19.かつての私
私は相当なおばあちゃん子だった。
無理もない、3つ下の弟は喘息持ちで、しょっちゅう熱を出したり入院したりで両親はそちらに忙しく、私は自然におばあちゃんに預けられっぱなしになっていたのだから。
おばあちゃんは幼い私を連れて、よく近所の“月読さん”にお参りに行った。私がだいぶん歩けるようになったら、少し離れた“祇園さん”へ行くようにもなった。
「ここの祇園さんはね、昔、この辺りで流行った病を祓った、ありがたい神様なんだよ」
そう言っておばあちゃんは、だから弟に憑いてる病を祓ってもらおうねと、私に祓詞の唱え方を教えてくれた。
幼い私は、両親が弟にばかり構うことが悔しくて駄々を捏ねたりもしていたけれど、おばあちゃんは、その度に弟についた病が悪いんだから早く祓って貰おうねと、私を神様のところへと連れて行った。
おかげで、私にとって神社という場所は、神様に私の中に湧き上がった嫌な気持ちを祓ってもらう場所になっていたと思う。
ちなみに、その霊験が灼かだったのかはわからないけれど、弟の喘息は成長するにつれて軽くなり、高校に上がる頃にはすっかり発作も起こらなくなっていた。
おばあちゃんは私が中学校へ上がる少し前に、風邪をこじらせてあっけなく逝ってしまった。
私は泣いて泣いて、どうして神様はおばあちゃんの病を祓ってくれないのだと、何度も文句を言いに行った。
とうとう母が見かねて、おばあちゃんは神様のところに仕えることになったのだから、神様に文句を言うのはもうやめなさいと私を叱った。
──何かの予感でもあったのか、おばあちゃんが私をこっそり呼び出して諱を教えてくれたのは、この10日ほど前だ。その時の私は、諱なんて、まるでマンガかアニメみたいだなと思っただけだった。誰かに話してみたいなとも思ったけれど、その度におばあちゃんに言い含められたことを思い出し、誰かに明かすことはしなかった。
剣道を始めたのは、中学校に上がってからになる。仲の良い友達に引っ張られて入部して、私に合っていたのか、そこそこ上達もできて、少し大きな大会にも出たりした。母方の家系がもともとは神剣を御神体として祀った神社の巫女さんだったと聞いたのは、その頃だっただろうか。
私は「できすぎな設定だね」なんて笑い話のように、その話を聞いていたのを覚えている。
中学高校と部活少女だった私も、大学受験を経てそれなりに勉強をするようになった。良くもなく悪くもなく、そこそこの大学にうまく入学もして、学生生活を送ってから社会人になった。
諱とか巫女の血筋とか、設定のわりに平凡な生活だったと思う。
勤めた会社も、まあよく言えば中庸で、自分ひとり養うくらいならなんとかなる程度の給料は貰えたし、世間で騒がれるようなブラック企業なんかでもなかった。そこそこの残業をこなしながら平和に暮らすこともできた。あとはいい人を見つけて結婚して子供ができて、普通に歳を取っていくんだろうなと考えていた。
彼と出会ったのも、その会社でだった。
女にしては少し高すぎる身長も、痩せて平坦な身体も、ずっとコンプレックスでしかなかった。
ずっと部活ばっかりで女の子らしい格好なんてどうしていいかわからず、試してみてもどうにもちぐはぐにしかならない。髪を伸ばしたってどうせ似合わないし……そんな諦めのほうが大きくて、せっかくの大学でも、友人たちの「樹はかっこいいタイプだよね!」なんて言葉に笑うしかなくて、曖昧な笑顔をうかべながら、「そうだね」としか返せなかった。
それが、彼に「意外に可愛いタイプだったんだ」なんて言われて天にも登るような気持ちになって、付き合おうと言われて舞い上がって、ずっと雲の上を歩いてるようなふわふわした気持ちで過ごしてきて……。
そしてあの日、彼から急に仕事が入ったから会えなくなったと連絡が来たのだ。
けれど、たまたま、本当にたまたま友人から珍しいお菓子が贈られてきて、せっかくだから彼が帰ってくるのを待って一緒に食べようと思ったから、帰宅する時間を見計らって彼の部屋を訪ね、ようとした。
……今日は、仕事だからと言っていたのに、何故?
いつもの角を曲がって見えたのは、スーツ姿ではない彼と、私と正反対の、小さくてふわふわした女の子で、とても可愛くて……。
そして目の前で交わされていたのは、彼の部屋の前での、彼とその女の子のキスだった。
足が震えて、何故? 以外、何も考えられなくなった。
そこにいるのは誰?
どうして?
……私は、いったい何だったの?
疑問が頭の中をぐるぐると回った。
これはきっと何かの間違いなのに。
なら、どうして?
嫌な気持ちが膨れ上がった。
嫌だ嫌だ嫌だ。
こんな気持ち、知りたくなかった。誰か助けて。おばあちゃん、助けて。嫌だ。苦しくてたまらない。このまま死んでしまえたら楽なのに死ねない。何も感じなければ楽なのに心臓が痛い。
どうして。どうして。
自然と、近くの神社へと足が向いた。幼い頃からおばあちゃんに連れられて毎日お参りしていた神様……おばあちゃんに教えられた祓詞を唱えながら、神様にひたすら願った。
神様、私の心を侵す、この穢れを清めてください。私がこの嫌な気持ちに飲み込まれないよう清めてください。穢れを祓ってください。
……神様、助けて、苦しい、嫌だ。こんな気持ちになりたくなかった。
こんなのは嫌だ。
苦しい苦しい苦しい。
助けて。
ふと気がついたら、暗い中を変な声が私を呼んでいた。「緒方樹、ここへおいで」と。気持ち悪い声なのに抗えず、私はそこへ向かって歩いていた。
けれど近づくにつれて、だんだんと「嫌だ」という気持ちの方が大きく膨れ上がっていき、何度目かに呼ばれた時、初めて声が出た。
「気安く呼ぶな! それは私の名前じゃない!」
どこかで、嵐の中、大木がばきばきと音を立てて倒れるような大きな音が響き渡り、私の意識は暗転したのだ。