5.春は別れの季節だと誰かが言った
冬の間、主に魔法の修行をしながらシーアとだらだら喋ったり、女将さんの手伝いをしたりしながら過ごした。そして、今更ながら宿の名前が“花と女神”亭であることと、女将さんの名前がゼラさんであるということを知った。ずっと「宿」「女将さん」と呼んでたものだから、名前を聞くタイミングを失っていたのだ。
そして春が来て、私がこの世界にやってきてから半年が過ぎた。
春はいろいろなものが動き出す季節だ。シーアも例外じゃない。魔法剣士として魔物退治と護衛を生業にしている彼は、そろそろ仕事のためにこの町を出る必要がある。
私の身の振り方をどうするかという問題もあるが、結局のところ、私がシーアについて行ってもお荷物にしかならないことはわかりきっている。最悪、剣も魔法もおろそかになり、どっちも中途半端のままになってしまう可能性も高い。
やはり、ここにとどまり、エトガルを師と仰ぎ、せめて魔法くらいは一人前に使えるようになったほうがよいだろう。
シーアには本当に世話になった。彼がいなかったら私は早々に野垂れ死んでたに違いないのだから、命の恩人と言ってもいい。
「わたしも、さすがに1年遊ぶわけにいかないから、そろそろここを出なきゃいけないんだ」
少し申し訳なさそうに、シーアは言い、私は頷く。
「仕事は大切。私のことは気にしないでいい。エトガルに魔法使いの弟子にしてもらうつもり。剣は厳しいけど、せめて、魔法くらいはちゃんと使えるようになる」
エトガルには既に話を通してある。彼も二つ返事で引き受けてくれた。このまま宿暮らしは金銭的にも続かないので、彼の家に弟子として下宿することになるんだけど、下宿代は家事諸々の雑用で賄うというところまで話はついている。
「少し心配だけど、わたしもこっちへ来る機会があれば顔を出すよ。次の冬もここで過ごそうって考えてるし」
「うん、話を聞けるの、楽しみにしてる。怪我とか、気を付けて」
その2日後、わりとあっさりシーアは旅立って行った。なんだか少し呆気ない。そもそもの普段の付き合いも、剣を教えてもらったり世話になったりしているとはいえ、さっぱりしたものではあったが。
私も、この宿は引き上げてエトガルの家へと移った。
女将さんには本当に世話になった。町を出るわけではないけれど、女将さんにもしっかりとあいさつをする。
「女将さん、お世話になりました」
「いいのようー。アウスちゃんはエトガルさんのとこに弟子入りなのよね?」
「そうです。臨時雇い、またあったら、お願いします」
「ええ、ええ。アウスちゃん、真面目だし仕事きっちりだし評判いいのよ。またお願いしたいわあ」
「ありがとうございます」
やはり信頼関係を築くには日ごろの行いだなと思った。日ごろの行い重要、超重要!
……そして、エトガルの家は、魔窟だった。
「エトガル……何、これ」
「……自分の部屋は自分でなんとかしてくれ」
明後日の方向を向くエトガルの横顔を見ながら、男やもめの一人暮らしを舐めててすみませんでしたと、心の中で神様に私は謝る。
というか、この風景、見たことあるな。なんか研究バカが集まる研究室ってこんな感じだった気がするよ。床の上に積み上がったいくつもの本タワーとか、作業台と思しきでかいテーブルの上に所せましと並べられた、何に使うかわからない道具の数々とか、それらの隙間を埋めるようにとっ散らかった、どう見ても何かを丸めた数々のゴミ屑やらインク瓶やら紙切れやら正体のわからない何かやら。
あー、床の可視率1割以下じゃないかこれ。この惨状を、マジで私が片づけるのか。
「……エトガル、明日から掃除やります。でも、いるものといらないもの、わけるのはエトガルがやってね」
神妙にうなずくエトガルを見ながら、この世界の掃除道具や掃除用洗剤や掃除方法について、明日、女将さんに相談して教えてもらおうと考えた。あと、掃除に使える魔法も必要だなと考えた。寝る前に少し考えよう。掃除魔法もなんとか覚えよう。掃除魔法なんてジャンルがあるのか知らないけれど。
結果、エトガルの家がふつうに生活できるレベルに整理されるまで1ヶ月近くかかった。おかげで私は掃除と掃除に使える魔法に習熟できた。害虫駆除まで難なくこなせるレベルになったのは、いいのか悪いのか……。
エトガルは、自宅がこんなに広かったなんてと呆然としていた。あと、私が掃除に使いこなす魔法を見て、何か感動を覚えていたようだった。
……なんで魔法で掃除しようと思わないのか、そっちのほうが不思議だよ私は。
一度片づけてしまえば維持はそれほど難しくないので、私は家事をしつつ、魔法の修行をしつつ、エトガルの仕事を手伝いつつ、女将さんから紹介された臨時雇いの仕事をするという、今までのサイクルへと戻った。
これはこれで忙しいのだが、暇でだらだらしているよりはやっぱりいい。
この町に来て半年あまりを過ごし、言葉もそこそこできるようになったおかげで顔見知りも増えた。帰らなきゃとは思っていたけれど、実は、私にはさほど元の世界に対する執着がなかったのか、このままここに骨を埋めるのも悪くないんじゃないか、なんて思い始めてもいた。
半年間の勉強で魔法の理屈もなんとなく理解できてきたから、このままがんばれば中級くらいの魔法も使えるようになるかもしれない。そうすれば、エトガルのように魔法を売って暮らすこともできるんじゃないだろうか。
なんだ、なんとかなりそうじゃん、私の生活。
そして、私は日々の生活やこの世界について学ぶことに一生懸命で、自分を召喚した召喚主のことなんてほとんど忘れていたのだった。
この日まで。
その夜、なぜかなかなか寝付けずに延々とベッドの上でごろごろしていた。
いったい何で眠れないのかわからず、仕方ない、水でも飲むかと起き上がったところで、ピンと何かが断ち切れるような音を感じた。
『侵入者!?』
思わず日本語が口をついて出る。エトガルが家に掛けていた、侵入探知の魔法が反応したのだ。つまり、この家に誰かが入り込んだということだ。
この世界は決して安全じゃない。この町の中ですら、しょっちゅう強盗だの殺傷事件がどうしたのだのいう話が耳に入るのだ。押入強盗による殺傷事件なんてのも珍しくない。だから、エトガルはきっちり侵入避けの魔法や侵入探知の魔法、鍵の魔法をかけて自衛もしていた。
そもそも、魔法使いの家に押し入るような間抜けは普通いない。魔法使いはそれだけ怖い存在だと認知されているからだ。……しかし、逆に言えば、魔法使いの家に押し入るのはそうするだけの目的や理由、それに力があるということに他ならない。
サイドテーブルに置いてあった短剣を腰にさして、私は足音を立てないようにベッドから降りた。自分に戦いの経験がないことは百も承知だが、だからといって推定押入強盗にされるがままでいる義理はない。見習いではあるが、一応魔法使いなんだし。
エトガルの部屋は隣だ。彼はいったいどうしたかと、壁に寄って耳を押し当てた。音は聞こえないけれど、たぶん彼も起きているはずだ。
今度はゆっくりと音をたてないように、扉へと近寄って耳を押し当てた。侵入者の気配はどこだ。
必死に侵入者の気配を探ろうと、押し当てた耳に神経を集中していると、いきなり扉が開き、私はバランスを崩して転がった。「うへぇ」なんていう間抜けな声を上げてから、慌てて起き上がろうとしたところで、すぐ目の前に顔を隠した男の姿があった。
『なっ、強盗!』
思わず日本語で叫ぶと、エトガルの扉がばっと開き、そこで彼が魔法を唱えるのが見えた。とっさに顔を伏せると、男の上げた悲鳴が聞こえ、それと同時に新手が上がってくるのがわかった。
「アウス、来い!」
エトガルに呼ばれ、急いで立ち上がり、彼の部屋へと駆け込む。
「何、あいつら」
わからんと言いながら、エトガルは部屋の扉に防御の魔法を唱えていた。私はそっと窓へと近づき、外の様子を伺う。
「エトガル、外も誰かいる」
エトガルは頷く。彼ひとりなら転移の魔法でここから出られるけれど、私を連れては無理なのだ。私は、足手まといになっている。どうすればいいのだろうか。
「あまり考えてる余裕はないな」
不意に、エトガルが口を開いた。
「ただの強盗なら、護りの魔法を破ってここへ押し入るのは無理なはずなんだ」
「どういうこと?」
「つまり、相手には魔法使いがいる。ただの強盗じゃない」
自分の顔からさあっと血の気が引くのがわかった。脳裏に浮かんだのは、私をこの世界に呼んだという正体もわからない召喚主。
「ここに入られるのも時間の問題ってことだ。どうするか……」
「エトガル、逃げて。エトガルだけなら、ここ出られるでしょう」
「馬鹿か。弟子をおいて逃げる師匠なんているか」
「でも……」
「そうだな、どうにかここを出る方法を考えつつ、時間を稼ぐのが妥当なところか」
「時間?」
「ああ。ここは町中だ、警備兵だっている。警備が来る間だけもたせるのも手だろう。こっちから派手な魔法でも撃ってやれば、警備が来るのもそれだけ早くなる。
……そんなに心配するな」
エトガルは、まるで小さい子供にするように、私の頭をがしがしと乱暴にかき回した。
と、急に部屋の扉をどすんどすんと何かが叩くような、重い音がした。
びくりと私の肩が震える。エトガルは険しい顔で扉を睨むと、「アウス、少し下がれ」と言ってから、魔法の詠唱を始めた。
……私の使える魔法は、こんな時に何の役にも立たない。せっかく剣の訓練をしたのに、人間に斬り掛かるという行為自体が怖くてできない。なんて中途半端なんだろう。
もっと危機感を持っているべきだった。根拠もないのに、召喚主は私のことなんて忘れてしまったんだろうと考えていた。
「……もたないかもしれない」
ぼそりと呟くエトガルの声に、私は我に返る。
「もたない?」
「どうやら、魔法使いが来た」
エトガルは窓際へと急いで歩きながら、自分に魔法をかけていた。そして、窓辺に立って私に手を伸ばす。
「一か八かだ、来い、アウス」
私が反射的に手を伸ばそうとしたとき、どかんという音とともに扉が吹き飛んだ。