科学者の休日
「ほら、いこう。気の長い私と違って、クリスマスイブはキミをいつまでも待ってはくれないぞ」
薄暗い部屋の中に響くしわがれた声が、床に散らかった様々な形の工具を震わせる。
「……やった!やってやったぞ!ついに完成した!……これでわしは、わしのことを認めなかった科学者たちの一歩先を行った!!」
その歓喜の声を最初に遮ったのは、軋みながら開くドアの音と、ドアに押しのけられてぶつかり合う工具の音だった。
「博士がメールで『見せたいものがある、大至急来てくれ』なんていうから、大急ぎで家を出たら途中で雪が降ってきちゃって。もう少しで、クリスマスイブに風邪をひく哀れな男になるところでしたよ」
ドアを開き外の冷気と共に研究室に入ってきた若い男は、雪が染み込んで水玉柄になったコートを入口横のポールハンガーに掛けながら、薄暗い部屋の奥に向かって声をかける。
「助手の僕がこんなことを言うのもあれですけど、たまには自分で掃除したほうがいいですよ。さっきドアを開けたときも、床に置きっぱなしの工具達が悲鳴を上げてましたし。もちろん僕が来たときに一通り掃除しますけど、しばらく研究室に来なかったら博士が工具と発明品に飲み込まれて死んじゃうんじゃないかと思ったら、心配で長期休暇も取れないんですよ」
助手はいつも通りに小言を続けながら、壁伝いに歩いて閉め切られた窓へと向かう。工具を踏まないように一歩一歩すり足で進むが、それでもネジや様々な材料の切れ端が床を転がり、そこかしこで小さな衝突音が鳴る。
「あと、前にも言いましたが、温度変化を嫌うものを使っているときでなければ定期的に換気をするべきです。さっき僕が入ってきたとき、部屋がオイルの臭いで満ちてましたよ。博士が寒がりなのは知っていますが、僕がこの空気に慣れて何を言いたかったか忘れてしまう前に換気させてください。それと、僕が窓をあける間に博士はリモコンを探して部屋の電気をつけてください。このままだと、暗すぎて研究室で迷子になります」
窓から入った夜の透明な空気が、部屋に居座っていたオイル臭をあらかた追い出したころに、助手の背中側で電子音が短く鳴る。一瞬の間をおいて、部屋が一気に明るくなる。助手は淀んだ空気と薄暗さが窓からクリスマスイブの街に繰り出していったのを確認してから窓を閉じ、振り返った。
「博士、リモコン見つかったんですね、ありがとうございます。それで見せたいものって――」
振り返った先で見た光景が余りにも予想外で、助手は最後まで言葉をつづけることが出来なかった。彼が見たものはそう、汚れた白衣のポケットに両手を突っ込み、それと同じ色をしたくせ毛の隙間からギラギラした目を覗かせる老人と、老人の前で計器の取り付けられた椅子に座り静かに目を閉じている華奢な女性だった。
助手の脳が状況を理解する前に、老人は声を張り上げる。
「わしは、ついに人類の設計図を解き明かし、誰よりも早く不可侵の領域に至ったのだ!我々を形作る二重螺旋に『産めよ 増やせよ 地に満ちよ』を刻むのは、もはや神ではない!このわしだ!」
野心に燃えた目が助手を捉え、そのしわがれた声は一層大きくなる。
「見よ!この絹のような髪に玉の肌、身体のすべてのパーツは黄金比そのものと言っていい!さらに脳のリミッターを外し筋出力を極限まで高めてあり、屈強な軍人すら凌駕する膂力をもつ!もちろん中身も人類の最終到達点を落としこんだ、目覚めて口を開けば、これまで天才と呼ばれた全ての者を凡人の枠に押し込めるだろう!わしはこの新人類達の軍隊を組織し、最終的に国を獲る!そして、私を認めなかったすべてに復讐するのだ!」
助手はまず開きっぱなしだった口を閉じ、次に人形のように微動だにせず椅子に座っている女性をじっとと見たあと、同じ時間をかけて強く握られ興奮で小刻みに震える拳で膨らんだ老人の白衣のポケットを眺め、そして声を漏らした。
「博士、あなたはまた凄いものを作りましたねえ。こんなものを作ろうと思うのは、きっと地球上であなたくらいですよ」
部屋には老人と若い男女。微動だにしないとはいえ女性をじっと眺めているのも気が引けた助手は、老人の白衣のポケットを眺めているうちに頼まれていたことを思い出した。
「そうそう、メールで頼まれたおつかいもしてきましたよ。びっくりしすぎて今の今まで頼まれていたことも、買ってきたことも忘れてました」
そういうと、一度入口で脱いだコートに近づき、そのポケットから2つの缶を取り出す。
「頼まれていた缶コーヒーです。博士の注文通り、ちゃんとアイスの微糖を探してきました。僕のはホットだからこの時期どこでも買えますけど、アイスはもう絶滅危惧種ですよ。あの自販機以外で冬にアイスコーヒーを売ってるところを知りませんから、もし撤去されたら諦めて猫舌をなおすか、ホットを冷やして飲んでください」
そういって、助手はアイスコーヒーを突き出した。
「ああ、ありがとう。キミはできる男だと思っていたよ」
まるで電源が入ったようにぱちりと目を開いた女性は、軽やかに立ち上がり缶を受け取る。
「コーヒーくらい買ってこれますよ、はじめてのおつかいじゃないんですから。それで博士、今回はいったい何を作ったんですか」
缶を渡して片手の空いた助手は、開いたほうの手で老人を指さして問う。博士はプルタブを引きながら、見た目に釣り合う澄んだ声で飄々と返す。
「ふふふ、あれはな、同業者への嫉妬心から不可侵領域に土足で踏み込んでしまったマッドサイエンティストをイメージして作った自立型ロボットだ。驚いただろう?」
博士は目を細め、満足そうに微笑む。
「仮にあれが暖をとるために研究室に入ったホームレスだったり、音楽性の違いから解散を決めたバンドマンだったとしても僕はきっと驚きましたよ。電気をつけると博士でない人が立っている、と言うのは本当に心臓に悪いです。だいたい僕がメールを見てなかったらずっと椅子に座ってるつもりだったんですか」
「ふふ、結果的に大成功なのだから細かいことはいいじゃないか。次までに除細動器を作っておくから、次回も存分に驚いてくれ。ところで、話は変わるがこの缶はとても強情だ、今こそ助手の務めを果たしてくれたまえ」
博士は微動だにしないプルタブと格闘することを諦めて、助手に向かって山なりに缶を投げる。
「次もあるんですか。あと、助手の仕事は博士の身の回りの世話じゃありませんよ」
「なんだかんだ言いながらもプルタブを開けてくれる助手を見る時、私はキミを雇ってよかったと心底思うよ。さて、缶も空いたところだし立ち話もなんだ、ソファで休憩といこう」
言うと助手の返答もまたず、窓と反対方向に歩き出す。小さな足はネジを蹴り飛ばすのも意に介さず、目的とする方向へ進む。大きな足も、遅れてそれを追う。
2人がけのソファが満員になって5分、助手が口を開く。
「あの、博士が休んでる間に僕が掃除しておくほうが効率的じゃないですか」
「なんだなんだ、若い男女が並んでお茶をしているというのに、頭の中は床とネジでいっぱいなんて悲しいじゃないか。それに、効率の話をするなら、きっとキミの気に入るものがある」
博士は勢いをつけて立ち上がり、倉庫へ向かう。
「さて、これは何だと思う」
「市販の円板型床掃除ロボと、ラジコンのブルドーザーに見えます」
「そうだ、だが、そうじゃない。まず円板のほうだが、これは市販のものを元に大幅に組み換えたもので、吸い込んだものを中で自動的に分別してくれる。さらに、吸い込めないものには自動的にマーキングを行い、そのデータをこっちのブルドーザーに送信する。情報を受けとったこのブルドーザーは的確にそれを拾い集め、一か所に並べてくれるという寸法さ」
「その掃除への情熱を平時にも注ぐことは出来ませんか」
「さてさて、命を吹き込むとしよう」
ささやかな抗議を聞き流し、博士の細い指がスイッチをぱちんと押しこむと、床におかれた円板型ロボットは軽快に動き出した。
「これでよし。さあ、ティータイムに戻ろう」
笑顔の博士に、助手はもう何も言わなかった。
缶の中身が半分になったころ、博士が助手に問う。
「キミは今世界のどこかに、ああいう老人がいると思うか」
「僕はいると思いますよ」
予想していなかった助手の答えに、博士は形のいい眉を少し持ち上げ、興味深げな顔をする。
「意外だ、キミは性善説を信じるタイプだから、てっきり『いない』と言うと思っていた」
「知能や技術があのレベルまで到達するような人の中には、きっとその能力の高さから普通の人から理解されにくく、迫害とはいかないまでもゆるやかな区別を受ける人がいるはずです。それに耐えながら孤独に生きる人がいたならば、過激な思想を持つ可能性はあると思います。」
「ふふ、それは興味深い説だ。だが私は、そんな奴はいないと思う」
「僕は、むしろ博士のその回答が意外です」
「なぜなら、まずそんな頭脳を持つ者が生まれる可能性は限りなく低いからだ。そして、私が言うのもなんだが、尖った能力を持った人間は大体どこかの能力が欠けているものだ。そういう人間が生きていくためには、欠けた部分を補う者が必要だ。誰かが隣にいれば、そんな偏った思考に落ち込んでいくことはない。一人で生きられるだけの生活能力を持ちながら狂気に至る天才が生まれる確率から考えて、地球上にそれが暮らしている可能性は限りなくゼロに近い。だいたい想像できないだろう、復讐だなんて言った奴が、10分後にこんがりと焼いたパンにジャムを塗ってほおばる姿を」
一息にそう喋り、博士は満足そうに缶を呷った。
「そうだ、老人の話で思い出しましたが、博士が作ったあの老人ロボットに、自分のことを褒めさせすぎでしょう。絹のような髪に玉の肌で黄金比がどうとか、そりゃまあ嘘じゃないとはいえ、凄まじい自信じゃないですか」
「いや、なんせロボットは正直ものだからな。見たものを表現する言葉を探して、ついついそう言ってしまったんだろう」
「今の発言が人類の最終到達点の出したものなら、これまで凡人と言われた全ての者が天才の枠に押し込められます」
「ふふふ」
二人は飲み切った缶を床において、円板がそれを満足そうに吸い込むのをゆっくりと眺めた。先に働き続けるロボットの駆動音を掻き消したのは、助手の声だった。
「それで結局、見せたいものっていうのは老人ロボットのことでよかったんですか。僕はてっきり、一カ月前に博士が請け負ったプロジェクトが終わったと言う連絡かと思ってここに来たんですよ」
「その予想は、マルかバツかでいうとサンカクといったところだ。私は今日、哀れなマッドサイエンティストを見せるためにここに呼んだわけじゃない。そして、あの仕事は請け負った5日後には終わらせて、報告書もあっちの研究所に送った。仕方ないから、キミにもう一度だけ答えを当てるチャンスをやろう。なんせ今日は祝うべきクリスマスイブだからな」
「うーん、じゃあ見せたかったのはここに来るまでに見えるイルミネーションだらけの風景で、博士は寒いのが嫌だから僕伝いで街の様子を知ろうとした、とか」
助手が苦し紛れに回答した直後、それを待っていたと言わんばかりに跳ねるように立ち上がり、両手を広げる。
「残念、名探偵になれなかったキミのために答え合わせをしよう。見せたいものがあるといったのは本当で、見せたかったのはこの服さ。ずーっと前に一目ぼれして買ったのだがどうだ、かわいいだろう。なんせ日頃は白衣ばかりで、気に入った服を見つけても見せる暇がない。だから、たまには着る機会を作ろうと思ったわけだ」
助手は精一杯記憶を掻きまわしたが、確かに脳裏に浮かんでくる博士は皆、白衣を着て自信に満ちた表情をしていた。似合っていますと素直に褒めるにはもう年を取りすぎ、綺麗ですと本音を伝えるにはまだ若すぎる彼は、目の前でくるくると回る博士に質問を返すことにした。
「着る機会を作るために、あの大がかりな機械を作ったんですか?」
「ふふ、大真面目に作ったさ。なんせ、博士たる人間が助手に『かわいい服を着ているんだ、見に来ないか』なんてメッセージを送れるわけがないだろう。だからそう、君の答えはサンカクなんだ。手段は当てたが、本当の目的は当てられなかった。次にクイズがあったら正解できるように、キミはもっとちゃんと、私を見ておくといい」
「ははは」
助手はもう、笑うしかない。
博士は綺麗になった床をぱたぱたと進み、仕事を終えた円板とブルドーザーを慈しむように一度ずつ撫で、寝かしつけた。
「さて、今日は科学者の休日。こんな日くらいは私も白衣を脱いで、設計図の代わりにイルミネーションを眺めるとしよう。つまりそう、年頃の女の子のようにクリスマスソングの流れる店を見て回って、最後にイチゴの乗ったケーキを買って帰るんだ。ふふふ、楽しそうだろう」
有名なクリスマスソングを口ずさみながら体を左右に揺らす博士に、助手は声をかける。
「博士、あなたは本当に自由な人ですね」
「なにを他人事のようなことを言っているんだ、キミも早く準備をしてくれ」
「ええ、僕も行くんですか」
助手は質問の直後、博士の双眸にイルミネーションを思わせる輝きを見た。
「あたりまえだろう。昔から、街を歩く女の横には背の高い男と決まっているじゃないか。あるいはそのロボットとソファに座って、私のいいところについて語り合いながら帰りを待つほうを選んでも構わないが」
「いえ、行きますよ、行きます」
一足先に準備を終えた博士が放り投げたコートを受け取って、助手が片袖に腕を通した頃。待ちきれなくなった博士が、ドアを開いて振り返る。
「ほら、いこう。気の長い私と違って、クリスマスイブはキミをいつまでも待ってはくれないぞ」




