……わからん」
森の家で、私にも魔法が使えないかの実験をグレアムさんと二人でやった。他にも色々グレアムさんに言われた事をやってみたけれど、なにも起きなかった。
「まぁ、ティグルが側に付いてるだけで賢者様の庇護下にある事はわかる奴にはわかる。弟子って事にしたのは正解だな」
ティグルは護衛に最適だとカーラットさんが笑う。やっぱりティグルは私の護衛だったんだ。ありがとうの気持ちを込めて手を伸ばしたら、ティグルがすり寄ってくれたから頭を撫でる。
「不用心に一人で歩いてると思ったら変な所に隠れてやがって焦った。危うく大怪我だ」
「……ティグルに攻撃されるような何をした?」
グレアムさんが怖い。声がいつもより低くて、すっと細めた瞳が冷たい。カーラットさんの顔が引きつり焦っている。腕を掴んだだけだと言うカーラットさんの言葉を、私は肯定した。本当にそれだけだ。
「力は何も無いんだとしても、無関係ではないかもしれない。……彼女に会わせてみようか。勿論、チカが落ち人であるという事は隠して」
王様の言葉に、グレアムさんが嫌そうに顔を顰めた。本当に、すっごく嫌そうだ。
「そう言うだろうと思って隠していた。会わせたくない。関わらせたくない」
グレアムさんの言葉を聞いて王様が苦笑する。今度は私に瞳を向けて、私の意志を確認してくる。
「チカはどう? もしこの世界に来た意味があるとしたら、知りたくはない?」
ずるい言い方だ。突然知らない世界に迷い込んで不安に思っている人間なら意味を求めるだろう。だけれど、私がそうとは限らないし意味が本当にあるとも限らない。
「いえ、特に知りたくはありません。私は今の生活に満足しています」
きっぱりはっきり告げたら、王様の顔が微かに引きつった。多分私がイエスと答えたらそれでグレアムさんを説得するつもりだったんだろうけど、ごめんなさい。面倒な事は嫌いです。
私の答えに、グレアムさんは満足そうに頭を撫でてくれた。カーラットさんは苦い笑みを浮かべている。だけど王様は、やっぱり王様みたいだ。
「ダメでーす。会わせまーす。会って下さーい。けってーい」
権力ってずるいよね。