17.私の一生の願い
シーアのほうが動きは素早い。さらに言えば、彼なら超単距離の転移魔法を素早く出すことができる。だから、私が魔物の気を引き、その間に隙を見てシーアが魔法陣を壊す……そういう段取りだった。さっきの祓詞のおかげか、魔物の動きが鈍っている今がチャンスでもある。
「そんな特技を持っているとは。
魔法のない世界から来たはずなのに、さっきの魔法はいったいなんだ? この世界の魔法ではないようだが」
不意にまた背後から声がかかる。一瞬びくりと身体が止まった後、シーアの声に我に返り、ギリギリで魔物の攻撃を避けた。
「別に魔法を使ったわけじゃない。高天原とここにいる神々が、私のささやかなお願いを聞いてくれただけだ。
……そっちこそ、こんなにたくさん魔物を用意して来たところ申し訳ないけど、デーベルンは落ちないよ。残念だったね」
「お前さえ手に入れば、お釣りが来るというものだ──緒方樹」
「……それは私の名前じゃないと、前にも言ったはずだ」
魔物の振り回す炎の剣を避け、腕を斬りつけながら召喚主に言葉を返した。シーアに早く魔法陣をなんとかしてくれと視線を送ると、彼は頷く。
「おかしいね。この名前でお前を呼び出したはずなのに違うというのは。“召喚の際に使う名前は対象の真名である”……これは絶対の法則のはずなんだが」
首を傾げているであろう召喚主の言葉がおかしくて、ふっと笑みを漏らしてしまう。
この世界には魂という考え方はないのだろうか。輪廻とか、生まれ変わりとか、そういえばこの10年それに該当する言葉を聞いたことがなかったと思い出す。この世界では生き物は死んだらそれで終わりだと……いや、墓を作って死者を悼むんだし、死んだら天の国へ行きっぱなしと考えているのかな。
「理由なんて知らないけど、私の世界では戸籍名がイコール真名ってことになるからね。それでじゃないの?」
「コセキメイ?」
「戸籍って日本での自分の出自を表すものだしね。この世界は日本じゃないから、ここ来た瞬間に真名扱いだった戸籍名がお役御免したんじゃないかってこと。適当な理屈だけどさ」
戸籍名が現世での私を表す名前なら、たぶん、諱が私の魂を表す名前なんだろう。この世界の私が、意識……魂だけが仮の身体に宿っている存在だというなら、こいつが知ってる私の名前で、今の私を縛ることは絶対にできない。ここにいる私は、現世と同じ私ではないのだ。
そう考えて、残念でしたねと、くつくつと笑ってしまう。笑いながら、スカイエが牽制の魔法を飛ばすのに合わせて、魔物を誘うように剣を振り回し隙を見せる。うまくそれに食いついた魔物の守りが緩み、喉窪……魔法陣めがけて、素早くシーアが剣を突き立てた。「よし」とシーアが小さく呟く。
魔法陣をなくした魔物は、とたんにどろどろと融け出して真っ黒な汚泥へと変わっていった。顔を顰めながら、魔法生物というのは死ぬとこんな風に溶けてしまうものなのかと考え……それから私は召喚主を振り返った。
「ようやくお前を相手にしてやれるよ。今日は10年前のようにはいかない」
素早く周囲を伺うと、魔物の数はだいぶ減らされていた。これなら大丈夫だろう。
シーアが横に並び、「イツキ」と私の名を呼んで剣を構える。彼のつけてくれた“余所者”という名前もなんとなく気に入っていたけれど、それでも自分の本来の名前で呼ばれるというのは、とても嬉しいことだった。
そして、ようやく、ほんとうにようやく仇を討てるよ、エトガル。考えるだけで心が高揚し、笑みが漏れるのを抑えられない。
「イツキ、喜ぶのはまだ早い。落ち着いて」
シーアが静かな声で私を落ち着かせようとする。確かに今の私は少し浮き足立っているかもしれない。目の前には召喚主……未だに名前は知らない。頭からマントを被り、声から男だということしかわからない魔法使いがいるのだから。
「そういえば、私はお前の名前すら知らなかったな。一応聞いておくよ。お前のこと、なんて呼べばいい?」
召喚主は黙ったままだ。
「……ナナシかゴンベエか……いや、ちょっと世界観にそぐわないし、スミスにしておこうかな。
じゃあ、仮称スミス、お前、なぜ私を召喚したの──それと、なぜ、私から奪った」
「奪った?」
「名前と、かつての私と、エトガルを」
フードの奥で、仮称スミスの口の端がくっと歪んで吊り上がる。
「お前は、私がようやく見つけた素体だ。入手を阻むものは排除する。そこにいる男も例外ではないぞ」
「素体?」
聞き慣れない言葉に眉根が寄る。いったい何の話を始めたんだ。
「……完全な生き物。老いることも、朽ちることもない……十分な力も持つ、完璧な生き物を創るための素体だ」
「はぁ?」
ほんとうに、こいつはいったい何を言い出すのかと、思わず声を上げてしまう。馬鹿じゃないのか。つまり、不老不死のスーパーな生き物を創りたいと言っているのか。
「シーア、こいつは話にならないかもしれない」
横で、仮称スミスの言葉に怪訝な顔で眉をしかめるシーアにこそっと話しかける。
「私が知ってる限り、不老不死を願うようなのにろくなのはいない。こいつはダメなやつで決定だ」
フードの奥で口を笑いの形に歪める仮称スミスは、さらに言葉をつなげる。
「そもそも、魔族だけが時間という牢獄に囚われていないことは不公平なのだ。魔法を突き詰めるという目的を達するために、私に与えられた時間はあまりにも少ない。永遠に知識を追い求めたいと願うのは当然だ」
どこかで聞いたようなことを、仮称スミスはつらつらと述べる。物語の中でも、現実に存在した人間でも、そんなことを言い出したヤツにはろくな終わりは来なかったというのに。
「だからお前を素体として、私は完璧な生き物を創るのだ」
「……お前、勘違いしてるね」
私の言葉に、仮称スミスが笑みを消す。
「この世界に完璧なんて存在しないよ。“完璧な存在”なんてファンタジーだ。神々でさえ完璧じゃない。残念な方向に囚われちゃったんだね」
終わりがあるからこそ生命は素晴らしいのだと言ってたのは、誰だったっけ。
「神などと不確かな存在を持ち出して、何を言うかと思えば」
仮称スミスは嘲るような笑い声を上げる。
「うん、理解できないだろうなとは思ってた。不老不死に焦がれるのは呪いみたいなものだし」
「……永遠なんて、そういいものには思えないけどね」
ぽそりとシーアが呟く。永遠に近い寿命を持つという魔族の彼は、そういえばもう何年生きているのだろう。
「そろそろ、行こうか」
ひとつ息を吐いて言うと、シーアが頷いた。ちらりと仮称スミスの向こうにいるスカイエを見やると、彼も微かに頷いたように見えた。
大きく息を吸い、剣を構えると、私はいっきに距離を詰めた。そのまま横薙ぎに払うが手応えはない。仮称スミスはいつの間にか後ろに飛び退り、魔法を唱え始めていた。「させない」と、すかさずシーアがその背後に現れて斬り下ろすけれど、やはり手応えはない。
「幻術です」
スカイエもすぐに魔法を唱え始める。幻術で立ち位置を偽るのは魔法使いの常套手段だけど、これはかなりやりにくい。妖精みたいに幻術を見通す目を持ってたら楽なのに。
考えているうちにスカイエが詠唱を終え、最後の印を空中に描くと、パキンと何かが弾けるような感覚を覚えた。
魔法が、解けた。
「あそこか」
シーアが振り返ると、そこに人影がひとつ。頭からすっぽりとローブを被った中肉中背のあの人影が仮称スミスの本体なんだろう。
けれど、幻術を破られて慌てる風でもなく、やつは落ち着いて魔法を唱えだした。
……嫌な感じがする。大きな穢れが来ると感じる。
「シーア、なんか来る。気をつけて」
シーアも既に、やつを中心に湧き上がる魔力を感じていたのだろう。守りの結界を張ろうとしていた。
それにしても、さっきから感じてるこの魔力はいったい何なのか。スカイエやマリエンの魔法に比べると、とてつもなく大きく感じる。仮称スミスはいったいどこからこんな魔力を引き出しているのか。
私も呼吸を整え、それから思いついた清浄祓の詞を唱えつつ、仮称スミスに向かって走った。
『天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄
心性清浄にして 諸々の汚穢不浄なし
我身は六根清浄なるが故に天地の神と同体なり……』
これは天地一切から穢れを祓うための祈りだと、おばあちゃんは言っていた。祈りで魔法が祓えるのかわからないけど、他に思いつくことがない。
本当は、手袋を脱いで、最低でも二礼二拍一礼もやったほうがいいんだろうけれど、その暇も惜しい。
それに、魔法使いは懐に入られると弱いはずだ。だから私はやつの目の前に飛び込んで剣を振り下ろした……けれど、やつはするりと避けてしまう。
『……諸々の法は影の像に随ふが如く為す処行ふ処
清く浄ければ所願成就福寿窮りなし
最尊無上の霊宝
吾今具足して意清浄なり』
私と仮称スミス、ふたりともが同時に詠唱を終えた。私の視界に、いつか見たような赤い光が溢れ……。
だめだ、また繰り返してしまう。
天津神、国津神、そしてこの世界の至る所におわす八百万の神々よ……お願いします、シーアを助けてください。
お願いです、彼を消さないで。