2.挨拶はコミュニケーションの基本
町の中を歩き、ひとつ気づいたことがある。
ここがどこだかは知らないし、世界史で言うと時代的にどのあたりに相当するのかもわからないが、人間の営みに大きな差はないということだ。
道を歩きながら見かけた、行き交う人々の交わす言葉の調子や表情、商店らしき建物の軒先で交わされるやり取り、そして彼に連れられて入った飲食店らしき建物で、ウェイトレスっぽいおばさんからかけられた言葉の調子や表情に態度は、現代日本でも見られたやりとりとそう変わらないものに思える。
少しだけ安心した。
早急に「はい」「いいえ」「こんにちは」「ありがとう」「すみません」と数の数え方を覚えれば、コミュニケーションの第一歩は踏み出せるんじゃないだろうか。帰る方法を探すにしても、意思疎通が出来なければお話にならないのだ。
意思疎通だいじ、超だいじ。できなきゃ、この世界の危険情報も一般常識も知りようがない。
自分ひとりの力だけじゃ間違いなく詰む。
どうにかして基本的な言葉を覚えるために、どこから手をつけるべきかを算段していると、シーアが何かを身振りで示していた。
なんとなく、ここにいろと言われている気がする。私が頷くと、彼はウェイトレスのおばさんに声をかけてさっさと外へと出て行った。
……放り出されたわけじゃ、ないよね。
嫌な考えを無理やり振り払い、私はおとなしく座り続けた。
実際は数十分程度の時間だと思うけれど、とてつもなく長く感じるほど待ち続けて、ようやくシーアが戻ってきた。
後ろに人を連れている。ガウンのような丈の長い衣装に、これまた長髪の男だ。20代半ばくらいに見えるシーアより、さらに年上のようだが外国人の年齢はよくわからない。こう見えて実はまだ10代でしたという可能性もあるから侮れない。
シーアは再びウェイトレスのおばさんに話しかけ、お金らしきコインをいくつか渡すと私を手招きした。
こういう身振りが共通なのはありがたい。
連れて来た男も一緒に、シーアの後に続いて2階の一室へと入る。
いったいここで何が始まるのか。
空気を読もうとしてもさっぱり読めない。そうか、やはり共通の文化をバックグラウンドに持ってないと、空気の読みようもないということか。
不意に連れられて来た男が半眼になり、なんかもにゃもにゃとよくわからない響きの言葉を紡ぎだす。さっきまで聞こえていた会話での言葉とも違う、こう、お腹がもぞもぞするような不思議な響き……お経とか祝詞に近い響きの言葉だ。同時に、その手が何とも言えないよくわからない動きをする。どう表現すればいいのか。踊りとか舞とでも言えばいいのか。
最後に男の指が私の額に触れた。思わず目を瞑ると、何か文字だか模様だかのようなものをなぞられて終了した。
いったいなんだったのだろう。
「……これで、言葉がわかるはずだが」
不意に聞こえた、理解できる、意味のある言葉に思わず顔を上げる。
「わかる! なんで!?」
「時間限定だ。いいとこ一時くらいで切れるから手短にな」
「いっとき?」
私が首を傾げると、シーアが部屋の隅に置いてあった蝋燭を持ってきて火を点した。
「これが燃え尽きるまでがだいたい一時かな。ありがとうエトガル、助かったよ。何言ってるのかさっぱりわからなかったんだ」
エトガルと呼ばれた男が頷くと、改めてシーアが私に向いた。
「じゃあ、さっそく質問だ。君は何。どこから来たの。名前は?」
「ええと……銀河系太陽系第三惑星地球の東アジア地域にある日本国。たぶん、関東平野のどこかの町。名前はわかりません。全然思い出せないんです」
「タイヨウケイ……? 何それ。どこの国?」
「──端的に言って、たぶん、この世界のどこにもない、世界の外にある国だと思います。ユーラシア大陸とかアメリカ大陸なんて、この世界にないですよね……?」
エトガルはさすがに驚いた様子で、シーアを見る。が、シーアは納得したというように頷いていた。
「世界の……外? まさか来訪者?」
「なるほど。どうりでわけのわからないことばかり説明しようとしてると思った。でも、来訪者なら召喚主がいるんじゃないの?」
「ライホウシャ?」
「次元を超えて別な世界からこの世界へ来た生き物をそう呼んでいる。事故で来ることはほぼない。普通は魔法使いの召喚によって連れてこられるものだ」
「私は、誰かに呼ばれてここにきたの?」
「だと思うんだけど、普通は専用の魔法陣と対象の真名を使って、その魔法陣の中に呼び出されるんだけど……心当たりは?」
「あるわけがない。……シンメイって? 目を開けたらいきなり野原の真ん中だったんだよ。魔法使いとか魔法陣とか……って魔法使い!? 魔法……魔法があるの?」
なんというお約束だろう、と思った。というか、言葉がわかるのも魔法のおかげ?
「魔法は、あるでしょう、普通。魔法を使う専門家が魔法使いだよ」
そんなことも知らないのかと、呆れた顔で言われる。理不尽だ。
「真名は、その者の本質や真実を表す名前。普通は本人と、せいぜい生みの親しか知らないものだし……人間の真名を知る手段なんて神代のころに失われたと言われてるんだけど……君、人間? 妖精とか魔族とかじゃないの?」
妖精? 魔族? なんだそれ、どこまでファンタジーなんだ。
「……私の故郷にいるのは人間だけだし、少なくとも妖精だの魔族だのなんて種族はいなかったし、魔法なんて無かったし、あたりまえみたいに言われても困る。
あと、その真名ならなんとなくわかる。故郷にも言霊とか、真名仮名っていうのがあったよ」
「コトダマ? マナカナ?」
「言葉には力が宿るから、口に出す時は注意しなきゃいけないし、悪い言葉や願いを口に出してはいけないという考え方が言霊。マナは真名のことで、カナが真名の代わりに使われる渾名のこと、かな。
昔は、本名は真名だから口に出しちゃいけないって、本名の変わりに仮名とか通称とかを使って生活してたことがあるって何かで読んだ。まあ、迷信なんだけどね」
「へえ……」
「面白いな。魔法詠唱に使われる魔術言語みたいなものか。しかしますますわからない。お前は召喚されたわけじゃないのか?」
シーアが感心したように頷く。エトガルの興味も引いたようだ。
「自分が召喚されたのかどうかなんてわからない。けど……召喚された生き物って、もとの世界に帰れるの? あと、私が自分のことばかりまるっと忘れてしまってるのは、どうしてだろう」
「帰れるかどうかは……上位の魔法使いなら、お前の来た世界がどこかを特定できれば、送還の魔法陣を使って返せると思う。
記憶については、仮説ならいくつか考えられる。一番可能性が高いのは、召喚にあたってお前の真名が奪われたため、お前に関することが自身の中から失われたというところか。
召喚には真名が必要だから、どういう手段でか知らないが、召喚者がお前の真名を奪ったと考えるのが自然だ」
「でも、真名なんて、私持ってないよ。知らないよそんなの」
「……言霊とか真名仮名というのがあったんだろう? なら、お前の忘れた名前が真名だという可能性はあるぞ」
私はぽかんとエトガルを見つけた。本名が真名とか、なんだそれ。
「真名って奪うとか取り返すとか、そんなことができるものなの? 名前に実体なんて無いのに?」
「それをやるのが魔法使いで、魔法だ」
よくわかったようなわからないような。
はあ、と私は溜息を吐く。
「なんかもう……よくわからないことをあれこれ言っても仕方ないので、私が帰れるまでこの世界で生きていくための手段と方法について、相談に乗ってください。
私、文無しだし、ここの一般常識どころか言葉すら全然わからないんですけど……」
「現実的だな」
「だって、わからないこと考えたって、下手な考え休むに似たりっていうでしょ。それで帰る前に死んでしまっちゃ元も子もない。私はこんなとこで死にたくないし、帰りたい。なんか帰ってやらなきゃいけないことがあったような気もするんだ」
「ああ、いいよ、わたしが面倒みてあげよう。
エトガル、あとでその通訳の魔法を教えてくれないか。おもしろそうだから、この子はわたしが後見になるよ」
「……言うと思った」
エトガルが呆れ顔でシーアに言う。そんなに簡単に面倒見るとか言っちゃっていいのか。どんだけお人好しなんだこの人。
「あとで渡すから、明日にでも取りに来い」
それからなんやかやと今後について話しあった。まあ、結局さっき言ってたこと以外になんの名案も出なかったんだけど。
それから、通訳の魔法が切れるまで、この世界の一般常識についてのレクチャーもみっちりと受けた。おかげで当初の目的である基本的な挨拶と数のカウント方法はなんとか覚えられた……と思う。たぶん。