34.ここで、おしまい
「樹!」
「アウス!」
シーアが悲鳴をあげる。スカイエが急いで魔力遮断の結界魔法を唱えだす。シーアはすぐにでも駆けつけたいのに、目の前の魔神がそれを許さない。魔法を唱え、剣を振るい、早く、早くとひたすらに斬りつける。
「リベ……」
ごほっと血を吐きながら、樹は背後を振り返った。球の明滅は依然激しいままだ。ぼたぼたと血が溢れるまま、ブーツに刺したナイフを引き抜き、樹はリベリウスのところへと歩いた。
「勿体ないが、仕方ない。また次を召喚することにしよう」
目を眇め、リベリウスが言う。
「つ……」次が、あると思うな。そう言ってやりたいのに、声がうまく出せない。目も眩む。これは間違いなく肺をやられてしまっているんだろう。油断したな、と苦笑が浮かんだ。
リベリウスは後退りながら、また魔法の詠唱を始めた。そうはさせないと、樹は力を振り絞って足を踏み出し、ナイフを投げた。
「ぐっ」
手応えを感じて目をやれば、ナイフは肩に刺さっていた。肩を抑え、リベリウスはよろめく。
背後でようやくどさりと大きなものが倒れる音がして、ああやっとシーアがあの魔神を倒してくれたのだ、と思った。
「お前の……思……とおり……ない」
樹の顔に、自然に笑みが溢れる。大丈夫だ、あとはきっと、彼がうまくやってくれる……脚の力が抜け、崩れ落ちる樹を駆け寄ったシーアが抱きとめた。
「──樹!」
樹を抱き上げ、抱えたまま膝をつくリベリウスを斬り伏せると、すぐに癒しの魔法を唱えようとして……樹に押し止められた。
「も、だめ」
樹の身体を構成する魔力がほつれ出し、身体は崩れ始めていた。背中への一撃で限界を迎えてしまったのだ。ほつれは止まらず、どんどん酷くなり樹の意識が遠のいていく。だめだ、もう時間がない。樹は震える手でシーアに縋り付いた。
「頼む、ね。球、祓って。シーアなら、できるから」
魔法が途切れリベリウスが死んで制御を失ったのか、球にはヒビが入り始め、激しい明滅に合わせて禍々しい赤い光が漏れ出していた。光が荒々しく渦巻くと、頑丈なはずの石壁に、ばきりと音を立てて亀裂が走る。
スカイエが「危険です。早く外へ」と少し慌てたように声を掛ける。
「あと、ひとつだけ、一生のお願い、約束」
「なんでも。なんでも聞くよ」
樹は笑むように目を細める。
「シーア、忘れて」
シーアが目を見開き、「それは聞けない」と即答する。
「忘れるわけがない。樹、忘れたいなんて思わない。もし君が今消えるんだとしても、待ちたいんだ。わたしがそうしたいんだ。君の意志は関係ない」
「シーア……」
「わたしの、この長くて退屈な生に、君を待つという楽しみが生まれるんだ、それだけで何百年だろうと生きていける」
「ごめん……ね。ありがとう。本当は、待つの、うれしい」
顔を歪めるシーアに、今度こそ樹は心から笑みを浮かべた。待つという彼の言葉を、心底嬉しいと感じる。それが酷いことだとわかっているのに、本当に嬉しくて仕方ない。待っていてほしいと願うのは樹自身のエゴでしかないのに。
「嬉しい。シーア、名前、呼んでね」
身体がとうとう完全に崩れ、樹という“魂”を宿していた器が消えた。自身が自身であるという意識は拡散し、薄くなり、このまま行くべきところへと向かい──。
「斎」
名を呼ぶ声に引き寄せられるように、再び樹……斎の意識が明らかになった。触れることはできないけれど、斎の意識がシーアを抱きしめる。
“シーア……カルルシアス”
呼ぶ声は聞こえたのかどうか。けれど、シーアは立ち上がった。
シーアを依代に、斎は周囲に満ちる魔力を感じとる。いつか、シーアが魔族の魔力に対する感覚は天性のものだと言っていたけれど、これがそうなのか。
あたりにあふれる魔力の感触も、荒れ狂う赤い光の流れすらもこと細かに感じられ、これなら……。
シーアの耳に斎が詞を囁き、共に唱和する。
『一、二、三、四、五、六、七、八、九、十
布留部、由良由良止、布留部』
シーアに宿る魔力が膨れ上がっていく。霧散してあたりに漂うだけの、かつて樹を形作っていた魔力も一緒に集まり始めた。
──その名前を唱えて揺り動かすだけで死者すら蘇るほどの大きな神力をお借りできるのだと言う、十種の神宝。その神宝の代わりに唱えられる詞。
その詞によって集まったのは、どれほどの魔力だろうか。シーアを中心に大きな魔力の渦が生まれる。皇城を揺るがし崩す赤い光と轟音の中、シーアの打つ柏手があたりに響きわたり、空気を鎮めていく。
シーアの声と、シーアを依代にしている斎の声が重なる。
『掛けまくも畏き
伊邪那岐大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊ぎ祓へ給ひし時に
生り坐せる祓戸の大神等
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
祓へ給ひ清め給へと
白すことを聞こし召せと
恐み恐みも白す』
神様、私の神様、そしてこの世界におわすすべての神々よ。
澱みを祓い給え。
穢れを祓い給え。
この地に満ちる禍事を祓い給え。
そして、清め給え。
再度、シーアの打つ手の音が、あたり一帯に響く。
魔を祓う、柏手の音。
澱んだ空気が澄み渡り、鎮まりかえる。
シーアを中心に白い光が膨れ上がり、球から解き放たれた魔力を追ってどこまでも広がっていった。赤い光は、白い光に食われるように呑み込まれ消えていく。
皇城は崩れ去り、壁に空いた穴の向こうには半壊した町の様子が広がっていた。白い光は赤い光全てを消すことができなかったのか……あの瓦礫の下に、どれだけの人が埋まってしまったのだろうかと考えて、斎の心は痛む。アネマリー様やエミリア様は無事だろうか。
そこまで考えて、たぶん大丈夫だろう、と信じる。ひとは結構強いんだ。
──そして、時間だ。私もそろそろ行かなきゃならない。
触れることはできないけれど、樹はもう一度シーアを抱きしめ、唇にひとつだけ口付けを落とした。優しく頰を撫で、微笑んで、樹の意識は霧散する。
私の神様、ありがとう。いつかまた出会えるかもしれない時まで、どうか元気で。いや、私のことなんて、忘れてくれてもいい。本当に、ありがとう。
──目を開けたら何故か異世界にいて、いろいろなものを奪われて、だけど、かけがえのないものも得ることができた。
そんな私の生涯は、ここで終わった。
寄り添うようにずっと感じていた気配が完全に消えて、シーアは深く息を吐く。ああ、彼女はいってしまった。
けれど──。
「まだ、終わっていない」
リベリウスの溶け崩れた跡を見下ろし、それからシーアはひたすら集中する。探るなら、魔力が鎮まった今こそがチャンスだ。
「見つけた」
「シーア?」
スカイエの呼び止める声を無視して、シーアは転移魔法を詠唱した。
「やっと見つけたよ、リベリウス。今度こそ、本物だね」
床に蹲ったまま、ぜいぜいと喉を鳴らすだけの老いた魔法使いの傍らに、シーアが静かに歩み寄った。
「お前が稀代の天才魔法使いだとか、そんなことはどうでもいいんだ。わたしには関係のないことだから」
そう、小さく呟いて腰に佩いた剣をすらりと抜き放つ。
「永遠なんてつまらない夢だよ。それにお前はここで終わる……終わったら、無だ。あんなに必死にいろいろやったのに、外法や禁忌にまで手を出したのに、残念だったね」
剣を持つ腕を振り上げるシーアを見上げ、リベリウスは「……魔王め」と呟いた。その腕が振り下ろされ、魔法使いの首が、まるで蹴り倒された壺のようにごろごろと転がっていった。
シーアは、呆然と立ち尽くす人間たちをつまらなそうに一瞥し、その場から姿を消した。




