15.約束
シーアは自分もいるのだから、頼れという。
けれど、私が頼った結果、エトガルの命が奪われてしまったのだ。このうえ、シーアまで奪われたら……。
シーアの言葉に頷きを返し、部屋に戻りながらも、私はどうやって私があいつを消すかを考えていた。フリーマールを出てからずっと心の奥深くで燻っていたものが、また火を噴いているのを感じる。
部屋に入るなり寝台に倒れこみ、身体を丸めた。心臓が痛いくらいに苦しくて、息が荒くなる。
──エトガル、見つけたよ。やっと出てきた。
エトガルがここにいたら、きっと、そんな奴には構うなと言うだろう。私の方こそ奴に見つかって危険なのだから、すぐにここから逃げろと。
わかっているけどそうしないのは、“私の気が済まない”からでしかない。でなければ、この心臓を焼き焦がし締め付けるような衝動を、どうやって鎮めればいいのかがわからない。あの時からずっと、未だに私は血を流し続けている。
扉をノックする音がして、「アウス、いいかい?」という声がかかった。私は顔を上げる。この声はシーアだ。一瞬だけどうしようかと考えたけれど、「開いてるよ」と返事をすると、すぐに彼が入ってきた。
シーアはいつもの穏やかな笑みを浮かべている。
……彼は魔族で、人間の魔族に対する風当たりはとても強いという。差別や偏見に鈍感な私はあまり気にしたことはなかった。けれど思い返してみれば、これまでずっといろいろなところを歩いてきたのに、町の中どころかそれ以外の場所でも魔族を見たことはなかったことに、ようやく思い至った。みんな、巧妙に姿を隠しているのか……人間から身を隠すために。
彼はその笑みの下にどんな感情を隠して、ここまで歩いてきたのだろう。
そして、私を苛む衝動はどうしたら消せるのだろう。あの召喚主を消せば、一緒に消えるだろうか。
「なんて顔してるんだい?」
微笑みを浮かべたまま、困ったようにシーアが言う。
「ああは言ったけれど、君のことだから、きっと、ひとりでなんとかしようと考えていたんだろう?」
わずかに目を見開いて、シーアを見上げる。ほら、やっぱりねと彼はまた目を細めて微笑む。
「アウス……君がどうかはともかく、わたしはね、君のためにあの魔法使いを放って置くわけにはいかないと思っているんだ」
「私のため?」
思いもよらない言葉に私が驚くと、シーアは真剣な顔になり、頷く。
「フリーマールで、あいつは君を狙って現れたんだろう? この北方に現れたのも、きっと偶然じゃないんだろうね。
なら、放っておけば、いくらここから逃げようが、この場だけ凌ごうが、何度でも君のところに現れるはずだ……なら、今、全力で潰してしまったほうがいい」
シーアはまた笑んで、わたしを抱き寄せ、軽く啄むように口付けた。
「潰すって……」
「それは考えよう。君はひとりじゃない。わたしもいるんだから、君はひとりじゃないんだ」
シーアに抱きしめられ、火を噴いていた感情が鎮まっていく。あれほど苦しかった心臓が穏やかになる。ほうと息を吐いて頷くと、シーアはもう一度、私に深く口付けた。
「君がわたしを案じてるように、わたしだって君を案じているんだ」
私を胸に抱えたまま、シーアが顔を私の肩に伏せて小さく囁く。
「あの冬のフリーマールで本当に後悔したんだ。なぜ自分は町に残らなかったのかって……もう二度とあんな気持ちになりたくないんだ。だから、絶対にひとりだけでなんとかしようなんて、考えないでほしい」
「……怖いんだ」
「うん?」
「シーアがいなくなってしまったらと思うと、ものすごく怖いんだ。もしそんなことになったら、私はたぶん私のままじゃいられない」
彼の身体に腕を回すと、私を抱える彼の腕に力が籠る。
「シーアまで消えてしまったらと考えると、どうしたらいいのかわからない……すごく怖い」
「同じだよ」
「同じ?」
「わたしも、アウスが消えてしまうことが、怖くてたまらない。また君がいなくなってしまったらと思うと、一時も離れていたくない」
「シーア……」
「──約束しよう。わたしたち2人とも、お互いに消えないと。黙っていなくならないと。ひとりで抱え込まないと」
シーアが両手で私の顔を挟み、目を覗き込む。今は、吸い込まれそうに黒いけれど、本当は紅いシーアの目。本当はとてもきれいな、最高級のピジョン・ブラッドよりもきれいなシーアの紅。
「約束する」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
シーアはやっと、安心したように息を吐いた。私はシーアを抱く腕に力を込める。細く見えてしっかりと筋肉の付いた引き締まったシーアの身体は、とても暖かい。
……シーアのことは絶対に護る。召喚主が何を考えていようと、絶対に護るのだ。そして、私も消えたりしない。シーアを悲しませることはしない。
もう一度唇を重ねる。私たちの影がひとつになる。
──優しい顔で、懐かしい声が幼い私に語りかける。
「諱は、何があっても絶対に誰にも明かしてはいけないよ、いいね?」
「どうして?」
「お前のすべてを表すものだからだよ」
「すべて?」
「そう。これはお前の魂に刻まれた名前だ。知られてしまうと、お前のすべてを支配されてしまうからね。だから、知られちゃいけない」
「わかった。約束するよ。絶対誰にも言わない」
「いい子だね。では、お前の諱を告げよう。お前は……」
ぼんやりと目を覚まし、部屋がすっかり冷え込んでいることに気づく。息がかすかに白い。
まだ外は暗く、鐘は鳴っていないけれど、北方の冬の夜明けは遅いから、もうそれなりの時間のはずだ。
夢を見ていたけれど、よく思い出せない。思い出せないのに、とても懐かしい声だった。柔らかく、穏やかで、優しい……私の耳に“それ”を囁いたのは、いったい誰だったのだろう。顔も声も何もかもが朧げで、印象すらも掴みどころのないまま滑り落ちて、私の中には何も残らない。
「アウス?」
軽く伸びをしたら、昨夜、あれからそのまま一緒に寝てしまったシーアが目を覚まし、私を呼んだ。
「おはよう。今日も寒いね」
薄く微笑んで、シーアの顔を見る。シーアの体温がとても暖かい。大丈夫だ、ここにシーアがいる。
「どうしたの?」
「……夢を見たの。覚えていないんだけど、懐かしい夢だったと思う」
「そうか」
シーアは優しく私の背中を撫でる。
私が忘れてしまった私は、いったいどんな人間だったのだろう。少しくらい覚えていたかった。今の私と、そう違わない私であればいいのだけど。
──あの召喚主に対抗し、退ける方法を考えなきゃいけない。わたしとシーア、ふたりとも消えずに残るために。